そのたとえようもなく白く細いたおやかな指には、花弁が一つ摘まれている。
濃い青紫色のそれを持つ女神は力任せに躙らず、ただ眺めながらこう溢す。
「あの花は、どこまで開けば満開なのかしらね」
さあ極まりの上で開いた花は、見る人に緊張感を与える程強かに咲き誇るその上に、また優しく花弁を広げているようだった。
風見幽香は、幻想の花冠である。
霊でも神でもない、ただの勝ち通して得ただけの力持ち。そんな最強なだけの花の影ですらない、花そのもののあやかし。
勝者の道に一顧も必要などはなく、故に極まったそこに残酷な精神が宿るのは当たり前のことだった。
もとより美麗は浅薄であれば、それは他者から自らを護るすべとしては足りないとはいえ、その花の尖りぶりはあんまりにも。
最強最悪。それを多くが風見幽香の妖怪性そのものとすら、思い込むくらいに彼女は他人なんてどうでもよくて。
「だからこそ、不思議よねん。あの子が、あれほどの孤高でありながら他者を見直すなんて」
三界。世界中のありとあらゆるものを飾りに存在する神、ヘカーティア・ラピスラズリはだからこそ、その変化に驚きを隠せない。
特別に高まった力でしかない、棘の塊。その程度の認識で軽く目にかけていた花から、何とも面白き発展が表れるとは。
これまで何も無いからこそ、いじめと嘯き必死に他人を攻撃することで己を守っていたのかと思えば、実際はそうでもなかった。
むしろ、今や弱者のためにすらなるその有り様は、ひょっとしたら自分なんかよりずっと女神らしくって、実に手の込んだ嫌がらせのようだとすらヘカーティアは考える。
「でも、傷つけるだけの鑑賞物から、手を取り使えるものになったっていうのは進歩と言っていいのかしらん?」
しかし、地上の女神でもあるため持つ権能のいち部を用いて閉じた片目に風見幽香を映したまま、ヘカーティアはそう呟く。
眺めれば彼女は偶に出会った妖精と人間と、騒がしいくらいに賑わいを身につけ笑んでいる。
なるほどこれは、組みやしやすい様子である。もっとも、単なる美としては大きな疵にすら思えてしまうものではあるが。
女神どころか毒花ですらあるヘカーティアは、青のような紫のような花びらを未だ手の中で遊ばせながら、こう言う。
「ある意味では歪んで、見てられないとも言えるわねえ」
別に発端から目をかけていたわけでなければ、最近まで気にしもしなかった程度。ある境にて単純力量のみ超えられたことには驚きはしたが、だからどうしたと知らん顔。
ただ美しく強いだけの無益なんて、何の役にも立たない。世界の神だからこそ結束の意味を識る彼女は、だから風見幽香を殆どのものより下には見ていた。
だが、使用品ではなく単なる美として伺ってみれば、この花はなかなかのものと評価は出来てしまう。
何一つ寄せ付けぬ、美と力の極まりと精神。数多を比して痘痕と塵と化すその様は地獄ですら裸足で逃げ出すほどの、無情だ。
己のためでしかないの、究極。染まらない白が無意義なだけとは流石に思えない程度の美観はあるヘカーティアにとって風見幽香は見て息を呑める、まあ酒のつまみ程度の価値はあったのだった。
「一般化は、ちょっとつまらないわねえ」
女神が価値を認めたもの。それが大した事ないしかし見逃す価値くらいはある衆生達と紛れて薄汚れに笑顔を見せる。
美の大衆化。自分だけが理解出来るのだと踏んで喜んでいた難解が陳腐化により広まっていく様は、人にもよるだろうがこの女神にとっては特に面白いことではなかった。
とはいえ歪んだ真珠を無価値とするにはヘカーティアの知見はあまりに広すぎる。地獄的な女神といっても多生の幸だって好きな方であれば、認められないのはいじいじした己の気持ちばかりだった。
故に、ありとあらゆる世界に存在しうる分身ではなく地獄の悲鳴の奥に身を潜めた本体たるこのヘカーティア・ラピスラズリは、つと思う。
「どうしようかしらん」
価値とは、全て。そういった小利口な理解すら忘れさせる壮絶を、もう見れないとなるともったいないなと感じてしまうのは仕方なく。
