第二話 氷の妖精に優しくしてみた

優しい幽香さん 幽香さん、優しくしてみる

春の陽光、雲なき晴天の下。霧の湖と呼ばれるその水場は青空に合わせたかのように、珍しくも清々しく晴れ渡っていた。
いや、或いは邪魔な霧は、彼女の勘気に触れることを恐れて逃げ去っていったのだろうか。来ることを知った者がそう思ってしまいかねない程の大妖怪が、今日ここ霧の湖に訪れていた。

「……あの子、居るかしらね」

件の妖怪は、強い日差しを日傘で遮りながら、赤い瞳を辺りに巡らす。
よく照った湖面を望みながらも瞬きせずに、視界に入ったビリジアンの毛髪を退かしながら、その気になればきっと千里も見渡せるだろう視力を持って、彼女はちょっと際立った妖精を探していた。
自然溢れる湖面上。当然妖精は沢山居て、基本の五色の中でも殊更青みがかった色彩がうるさい。しかし、紛らわしい最中でも、一際尖ったものは自ずと円を作らすものであり、探すのに難いことはなかった。

「見つけた」

彼女は薄く、微笑んだ。薄桃色の唇、その端の綻びは、弧月を思わせる。形作った優雅な曲線はアンテロープ・キャニオンの侵食美すら想起させた。
しかし、多く花鳥風月の美を纏いながらも、彼女は正しく花だ。生気溢れた少女の美の盛り、それを体現しながらも、枯れない一輪。
そう、霧の湖にやって来た妖怪とは、風見幽香であった。

その場に居た妖精たちが感じたのは悪寒。余りに恐ろしいものがこの場に来るという予感が、彼女らを襲う。身体は震えて、脳の中のレッドアラートは逃避を促す。
勿論、それをもたらした者――幽香――が威圧的に妖気を溢れさせているという訳ではない。ただ、異変時ということで興奮して我を忘れてでもいなければ、力の差というものを感じるのに、脆弱な妖精達は敏なのだ。
最強の妖怪と、最弱の種族。その差は余りに大きいものである。敵わなければ、逃げるしか出来ることはない。
水色の妖精を中心としていた輪は、直ぐに崩れて、そして二匹のみを残して妖精の群れは次第に消えて行った。

「皆どこ行くのー?」
「な、何か変だよ……」

鈍感。それは、力あるものにのみ許される。そして、霧の湖の中心に残った二匹の妖精――チルノと大妖精――は同種の中では破格の存在ではあった。
だから、彼女達が感じた怯えも少なかったが、しかし妖精の中でも最強の部類でありここら辺の妖精たちのリーダーであるチルノを放ってまでして、一目散に取り巻きの妖精たちが逃げ出すことは珍しい。
ひょっとすると、こんな真っ昼間から、力のある妖怪でも現れたのか。いや、それにしては未だ妖気が少しも感じ取れない。なら何なのだろうと、垂らしたサイドテールを泳がし辺りを見回していた大妖精は、原因を見つけて飛び上がった。

「わわっ。チ、チルノちゃん!」
「どうしたの、大ちゃん?」
「わ、私先に行くね!」

そして、一番の遊び友達である大妖精までもが、チルノを置いて、逃げ去っていく。危機感の薄いチルノは、それをボケっと見送るばかり。
そんなことであるから、チルノは容易く幽香に捕まるのだった。

「こんにちは」
「あれ? んーと。確か、あんたって幽香って言ったっけ?」
「そうね。当たりよ」

そして、くるりと振り返ったその先には、この上ないくらいの大妖怪が一人。しかし、チルノは慌てず騒がずただゆっくりとその名前を思い出した。
普通ならそれは無謀。しかし、チルノはどんな相手がやって来ようとも逃げる必要を感じない。なにせ、彼女にとって自分は最強なのだから。
普段共に戯れている妖精達の中で図抜けているのであるから、ある程度自信を持つのは当然であるが、チルノは必要以上に自分を過信しているところがある。
人間の子供程度の知能を持つ妖精の中でもチルノは単純で、悪く言えば少しバカな方であるから、思い込みが激しくなってしまっても、仕方ないのであるかもしれないが。
しかし、存外井の中の蛙は可愛らしいもの。幽香はこのちっぽけな妖精を殊の外気に入っていた。

