第三話 現人神に優しくしてみた

優しい幽香さん 幽香さん、優しくしてみる

風見幽香はそれなりに、人里へと顔を出すことがある。
勿論、妖怪であるということで、大勢に歓迎されることもないが、しかし普段大人しい客である彼女は行きつけの店において、その来訪は喜ばれた。
幽香が人里にて顔を出す店というのは、大方決まっている。主に花屋に服屋を周り、最期は甘味処にて落ち着く。そんな年頃の少女のようなパターンを今日も幽香は繰り返していた。

「やっぱり、ここの餡蜜は絶品ね」

匙で頂く餡の上品な甘みは、とろける蜜と絡み合いながら、次から次へと食の底なし沼へと誘う。幽香は少女で妖怪。別腹どころか人智を超える程まで食べることすら不可能ではない。
もっとも、奪ったものではなく培ったものを換金して得た貯金から計算して買い物をしているがために、幽香の財布の紐は、そう緩いものではなかった。
さくらんぼを最後に美しく頂いて、名残惜しい気持ちを納めつつ何時もどおり一杯で終わらす。そして、勘定を済まして店から出た時であった。

「あのー、すみません。貴女、妖怪ですよね?」

幽香が少し緊張感の欠ける緩い表情をした、東風谷早苗――現人神で風祝――に声を掛けられたのは。

緑系の髪色をした少女が二人、通りを歩く。歩んでいるのは幽香が人混みを好まないために、目抜き通りは避けて進んでいるのはさほど人通りの多くない道。
しかし、数少ない視線は二人に、特に青白巫女姿をした少女に向けて注がれていた。
目が合った人に対してお辞儀を欠かさない早苗は、ここ幻想郷に彼女が来てから一年と半年近く経っても、未だ馴染まずよく目立つ。

「へぇ。幽香さんはお花の妖怪さんなんですか。メルヘンチックですねー」
「四季のフラワーマスターなんて呼ばれてもいるわね」
「わぁ。何だか格好いい!」

それでも信者――守矢神社の――を増やすために働くことで親しまれつつある早苗が無遠慮に、あの風見幽香に近寄っている様子は、里人の心配までも呼び余計に注目させた。それでも誰も触れられないのは、幽香の逆鱗を恐れてのことか。
二年ほど前だろうか、ちょうどこの通りで、幽香は絡んで来た相手を軽く虐めたことがあった。一般人にとってはとても凄惨に思えたその懲らしめを見たこの通りに縁あるものは、皆幽香の恐ろしさを知っている。
だが、何も知らない暢気な早苗は、多くの心配を他所に馴れ馴れしく更に近づいて、幽香が愛用している日傘に直接触れまでした。

「こっちでは、日傘なんてお洒落なものを差している人、初めて見ました。あれ? ……よく見たら、この傘普通じゃない?」
「これは幻想郷で唯一枯れない花。曲線は幽かな花の香を集めるのよ」
「へぇ……幽香さんて、傘一つとっても幻想的なんですねぇ」
「ふふ。半分は嘘よ」
「えー! どっちが嘘なんですか?」

しかし、幽香は気にせず笑い、何時か口にした冗談を再び語るくらいであるから、上機嫌ですらあるようだ。
普段のように他人を粗雑に扱わず、むしろ丁寧に当たっているあたり、ひょっとすると幽香は今回も優しくしようと試みているのかもしれない。
珍しく幽香が加虐趣味を抑えているという、そんなタイミングで出会った幸運が分からない早苗は、笑顔絶やさぬ優しげな幽香の戯れ言を意地悪と取って、頬を膨らます。