ならば、取り戻そうかとも考え、しかしそんな寄り道をしていたら本当にやりたいことが遅れてしまうと思って手を止めて。
「あむん」
おもむろにヘカーティアは大した事ない程度の花弁を口に含み、飲み込んだ。
そして、その多少のトリカブトの効果ですら障るに及ばないことを感じながら、命に感じる毒のスパイシーさだって受け止めた女神様は。
「幽香ちゃん――――世界は広いわよん?」
何となく、風見幽香の使用感を確かめようかと決めたのだった。
そぞろに歩くメガネ少女に、スマートフォン。
低くなった視線を覆い隠すように無機質な薄い板が輝く中で、周囲に注意を向けられるものなどろくにない。
また、ここ幻想郷にて己が歩みより情報に飲まれることを良しとする人間なんて、外出に慣れぬ稚児ぐらししかありえないのであれば人の波にて人にぶつかるのもまた、然り。
「わ」
「あら」
だが、異界の開花前に萎んだ程度の文化圏にて歩きスマホに興じていた少女が衝突に感じたのは、驚くほどの柔らかさ。
まるで相手は綿のような、それとも或いはむしろ中身もなにもないような無害であるような。
よく分からないが、しかし前から流石に短くも高く麗しく響いた声の反応を思うに、相手は存在する。
ならば謝らないと、とそこそこ育ちのいい娘さんはSNSの画面から顔を上げて、それを直視した。
「あ、ごめんなさい……って」
「大丈夫?」
「……え?」
さて現実的過ぎる装いのメガネ少女な彼女、宇佐見菫子という少女は好奇心旺盛な少女である。
そして、それが過ぎて神秘を暴くに足りず幻想郷という深みにまで訪れるようになってしまった哀れな子供でもあるのだった。
先に異変を起こし、結果的に博麗霊夢の活躍でやっつけられたばかり。未だ慣れぬ幻想の中で夢中に遊んでいるばかりの彼女は、偶の出会いにとびきりと出会う。
人里にて数に飲まれず、優雅に立って人に避けてもらうことだって当たり前にしながらも優しい笑顔を菫子に示す、なんだか恐ろしげな感じのする美女。
所作一つもなく芳しき淡い香気を放つ、そんな輝きの全てが彼女のために存在しているのではと錯覚してしまうくらいには優れた美貌を持つ彼女は案の定、風見幽香だった。
平面の騒々しさから突然の静かな美形に目が移った菫子はしばらく目を瞬かせていたが、そのうちに気を取り戻して、問う。
「ええと……どちら様?」
「ふふ……私は何様というものでもないけれど、強いて言うなら花には似ているのかもしれないわね」
「うん? ……花? あー! あんたレイムッチが言ってた、花妖怪……確か名前は……」
花の美に上下も思わぬ現代っ子も、しかし半ば幽香の美には飲み込まれていた様子だったがそれこそ花という言に応じ、生来の騒ぎの気質を荒立たせる。
菫子は、桜花を見つめながらも散らない花の何がいいのかしらと前置きしてから絶対に会ってはならない相手としてそれを挙げた際の博麗霊夢の表情を憶えている。
その苦々しさといったら、親の敵にですら浮かばないのではと思えるほどで、しばらく彼女も霊夢の機嫌取りに付き合った程だが。
想起に一拍。しかし言葉になる前に相手は吹風に自らの名前を並べて紹介した。
「風見幽香」
「そう! そんなヤバい奴が居るって聞いてる!」
「ふふ……ヤバい、ね……なるほど霊夢は私の本質を知っているからこそ戸惑っているのだろうけれど」
「……違うの?」
勿体ぶった話し方。そんなもの、誰がしようと苛立たしいものであるとせっかちな現代人は考えていたが、ごくりと唾を飲んで彼女は待つ。
人の命と並べれば、花の盛りの短いことこの上なく。しかし人よりも永くこの世に存在している幽香はだからこそ美として超越した。
故にこそ命と呼べないあやかしではあるのだが、そんなこと見惚れる少女には何の関係もない。
ただ、その果実よりも花色な唇が動くのを菫子はスローモーションのように目に焼き付けるのだった。
「何も違わないわ。私は確かに花であり棘でもあり……しかし今は総じて風に揺れる一輪でしかない」
「あー……どゆこと?」