「ねえ、幽香。何でか知らないけど皆、急にいなくなっちゃったのよ。湖が昼間こんなに晴れているのは久しぶりだから、色々遊べるね、って何をするか話しするために集まってたのに。どうしてなんだろ?」
「どうしてかしらね。私はここに来たばかりだから、確かには分からないわ」
「そうかー。まあいいか。じゃあ、幽香でいいや。一緒に遊ぼうよ」
「ええ。いいわよ」

幽香は少しも悩むこともなく、驚くほど簡単に子供の冒険と大差ない次元の妖精の遊戯に参加することを了承する。
勿論、幽香が水切りに虫取り、良くて弾幕ごっこくらいの小さきものの遊び自体を楽しみにしているわけではない。
ただ、チルノに優しく一緒してあげたその先に、どんな楽しみがあるのか、それが気になり共にあろうとしたのである。

魔理沙に優しくした後に、幽香はちょっと考えた。確かに、優しくして恥ずかしがらせるのも悪くはない。しかし、もしきちんと相手に優しさを受け取ってもらった時に、どう自分は感じるのだろうか。
それが気になり、明らかに謙遜や照れとは無縁そうな純粋な存在を脳裏に幾つかピックアップし、その中でも自身を恐れず更には出会うに易い存在へと向った、ということである。
選抜されたチルノはそれと知らず、暢気に顎に小さな指を当て、少ないレパートリーから遊びを選んでいるようだった。

「何がいいだろー。隠れんぼ……は、あいつらと一緒にやったからいいや。鬼ごっこしよう! 幽香が鬼ねー」
「私としては、もっと大人しいものでもいいのだけれど、まあいいわ。それじゃあ、鬼の真似をしてあげる」
「わー。なんだか幽香からすっごい気配がするぞー!」

鬼ごっこ、それこそ古い知り合いの物真似ということで、平均的な鬼に似せた妖気を発しながら、幽香はチルノを追いかける。
遊び、であるからには幽香も本気を出さずに、優しいスピードで遮蔽物のない湖上を滑るように後を続いた。チルノは、迫ってくる冗談のようなレベルの妖気をきゃいきゃいと楽しんでいるが、傍から見ればそれはあまりに異様である。
木の影から覗く妖精たちからは、幽香があまりに恐ろしく、またそれから余裕を持って逃げるチルノが頼もしくも見えて。余談ではあるが、これからしばらく、チルノの取り巻きが増えて、纏め役の大妖精が困惑するという事態が起きたりする。

「あー、楽しかった!」
「それは何よりね」

結局、鬼ごっこは逃げるチルノに完全に速度で負けていた筈の幽香が、先読みを駆使したのかどうやってか上手に捕まえて終わった。
元気が有り余っているためか、次から次へと体を使う遊びを提案するチルノに、幽香はそれもいいけれどと、上手く宥めて色々なことをやらせてみる。
綺麗な石探しに、幽香主導の異常に豪奢な土の城作り。それから、近くに居た淡水に棲む人魚に歌声を採点してもらいもした。
更には水が欲しいと幽香に喋りかける近場の花に、二人で水をあげることを遊びとしてみたりして。
物足りなくはあるが、チルノと共にあった時間は幽香にもそれなりに楽しめたものだった。

「私はここに住んでるんだけど、そういえば幽香って何処に何時も居るの?」
「夢幻館という館の主を務めていたこともあったけれど、今は四季折々の花を一番楽しめるような場所に作った別荘を点々としているわ。近頃は、太陽の畑の別荘に落ち着いているわね。夏に沢山向日葵が咲いているところなのだけれど、知っているかしら?」
「知ってる! そっか、幽香の家はあそこにあるんだ……ねえ、今度行ってもいい?」
「勿論」
「わーい!」

