属する希臘の神話に顕著であるが神ほどの次元違いが下手に触れれば、下位の秩序は瞬く間に崩れてしまうものだ。
また自らが三界の地獄を支配するほどの桁違いと自認しているのであれば、下手に動くのは躊躇われるのが自然なこと。
こういう時は、最強とはいえ妖怪でしかない風見幽香の身軽さがヘカーティア・ラピスラズリも羨ましくなるのであった。
「そうねん……」
風見幽香に接触するのは、決めている。
とはいえへカーティアほどの者が動くには順序というものがあり、そしてまたかの月の民「嫦娥」への嫌がらせもどうせならしたいなと思っているからには単なる策となりようもなかった。
しかし何だかんだ、力尽くで何ともなってしまう存在が頭を使うのは楽しいようで、ああだこうだと単の頭を左右に彼女も考える。
「手頃の、者で……ううん」
地獄で独立独歩を行うはみ出し者の彼女とはいえども支配者であるからこそ手勢はあまりに多ければ、精鋭に過ぎる。
単騎で地獄を顕すに容易いそんな者どもを、しかし一部でも余所へと送ってしまえばそれはもう戦争をふっかけていると勘ぐられてもおかしくない。
別に、ヘカーティアもしばらくは暢気に世界の成り行きを見守るのを仕事としようとすら考えていたのだ。
花一輪のためにいらぬ戦争を呼び込むなど、それこそ神々の価値観的にはアリだが、巻き込まれる者どもにはたまったものではないだろうから、渋々なし。
「ふむん……こういったところでは、本当に風見幽香が羨ましいわねん」
となると、雑魚を上手く働かせて大事を起こすなんてしなければいけないなあ、と考えて台上のチェス盤の前にて神も顎に手を当て出す。
神が偉いのは当然だ。何せ、司るという立場があるから。そして、権能を自由に出来るほどの次元違いだからこそ、強い。
その点、妖怪という段位に留まったままに最強へと手を届かせたあの異常がどれほど常軌を逸していることか。そして、その自由振りは羨ましいことこの上なく。
「はぁ」
溜息のみで彼女は顔に美の頂を表す。でもそんなの多面の一つであれば、今に役立つこともなく。
どうにもやってられないわねんと溜息吐くヘカーティアも、実のところ地獄の中では最高に自由ではある。
たとえば絢爛豪華を地獄にて纏いながら、その上で奇妙なセンスのTシャツを選ぶ、洒脱さ。そして、三相の女神らしく月や異界など地球に留まらぬ伝手の広さを持っているのも特徴だ。
故にこそ、地球の地獄で悩める彼女は。
「――ヘカーティア」
「そうねん。貴女が居たわね」
「そうよ。貴女には私が居る」
同時に月で声を掛けられて、異変を起こそうと動いている、自分と異なり酷く純粋に怨んでばかりいる同士と月の地獄にて意図を繋ぐことさえ出来るのだった。
ちょっとこっちの私は宇宙的なセンスよねと考えながら金髪の下変わらぬウェルカムヘルな服を揺らす女神。
彼女は怒りを過ぎて純粋な瞳になった女性、純狐と握手を交わす。変わらぬ、変わらなすぎる装いがあの日の怨みを思い出させ、ヘカーティアの気持ちを焚き付かせていく。
「あたいも居るよ?」
「私が用意したのだから、そうねん」
またその周囲には小さくも偉大な一歩を表すレッドストライプを纏った妖精が飛び回る。
象徴的な彼女は格としては大妖精、つまり統制できる個体でありクラウンピースという名前すらも付いていた。
そして、そんな彼女だけでなく周囲には多くの妖精共がぶんぶんとしているのだから、ここらは月にしては随分と命に汚れている。
また、これより更に穢して我らがあげようとしているのは明白だった。
今は月を載せながら、月の地獄の女神でもあるヘカーティアはこう呟く。
「ふふん。考えるまでもなく三つの私は一人だからこそ、楽なものよね」
「なるほど、貴女は目的さえ明白であれば三身がそれぞれの方法で近づくから……」
「そう。今回は一番この私が成就に近そうね」
どこか上の空の瞳を持った美女の前で、神は満足に手を広げる。
なるほどそれはそれは、にんまりと女神が笑みを浮かべるには充分なものが月にて揃っていた。
これならば憎き嫦娥、引いてはアレを崇める月の民共へのいやがらせには充分。
復讐までできるかは、それこそ月の民共がどれほどの余力を隠せるかにかかっているが、まあ傍観するのも面白く。
「それじゃあ……はい」
「はい」
「友人様? おお……」
謀ったとおりに純粋無垢な怨みの化身、純狐はそっとテーブルの隣に控えていたクラウンピースを撫でて、純化させた。