少女には分からない。だって眼の前の美人さんは、花で例えられようが、刺々しくはないし今も多少の風なんて気にせず屹立している。
なんで頭いい人はこんな結論を伸ばして、それこそ全くバズりそうもない話し方をするのだろうと菫子が考えた時。
「今度は尻尾を巻いて逃げなくてもいいのよ。――――菫子ちゃん?」
「あ」
いたずらに向けられた風見幽香の恐ろしげな笑みに、ある日の忘れていた記憶が開くのだった。
石を踏む足の裏。擦過していく草の葉。それらから覚えた痛みは、一日で慣れていた。
でも、彼女が無視することばかりは子供には許せない。
『ねえ。あなたは、なんなの?』
孤独に飢えた少女は問う。そっぽを向いたままの花に向けて。
それは、優しくもしていない、ただあるだけ。人なんて一顧だにしない非情。
だが、これまでの経験上、彼女に付いていけば襲い来る妖怪変化どもから辛くも逃げられると理解していた。
幻想郷への外の世界からの神隠し。頼れるもの全てを奪われた幼子にとって、コバンザメのようについて行けば蝿のように脅威を追っ払ってくれるその存在は今親よりありがたいものだったのだが。
『何なのかしらね……』
ぼそりと、それだけ言って過日の風見幽香は求めぬ歩みを再び続ける。そしてまた、邪魔する何もかもをへし折り続けるのだった。
『ま、まって!』
これまで幼き菫子は、勝手に道を作るバケモノを頼りに後ろをついて歩むだけ。
振り返らぬ薄情な美人の顔を、だから子供は覚えることさえ出来なかったけれども。
『行きなさい』
『えと……』
ただ、最後の最後にちょうど捨てる場所が出来てよかったわと溢す幽香は、スキマを前にそんな端的な命令だけ彼女にした。
本来、愚図る理由などない。確かに何やら不定形が覗ける空間の隙間に潜り込むのは勇気が要ったが、しかし菫子の優れた直感は今直ぐそこに身を預けろと叫んでいる。
沈黙を他所に平原に、走る風。数多が頭を垂れる中、妖怪と子供は一度ばかり見つめ合い。
『いや』
何となく、菫子は別れを惜しんだ。
普通に思えば神隠しされてから幽香を見つけてからの辛く、思われないだけの歩き通しの道中に価値はないかもしれない。
だが、それでも少女は人間で幼くても優しいところもまた確りとあったから。
『あなたをおいておけないよ』
『そう……』
だから、宇佐見菫子は眼の前のとびきりの深秘にもう手が届かなくなることを嫌う。
孤独であり、どこまでも高い。追いかけ続けてずっと味わってきたそんなのを、これ以上一人ぼっちにさせることなんて人間には出来なくて。
『――これでも?』
『……あ』
とはいえ、人が危険に怖じるのは当然の反応。ましてやそれが、最強の持つ鬼気の一部に幼子が触れたのであれば、反応は劇的。
美しき者の笑みが、こんなに怖いのだと菫子は初めて知った。
『あ。や、やあああっ!』
思いやりなんて、命を助けるものでなければ置いていく他にない。だから、少女は涙ながら駆けてそのままスキマへと飛び込んで去る。
かけっこ得意はゴールテープを切るのも早く、故に何の余韻すら風見幽香に残るものではないと思われたのだが。
『あら』
しかし、狂乱によって外れてその足元へと転がったその名札にあった、人の子の名前ばかりは幽香の記憶にどうしてだか留まっていたのだった。
「あ、あの。あんた……えっと……」
「落ち着きなさい」
「わ、分かった……」
そんな憶えに蓋をして、ただトラウマを見事に掘り返してぱくぱくと口を動かしてばかりの菫子に、幽香は一転して優しげな笑顔を向ける。
落ち着かない、でも落ち着かなければいけないと、逸る胸元ばかりを気にする少女に彼女は。
「とても、綺麗になったわね」
「わひゃっ!」
そんな、褒め言葉。
知らず憧れていた怖い人から思いもしない形容をされた菫子は、顔を途端に真赤にして。
「……貴女も、随分優しくなったのね」
今更の吊り橋効果の結果に悩みながら、それだけを返すのが精一杯だった。
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