幽香の家にどんな楽しみを想像しているのか、チルノは眼前の優しい妖怪と何時でも遊べるということを喜ぶ。そんな気持ちがあまりに高まりすぎたのか、チルノはそのまま幽香に抱きついた。
春先の未だ肌寒いこの頃、冷え冷えとした氷精チルノに纏わり付かれるのは、普通なら眉をひそめるところ。しかし、幽香は平然としたまま受け止める。
それどころか、常人なら凍えてしまう程の低体温を気にせず、手近の柔らかいアイスブルーの髪の毛を撫で回しすらした。

種族も容姿すら全然違う二者は反発することなく、他を寄せ付けない程に身を寄せ合いながら湖畔で目立つ。
それが面白くなかったのか、二人に近づく姿があった。翅によって飛び、幽香のものと似て非なる緑髪を風に流しながら、再びチルノの元へとやって来たのは大妖精である。
地に降り立ち、恐る恐る近寄った大妖精は、ためらいがちに口を開く。

「し、失礼します。遠くから見てましたけれど、チルノちゃんと幽香さんって、仲良しだったんですね」
「友達だもん」
「そうね」

闖入者に気付き、恥ずかしがることも躊躇うこともなく離れたチルノと幽香は短く応じた。
二人の気が合っている様子にも二つの口から出た内容にも、大妖精の心はかき乱される。

「い、何時から……ですか?」
「確か、今日からかしら」
「そうだったっけ?」

幽香は淡々と事実を語る。だが、もう随分と幽香と仲を深めた気がしているチルノは、よほど相手が合わしてくれでもなければそれが一日で起き得ることではないことを本能的に気づいており、そのため日にちの感覚を幾分か失くしていた。
二人の合わない会話を聞いて、大妖精は黙して考える。確かに、今日までチルノと幽香に接点はなかったのだろう。
それは、四六時中ではないが、チルノがここ霧の湖に居る際には共に有り、会話を交している大妖精であるからこそ分かること。外であったことを素直に喋るチルノが、大妖精に幽香のことだけをわざわざ隠していたのでなければ、それは間違いない。
勿論、友達であるからには大妖精はチルノのことを信じているが、しかし、彼女の人を見る目までは信じきれないでいた。

「納得できません……どうして、急にチルノちゃんと」

そう、相手は極めつけに危険な大妖怪。一般妖精でもある自分が知っている程の要注意人物、風見幽香が少し範疇をはみ出しているとはいえ、妖怪以下のチルノと友誼を結んでいることなど容易く信じられるものではない。
また、孤高の人と聞く幽香とチルノの友情が、大妖精が逃げて隠れて覗いていた、特に大事もないようであった二・三時間の間に育まれたなんて、あり得るのだろうか。
ただ遊んだだけで幽香と仲良くなれるのなら、彼女が危険度極悪と呼ばれたりしない。ひょっとしたら、何か、性急に近寄る理由があるのか。チルノを利用するような、何かが。

「んー?」

幽香の隣で、大妖精の表情の変化に疑問を持ち始めた様子の青い姿。その手は、幽香と結ばれている。
二人の、仲良しな様子から、大妖精も邪推ではないかと思わなくもない。しかし、自分程度でもこのくらいの想像は出来るのであるから、それより高度な存在である幽香は追いつけない程複雑なことを考えられる筈なのだ。
だから、何を考えているのか分からなくて、怖い。出来るなら、近寄って欲しくない、とまで思う。恐れ、それこそが大妖精の中の幽香の微笑みの奥を錯覚させていた。

そんな、大妖精の懊悩を、幽香は笑う。

「ふふふ。私が何か企んでいるかいないか、不安だと?」
「……はい。でも、気を悪くしないで下さい。チルノちゃんは相手をすぐ信じちゃうから、間違っていても私が代わりに疑わないと、って」