「もうっ、幽香さんって意外と捻くれた方なんですね。でも、約束は破らないで下さいよ」
「ええ。私と弾幕ごっこをしたいのでしょう? けど、人里近くの妖怪の力を見るためというのなら、本当に私でいいのかしら?」
「お花の妖怪さんに戦闘力までは期待していませんけれど、弾幕ごっこでそこら辺の妖怪には負けないという言葉が嘘でないなら、人里周辺の妖怪の力量のいい目安にもなります。それに、花咲かす幽香さんの弾幕はさぞ美しいでしょうから、楽しみで!」
「そう。私としては、後悔だけはして欲しくないのだけれど」
「勿論です!」

聞くものが聞けば頭を抱えたくなるような、そんな勘違いが秘められた会話は、幽香がそれを正す気持ちがないために、滞ることはなかった。
まあ、里人を恐れさせないために零れる妖気に魔力にその他を抑えているのを、それくらいが幽香の実力だと誤認したのは、幻想郷での経験が少ない早苗であるからこそ仕方のないことでもあるのだろう。

元々、早苗は幻想郷の外の世界からやって来た現代人だ。神として崇め家族として慕う二柱――八坂神奈子に洩矢諏訪子――に付いてきて、その際に色々とゴタゴタがあったが、今彼女は妖怪の山に湖ごと移転した守矢神社に落ち着いている。
妖怪の山に住み、神社を通じて多くの妖怪と友好的に知り合っていた早苗は、元々現人神に風祝――風の祝子、巫女のようなもの――の力を持ち、特別な人間ということを自認していて、そのため妖怪に対する恐れというものが少なかった。
だから、幻想郷では挨拶代わりのように行われる弾幕ごっこの、練習台として人里にて妖怪を探し、挙げ句見知らぬ幽香を見つけて誘うような暴挙を行っても、不思議ではなかったのだ。

「霊夢さんに勝った試しはないですけど、私はきっと強い……と思います。神奈子様に諏訪子様に鍛えていただいていますし、山の天狗に河童とかとよく弾幕ごっこをしていますし。……けれど、知り合いとトレーニングするばかりでは自分の実力がどれだけのものか分からなくて」
「なるほど。だから、実戦をしてみたいけれど不安で。それだから、まず、危険が少なそうな人里周辺の妖怪と戦って自分の程度を把握するために、偶々見つけた私に声を掛けてみた、と」
「はい。幽香さんに勝てたら、次はもう少し危険な場所、例えば魔法の森や迷いの竹林の妖怪とかに挑戦しようかと思っています」
「そうね。私に勝てたら、そうすればいいわ」
「はい!」

元気な返事を受けて、幽香は微笑みを深める。
そして、自身の勝利を疑わない、そんな早苗のキラキラした瞳を見つめて、そこにチルノの姿を重ねるのだった。
早苗が幽香を花の妖怪、というだけで舐めて掛かっているのは、本来ならばおかしいことだ。何しろ、幽香はもう言ってある。弾幕ごっこでもそこら辺の妖怪に負けることなんてないわね、と。
勿論、幽香にとってのそこら辺というのは幻想郷中全てのことだった。しかし早苗はそれを人里周辺と採ってしまったのである。だからこうして認識に差が出てすれ違い、勘違いは生まれたのだった。

そう、現人神、東風谷早苗なら、妖怪、風見幽香に敵うという勘違いが。

やがて、二人並んで門を通って人里から離れて少し経ってから、まず早苗が飛び上がり、それに幽香が続いた。
春風そよぐ、空の上。地の湿った臭いから離れて、空舞う花の香りを感じて二人、特に早苗は多くの喜びを感じる。
早苗は十数年も、空飛ぶ人間なんてあり得ないと排斥されてきた世界に生きていた。
そして、幻想郷にてただの空飛ぶ人間の一人になって、常識から解き放たれてからまだ一年と少し。まだまだ、早苗にとって、それは十分な期間ではなく。
だから、誰彼を気にせずに空に生きることを飽くことなく、むしろ風を繰り自力で飛んでいる今を楽しめているのだった。