明らかに別格の命の輝きそのものになった雑魚妖精は大きな瞳をぱちぱちとさせる。
穢れそのものとなったクラウンピースは、呟く。
「なんだかあたいの身体が変な感じに……」
「さて、貴女は一体どうなった?」
「イッツ、ルナティック!」
「ふふふ……良い感じねん」
何やら変な様子に興奮している我が愛すべき自然の一部に、ヘカーティアは悪く微笑む。
そんなのですら、慈母の色すら持っているから神って怖いわねえと思う純狐。
とびきりの神霊にまで畏れられるなんて嫌なものねん、と頬を紅くするクラウンピースの水玉帽子をふわりと撫でつけてから、ヘカーティアは。
「さーて。これでどうしようもなくなる月の民は、きっと幻想郷辺りに移住の地を求める……最悪戦争ね。ふふん。風見幽香は、どっちに優しくするのかしらん?」
まあ、どちらにせよ結果は私との敵対なのだけれど、と内で零す。
常に世界は神の掌の中であって、そうでなければならない。
それをはみ出て突き出る最強の花の妖怪などには、ぐしゃりと身の程を教えてあげるのも面白い。まあ、どちらにせよ会って是非を判断してからねん、等とも思う。
そんな肝心要な嫦娥への復讐の他に余計なことを口走る無敵の神様を横目に。
「風見幽香?」
無名の存在、純粋たる瞋恚はその名ばかりを記憶したのだった。
生き物が誇るのは、その変化だ。
春夏秋冬。旧き日本をベースに成り立っている幻想郷には明白な四季が存在している。
春になれば草木萌え、夏になれば緑深まる。秋にて紅葉に別れて、冬には雪に軋む音を聞く。
そんな季節に趣き添えるのが花々であるのは、誰もが感じていること。
そして、そんな花束の世界にて極まった一輪が、世話する一際大きな花卉を見つめながら呟いた。
「暑い日ね」
彼女の名前は、当然至極に風見幽香。
夢幻に揺蕩った過去を忘れて、幻想の地に生きる彼女はそこかしこに優しくしつつも住み家を定めはしている。
太陽の畑。数多の妖精が寄りつく草原にて咲き誇る向日葵の世話をするのが幽香の日常だ。
今も一際大きな、それこそ彼女より背の高い向日葵に如雨露で水を与えながら暑気を覚えて空を見上げるのだった。
当たり前のように隣り合う、氷精が指を差して言う。
「この子、弱ってるわね!」
「ええ。だからといって、チルノ。貴女の下手な助けは余計よ?」
「分かってるわ! 枯れるのもこの子のありさまよ!」
「生き様、かしら?」
「そうとも言うわねっ!」
日に向く花。向日葵とは陽光を一身に受けて輝きを鮮やかな色に変えている単で大きな花である。
いっそ尊く感じるほどに並べて空を見上げ続ける向日葵は、だからこそ弱り崩れ落ちた姿が哀れっぽくて悲しい。
だが、妖精チルノと《《花の妖精》》だった妖怪幽香はそうは思わなかった。
これは実際命という使命のために戦い続けた一輪だ。くすんだ黄色も、いっそ褐色に近づいた葉の緑だってこの子の自然。
「分かっているなら、いいわ」
厳しくも優しくも、ありのままに。
助けを求める口がないのは、彼らにそれが要らないからだ。
そうまで断じる気には流石に幽香もないが、しかし願わくば花々の命に後悔がないよう、と常々思ってはいた。
いくら最強だろうとも少女の掌は、大きくない。どうせならば生き生きと、と花々に水や肥やしを運ぶ手伝いはした。
だが、咲き誇ることだけでなく滅び食まれることですら命ならば、どこにも無為はない。
故に、幽香は過度に花に無理をさせることはなかった。
持ち前の能力によって花を操れるとはいえども、不死不滅にさせることだけは決してなく。
「綺麗ねー」
「そうね」
だからこそ、風見幽香はそれらから目を背けることもなく、終わりまでをその目に記憶する。
それが、自分なんかには出来ない潔さであることを、知っているから尚。
「迷路みたい! 幽香ー。こっち、こっち!」
「ええ。貴女が居るわね」
雲の加減にて陰る、日。それでも向日葵は天を仰ぎ続けていた。
その間を駆け巡るのは、チルノにとって楽しさがある。右に左に向日葵から顔を出し、微笑みを続ける幽香の前で笑った。
「あ」
だが、しばらくして足下にはらりと落ちた傷みきった葉を見て、何となくチルノはそれで遊ぶ気にもなれずに幽香を見直した。
案の定、全てを見つめていた風見幽香は微笑んでいて、それはまるで何もかもに自分が関係ないと偉ぶっているようにも彼女には感じたが。