そう、大妖精は無理をしている。本当は他の妖精たちのように、何も考えずに遊びたくて仕方ないのだ。
しかし、幼くて危なっかしくて目を離すと何時一回休みになるかも分からないチルノの面倒を見るからには、平素から大人ぶらなければならなかった。
そんな子供の背伸びを見て、幽香は何を思うだろう。取り敢えず、彼女が大妖精の言葉に苛立つようなことはなかった。

「確かに私は企むことだってあるけれども、今回は潔白よ。そもそも、自力で大概のことは成せるというのに、わざわざこの子を利用するようなことはないでしょう?」
「そう、ですか……」

人の上に立っていた過去の頃には策謀を巡らしたこともあった。しかし、大妖精には知る由もないが、自力で物事を成すことが、このところ幽香のマイブームであったりする。
だから、優しくしたことで、起きた結果もその身一つで受け止める覚悟があった。この場合は縁者の疑問。それを解決してあげるのも悪くはないと、幽香は思う。

「言葉だけで納得させるのは難しそうね。なら、証明してあげましょうか」
「っう!」

さて、妖精程度にも解りやすく十分な力を魅せるに容易いのは、弾幕ごっこ辺りだろうか。
幽香は抑えに抑えていた妖気を発しながら、その力に顔を青くしている大妖精を下に見て、ふわりと飛び立とうとする。
そんな幽香の袖口を、ちょいと引っ張る者があった。

「幽香。大ちゃんを虐めないで」
「大丈夫。貴女との友情を壊さない程度には優しくしてあげるから」

安心させるようにチルノのくせっ毛を撫でてから、幽香は青く澄み渡る空に浮かび、湖上というステージを選んだ。
そして、幽香は追いかけて飛んで来る大妖精に宣言をする。

「そうね……どうせ力を魅せるには圧倒しなければいけないのだから、私の攻撃の機会は一度でいいわ。それだけで私は貴女を墜とす。勿論、貴女は普通の弾幕ごっこのつもりでかかってきなさい」
「……分かりました」

大妖精は、幽香の言を安堵すら感じて飲み込む。対してからずっと、ヒシヒシと力の差は感じられている。弾幕ごっことはいえこれではハンデがなければ戦う気すら起きやしないだろう。
ただ一度の攻撃、それがどれだけ苛烈なものになるか分からないが、しかし一度きりならば避けられなくもないのでは、と大妖精は思う。

「でも、やっぱり怖い……幽香さんが攻撃する前に、墜とさせてもらいます!」

そして、再び恐怖から大妖精は発奮する。
全力で精製するは、赤き炎弾の群れ。力の無さ故か、工夫を持って広げることは出来なかったが、その物量自体は大変なもの。赤き花火は昼空の青に映え、湖面でその美体は揺れた。
勿論、それだけで幽香を仕留めきれるものではないと、大妖精も分かっている。力を出し惜しみする理由などはなく、彼女は持ち前の特異な力を持って、幽香の前から移動した。

「えいっ」
「へぇ……」

そして、取ったのは幽香の後ろ。首を動かし、幽香は大妖精のワープ、瞬間移動を認めた。
勿論、移動するなり発してきた弾幕をもハッキリと目に映し、挟み撃ちされながらもしかしゆっくりと幽香は回避する。
大妖精が新たに発し出しているのはチルノのものにはハッキリと劣るが、低温の氷の塊。幽香以外ならばただ避けるのも難儀するほど、密に向けられたそれらは都合逆しまから来たる炎弾とぶつかって飛沫と化した。
それは宙で飛散する。なるほど至近で飛散するお湯に冷水を避けるというのは大変だ。勿論水程度で墜ちる訳ではないが、びしょ濡れになるのは面白くなく、だがそちらに気を取られてしまえば他の弾幕を避けるのは難しい。
工夫されたそれに、幽香は面白みを覚える。そして、幽香が顔を向ける度にその場から消える、移動方法に対しても中々に。