「楽しそうね」
「ええ。空を飛ぶのって、楽しいですよね。こう、特別って感じがして!」
「特別、ね」

そんな初心を持った早苗は、幽香からすると中々に面白いと思える。ここ幻想郷では、人外や妖怪じみた人間が空を飛ぶのは当たり前のこと。普通の人間も見上げてそれを認めており、別段特別なことではない。
しかし、力を行使して空を往くことを、どうにも早苗は自信の立脚点としているような節があった。超常の力は特別。だから、自分も特別。そんな風に。そこには、未だ外の世界での常識を引きずっている様子が見て取れる。

噂を耳にした事があるだけで早苗の口から確かに聞いたわけではないが、幽香は少し前に妖怪の山に神社と巫女が現れ幻想郷に参入したことを知っており、その巫女が早苗だと解していた。
気長な幽香にとってはつい先日と紛うくらいに、早苗が幻想郷に来てから経った一年半前という時は短い。この様子だと、未だ自分は特別な存在と思っているのであろうと、そう幽香は察する。

それこそ、自分が決して死なない物語の主人公であるように。なるほど、早苗が妖怪を恐れない筈である。

そんな夢見がちな少女に対して、現実は決して優しくない。失敗しぶつかった弾幕ごっこの弾に、少し力が篭っていただけで、人は死ぬのだ。それどころか、仰ぐ二柱の守護から離れただけで、危険という事実。
ならば、先達としてそんな現実を教授してあげるのが優しいかと、幽香は思う。

「早苗。二つ程、貴女に教えなければならないことが見つかったわ」
「はい? 何でしょうか?」
「一つ目は、向こうの世界の超常の大部分は、こちらではあって当然のものであるということ」
「はぁ。それは、分かっているつもりですけど……」
「そうかしら。大事にしているその力も、地虫が這うのに居る力と規模が違うだけで同種であると、貴女が知っているとは思えない」
「む、過程もそうですが、奇跡の力の結果と、虫の蠕動の結果は大違いですよ。飛ぶのと攀じるのが、同じではないでしょう?」
「うふふ。それが一緒なのよ。共に自然にあるものであるなら、より大きな力によって踏み躙られてしまうという点において、ね」
「え? ……あ」

語り、幽香が日傘を一振りした途端に、早苗は消えた。
いや、自分が消えてしまったと勘違いするような、地の底まで墜とさんと言わんばかりの重圧がその身を襲ったのだ。
それは、神域を侵す力。妖力でもなく、魔力でもない、別の何か。早苗には分からない、高みから溢れる圧倒的な実力は、蛇に蛙の後押しすら轢き潰す。一所懸命に育んだ自信など、真っ先に粉微塵と化している。
眼前の花の化身から溢れ出る、彼女の最強を支えている何かに触れることで、早苗は震えることすら許されない。
絶対であった二柱の神力に匹敵する、真黒い力。いや、もしかしたら、超えているのでは。そうまで感じ取ってしまうくらいに、幽香の力は重く苦しい。

「二つ目は……そうね。妖怪の恐ろしさ、かしら。さあ、かかって来なさい」
「……う、ううぅっ!」

早苗に二つ目の教えは耳に入らずに、ただ叫び声が上げられたことこそ、奇跡。
抵抗するに、発するのは、遊びにしては過分な力。それもその筈、最早早苗に弾幕ごっこのルールなど、頭にはない。それは、恐怖を殺すための、攻撃。
普段その威を借りている二柱の力を引き出す余裕もなく、ただ自分の霊力を整形してぶつけるという、それだけ。
しかし、風祝を務めるその身の適性によって、霊力は発されてから後風を帯びて幅広の刃と化す。右に左、てんでバラバラ動く大幣に合わせて、風の刃は単なる霊弾も引き連れて周囲一帯に展開していく。
勿論、そんな漫ろな心で創られたなまくらにやられる幽香ではない。だが、彼女はパターン見当たらぬその弾幕を無視せずわざわざ相対する。