「違う」
しかし、そうではない。チルノの目には明らかに、風見幽香はとても悲しげに映っている。
「幽香っ」
よく分からなかった。いいや、そもそも何もかもがよく分からなくて怖いから分かった振りしてえへんとしているのがチルノの本性。
だが、自らが、冷たくて誰もが嫌がる体温を持つチルノが、神をも引き裂き得る爪持つ幽香の手の平を思わず握った理由は、明白。
「怖くないよ?」
「……そうね」
自分が怖いのなんかより、友達が怖がっているのがずっと嫌だから。
そう、彼女は私と同じ永遠だ。そんなの最初から分かっている。
氷を使えるのも一緒だけれど実際はりぼての私と違いこの子は本当に最強なのかもしれない、でも。
それがどうした、この子は私の隣にいる、誰かだ。
そして、きっとあの日泣いていた、あの子だ。
『ぐす。私、さいきょーになるね!』
チルノは賢くない。そういうものであり、でもだからこそ必死に食らいつく負けん気を持っている。
そして、もしそんな彼女が手放してしまったものを、何時までも忘れられているものだろうか。
馬鹿にするなと、少女は霞の記憶から目の前の幽香にあの日に離れた少女の姿を見いだす。
「っ!」
凍った時は融け、彼女は幽香が実質一番最初に自らに優しくしたいと思った故を思い出す。
チルノのマイナスですら凍らないプラスを手に入れて来て、でも微笑みしかみせてくれない意地悪な子。
命とは変化するものであり、或いは不変の妖精から変ずる妖怪を選んだ彼女がここまで変わり果ててしまうことだってあるのかもしれない。
でも、だからこそ哀れでもなければ悲しいのも違う。あの子がずっと独りぼっちだったというのは悔しいけれど、今再びに風見幽香としてこうして手の届くところに居てくれるのならば。
「幽香。私はここにいるよ」
「そうね」
「だから、泣くなよお……ぐす」
「あら」
突然の落涙に、何よりも強力を秘めた白磁の指先が、悩む。
左手は繋がっていて、なら優しくするためにもこの手はこの冷たい少女の頭を撫でてあげるのが当然だろう。
だって、風見幽香は人間の友の次に、或いはそれ以上にこの子に優しくしたかった。
だから、ぽろぽろと頬からはがれ落ちるように零れる氷涙を止めるために動くのこそ、正解に違いないのだが。
「ああ……」
「うう……」
でも、彼女はとてもでないが、チルノに優しく出来なかった。
それは光に輝く涙の一粒一粒が少女の想いの証に他ならなかったから。
好きとはこの子は大昔に沢山言ってくれた。だが、積年の忘却の後に湧き上がってきたこの想いはあまりに質が違う。
ああ、私の代わりに泣いてくれている、この子をどう止められるというのか。
最強という独りぼっちだった風見幽香には分からない。
「ごめんなさい」
「う、ううん……」
この愛を容易く慰めてしまうのは、それこそ優しくなく、何より無聊。
だから謝るのも違うのだけれど、しかしチルノはしばらく涙をぽろぽろ零して、時にバッタの背中を凍えさせたが、それにも終わりは来る。
「ぐす……幽香ぁ」
「チルノ……」
泣き止んだ彼女は縋り付き、そこでようやく幽香はチルノに優しく出来た。
冷たい、凍えそうな零度以下の温度をしかし気にも留めずに抱く最強。それが嬉しくも、どうにも辛いのが彼女には嫌で。
「潮時、かしらね」
花は咲き、散る。
そう、何もかもに終焉というものがあり、命の変化の果てには死というピリオドが必ず付くもの。
一回も休むことなく勝つ生を続けて妖怪に変じて最強にまで至った元妖精である風見幽香とて、そろそろ。
「うぅ……」
「ここらで一度、休みましょうか」
黄昏を後に用意しつつ光芒、天使のはしごが降りる煌めきの中、妖精と妖怪は一つ。
風に揺れる向日葵のざわめきは凶兆のようであり、もしくは少女へのレクイエムのようでもあった。
太陽の畑は風見幽香のための花束と言われることもあったが、その中で今一番に誰かのために頭を傾げているのは彼女ばかりで。
「ありがとう」
「すぅ……」
「あら」
高みからマイナスに向かって万感の感謝が一つ。
その返事は薄い寝息ばかりであったがどちらにせよ、今日風見幽香はこの上なく満足してしまっていて。
「ふふ」
その証拠に、今彼女はまるで向日葵のように笑っていた。
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