大妖精は、短距離であるがワープを得意としている。それは、他の妖精には中々出来ない芸当だ。
しかし、妖精――何処にでも存在し得る自然な存在――であるからこそ遍在の概念を利用でき、大妖精ほどの力を持ってすれば、転移は可能となる。
生温いが、様々な場所から来る火や氷は、複雑怪奇な模様を創り、ぶつかり合って様態を変えてすら幽香の目を楽しませた。赤青二色の変化は、妖精に表現できる美の極みに近いものだ。
しかし、それを持ってしても幽香を苦しませる程には届かず、そして余裕を持った幽香は大妖精の力にすら手をかける。

「面白い芸だけれど、夢月や幻月のもの程高度ではないわね――それこそ、私にも可能なくらい」
「え? あっ……」

それは一瞬。弾幕の最中で揺れていた筈の幽香の声が、気づけば自分の後ろから聞こえ。そして、振り向いた途端にお腹に強い衝撃が。
花状弾幕一つ受けただけで、意識がブラックアウトした大妖精は、そのままぽちゃんと湖の中へと墜ちた。

「大ちゃん!」
「大丈夫よ、加減はしておいた。気絶は一瞬でしょう……と、まあ、言葉で止まるような子ではないわよね」
「へ? あ、あれ、チルノちゃん……わぶっ!」

二人の弾幕ごっこを不安げに眺めていたチルノは、大妖精が墜ちた途端に、その場へ突入した。そして、直ぐに気を取り戻した大妖精へと突貫して、二匹共々水中へと没する。

「……ぷはー。良かった、大ちゃん生きてた!」
「生きてた、じゃないよ。酷いよチルノちゃん!」
「わー、大ちゃん、ほっぺ引っ張らないでよ!」

やがて、水から顔を出した二匹は、喧嘩を始めた。水を掛け合い、頬をつねったり、引っ掻きあったり等をして。

「チルノちゃんの体当たりの方が幽香さんの弾幕よりずっと痛かったんだからっ、馬鹿馬鹿! バカチルノちゃん!」
「何だとー、バカってそう言う方が……あれ、大ちゃんはバカじゃないぞ?」
「っ、もう、チルノちゃんったら……ふ、ふふ」
「あー、大ちゃん笑ったなー」

しかし、途中でチルノが疑問を覚えてしまったがために、罵り合いが成立せず、むしろ笑みが二匹の間に浮かんで諍いは終わった。
暫しの間、笑顔で二匹はじゃれあっていたが、先にチルノが幽香のことを思い出して、岸辺を見る。すると、そこには極上の笑顔を湛えた幽香の姿があった。

「そうだ、幽香のこと忘れてた」
「終わったかしら?」
「あ。ご、ごめんなさい!」

二匹、特に大妖精は焦りチルノを連れて飛び上がって、幽香の近くへと降り立つ。
湖から上がったチルノと大妖精はワンピースの端を絞って水を出す。妖精の服であるからだろうか、水の滴りが次第に止んで直ぐに乾いていくのは不思議な光景だ。

「それで、感想は?」
「幽香さん、私の弾幕全部を余裕で綺麗に避けていて、もう、とっても格好良かったです! それに、私の得意なワープで倒されちゃうなんて、思ってもみませんでした……」
「まあ、分かったでしょう? 貴女くらいに出来ることなら私にも大体は可能なのよ。まあ、今回は同じ妖かしのものであるから、という理由はあるけれど」

表情をころころと変えながら感想を語る大妖精に、幽香は軽くからくりを口にする。妖精、妖怪、共に思われて存在する、実存から離れた存在だ。
特に妖怪は、不安に存在するもの。何処に居るのかわからない、ならば何処にでも居るのかもしれないという恐れ。そも、目の前に居た筈の異形に、後ろから声を掛けられるなんて、怪談では当たり前のことだろう。
だから、妖怪の中の妖怪、幽香にとって自身の居場所を不明へとずらすことなど楽なものであったのだ。