宙に溶けて見難い鎌鼬のような風は、早苗の周囲全体を巡るように切り裂き尽くし、そこに変化しきれなかった幽香を狙う黄緑の霊弾が交わる。総じて、それらは多量に過ぎていた。正しくそれは、風神の癇癪の跡。
これは、本来避けるものではなく受けるか相殺させるべき、遊びのない弾幕。もっとも、そんな早苗の全力であっても、その身に溢れる力を防御に回すという、それだけで幽香が傷つくことはない。
弾幕のどれもこれもが致命打になりうる筈もない中で、しかしそれを丁寧に避けている少女の心境はどういうものか。弾幕が美しければ楽しいだろうが、果たして早苗の必死は決して形の良いものではない。
ただ幽香は、曖昧に笑いながら手を広げて、全てを受け容れる態勢になりながらも、早苗の猛攻を軽く避けることで尽く否定していた。

これが幻想郷での戦いではないだろうと、暗に語りながら。

「私の教え、少しは理解したといえども、それを嫌がり暴れるばかりではつまらない。自分の誇る力でもどうにもならない恐ろしい妖怪に対した時の方法の一つ、先に貴女もしたいと言っていたわね?」
「そ、そんな、弾幕ごっこはもっと楽しいものじゃっ」
「スペルカードルールに基づいた弾幕ごっこは、弱者が強者に対抗できる数少ない手段の一つでもある。ただの競技、遊戯ではないわ」
「わ、私は強い、はず……」
「現実を見なさい。私の気持ち一つで捻り潰される、そんな有象無象と今貴女は同じ。いつだって貴女は強者であるわけではない。最低でも、この場で貴女は弱者。気をつけなければ、墜ちることが死につながるわよ?」
「死?」

身内の長寿健康に恵まれ生まれてこの方、早苗には想像の一つでしかなかった、死。それが、圧倒的な力の持ち主に冷たく告げられたことで、具体性を増す。
早苗はずっと、日本の原風景のような幻想郷を、楽園のように見ていた。しかし、春夏秋冬自然溢れる中に危険は紛れ込んでいた。眼前には触れれば死に至るほどの、恐ろしい風見幽香という棘。
ふと、圧迫感が弱まる。ここでやっと、早苗に震えることが許された。ぶるぶると、自身の制御離れる体を押さえつけながら、そして漸く早苗は察する。

「弱者……死…………怖い。ああ、そう! 私は儚き人間だった!」

早苗は、現人神で有る前に、一人の信仰者でもあった。信仰は何のためか。それは、人間が生きるため。
恵みを欲して天仰ぐ、その様は正しく弱者。しかし、弱者繋がることで、人は霊長に至った。宗教とは人々が手を取り合うための共通言語、また哲学でもある。利己を求め、人は神を創造した。
そして、現人神と想像され、恵みを与える側になった早苗も、本質的には人だ。仰ぐのは当たり前で、仰がれることで自分の位置を見失い、傲ることだってある。

早苗は、震えることで久方ぶりに、自分の弱さを理解した。そして、自分は特別なのだと弱さ忘れたまま暢気に生きていたら、恐らくはそれが命取りとなっていただろうことも、また。
僅かに力を失い、落ち込んだ視線はまた持ち上がり、真っ直ぐに幽香を見上げる。その瞳には再び力が篭もり、以前よりも確かに光を映してキラキラと輝いていた。

「私、随分と思い違いをしていたみたいですね」
「そうかもしれないわね」
「私は弱い。普通なら幽香さんに、決して敵うことはない。でも、弾幕ごっこなら!」
「約束は守る。受けて立ちましょう」

笑顔で応じる幽香に向けて早苗は大幣を突き出し、そして逆手にカードを持ち上げ提示する。
それは一枚ばかり。まあ、それも当然のことだろう。早苗は恐れに慌てて力の殆どを使い果たしている。だから、最大に魅せられるのは一度きり。
しかし、それが盛大なものになろうことは、増した意気に呼応したのか自ずと早苗にまとわり付き始めた颶風によってよく分かる。