そして、幽香は、続けた。

「それどころか、私は究極とされる魔法の数々を会得している。自然から少しはみ出した程度の妖精一匹の力を、宛にすることなんてない」

見せつけるように、幽香はゆっくりと手を前へと持ち上げた。すると、掌に洗練された六芒の魔法陣が浮かび上がる。そして、彼女が右手を湖面に向けた瞬く間に、その先の空気に水に、全てが凍てついた。
大妖精が息を呑む、その間にも氷結は広がる。幽香が行使してから手を振り魔法陣の光を消す、その間は一秒もなかったというのに、湖上の全面はアイスコートに変貌していた。

「す、凄い……」
「そして、これは魔力で創り上げたものであるから、状態変化も自由自在よ」

幽香が指を鳴らすと、途端に氷の世界は、それが嘘であったかのように静かな湖へと戻った。
大妖精は魅せつけられたあまりに大きな力に驚き何も言うことは出来ない。だが、黙って全てを横から見ていたチルノは目を白黒してから、大声を上げた。

「幽香ったら、私と同じね!」
「まあ、コレも私の力の一端だから、そうとも言えるかしらね」

凄まじい力を恐れずに、氷の精はそれが同種のものであることを大喜びする。
他の妖精も冷気を多少は使えるとはいえ氷を操れるほどの者はなかった。しかし、種族も方法も違うとはいえ、氷という得意な分野で自分を同等かむしろ超えかねない存在が居るなんて。
それはなんて嬉しいのだろうと、チルノは思った。

「あはは、私ったら最強だけれど、幽香も一緒。一人ぼっちじゃないんだ!」

知らず、興奮から涙を零し、チルノは笑いながら言った。涙の雫は冷気によって落ちるまでに固まり、霰の如くにパラパラと地面を叩く。
涙が滴と濡れないその個性は、果たして哀れなものなのだろうか。一度、冬の妖怪に否定され、憐れまれた経験は、チルノの心に罅として残っている。

「ええ」

しかし、幽香は落涙の音を煩わしく思って、肯定しながらチルノの頭に再び触れた。今度は、可愛がりもせず右手を乗せながら、熱を伝えるばかり。凍える痛みをまるで無視して。
そして、幽香の温かみは、チルノの心のひび割れを溶かして紛らわすことに、成功する。

「嬉しいな、うれ、う……うああぁっ!」

気持ちと共に力が暴れ、チルノの涙は幽香の衣服を流れた後に、濡らして凍らす。
しかし、チルノが流す滂沱の涙を受け止め、決して幽香は拭わない。彼女にとっては苦手な、子供の涙。だがそれが子を成長させることもあると知っているから。

「チルノちゃん…………幽香さん」

黙して語らず、しかし触れることで雄弁に隣にあることを示す、幽香のそんな姿を見た大妖精は、自分が抱いていた猜疑心を恥ずかしく思った。

「それで、あの。幽香さんは結局どうしてここまで来て……チルノちゃんと遊んだのですか?」

泣き疲れたのか、少し経ってからチルノは眠った。大妖精が運ぶことを提案したが、それを断り幽香はその場で膝にチルノの頭を乗せ、上から覗いている。
穏やかな寝顔を、何が面白いのか、じっくりと。

「……そうね。偶には違う光景が見たかったの。そのために、変わってみた。それだけね」

僅か、風によって水色の前髪がまぶたに掛かってチルノがむず痒そうにしたために、幽香はそっと髪を整えてあげた。
その自然な優しさは、とても作ったものとは思えない。最低でも、間近で様子を見ていた大妖精は噂の印象を捨てて、芯から優しい人であるのだと決めつけていた。

「違う光景、見られました?」
「ええ。面白かったわ」

だから、彼女は幽香がチルノを観ながら違う意味でも笑んでいたことに気づけない。


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