「行きます……奇跡「弘安の神風」!」

高く飛び上がり、早苗が大幣を持ち上げた、その先全ての天辺から、豪雨が生み出された。
いや、当然ながらそれは偽物。だがそれは雨粒よりも美しくも恐ろしい、蒼き力ある霊弾の群れであった。雨と違って多少の規則性を持ったその小さな弾幕は、上から多量に降り注ぐ。
本来なら恵みと喜ぶ筈の花は、円を描いて偽の雨を避けていく。幽香は神力によって起こされた風すら意に介さずに飛び回る。そして、防御に傷一つ付けないままに避けながら、その手に花とした妖弾を創り、発していく。
だが、花束は早苗まで届くことはなかった。妖弾を穿つ雨粒だけでなく、何もない筈の幽香の周辺から囲うように現れる丸い霊弾が花の配送の邪魔をしているからだ。
それどころか、上等に創っている花弾の精製のスピードよりも早く霊弾が襲い来て、幽香の逃げ道を奪い去っていく。
上から周りから来る蒼い弾に襲われ、風に煽られ、次第に安定した回避にも綻びが出始める。グレイズ――用意した防御に弾幕が掠ること――した際の力のせめぎ合いの音が幽香の耳に響く。
幾ら咲かしても、花は散り散り風に消え、残るはただ幽香一輪ばかり。

勿論幽香のその圧倒的な力に任せれば、数ばかりの暴力など、突破は楽だ。しかし、そんなことはあまりに美しくなく、またつまらない。
とはいえ、正攻法を続けるだけでは、高難易度なこの弾幕を突破出来る筈もなく。ならどうすればいいのか。それは、幽香が一番よく知っている。

「より美しく、咲き誇りましょう」
「え?」

まずは、日傘を閉じ。そして、幽香は目を瞑る。そのまま、全てを避けつつ、彼女は天を遡った。
対する早苗の目には、その不可解な行動に、より避けるようになったその結果は、どう映るか。実際のところ、内心の驚きと弾幕展開に手一杯なために感想はなく、その瞳には幽香がただ一点の美にしか映らなかった。
雫は一滴たりともかからずに、青く幽香を照らすだけ。最中を揺らぐ幽香の赤は映え、その姿はまるで水のベールを纏った赤薔薇のよう。

元より花に目などない。それでも、しなやかに、花は風を受け流す。幽香はそれを体現したばかりである。

そのまま、幽香は足掻く早苗の眼前まで、回避をし尽くした。そして、光溢れる至近にて手を向け、弾幕を展開し始める。
早苗が必死に避けようとする中で、幽香は再び目を開け、彼女よりずっと無様な舞を見せる相手に向かって話しかけた。未だ輝き失われぬ、力強い視線を受け止めながら。

「早苗。貴女の弾幕は、まずまず美しかった」
「幽香さんったら、半分は目を閉じて見ていなかったじゃないですか」
「本当に見る価値もなかったのなら、こうして最後に目に焼き付けようとすることもないわ。それじゃあ、お疲れ様」
「はい……くうっ」

遠くから眺めるのもいいが、やはり花は近くで見つめる方がその美しさをより楽しめる。芳しきその香りこそ感じ取れなくとも、薄く力を重ねて創りあげられた真白い造花は、手間の美すらも想起させた。
三又に分かれ、真っ直ぐ飛来してくる花弾を、しかし力を使い果たした早苗は避けきれない。身体に受けた強い衝撃を苦く飲み込んで、早苗は負けを受け入れた。
そして、少女は優しく地に墜ちる。

弾幕ごっこの後、今度は近くの花の様子を見て回っている恐ろしき妖怪の隣に、早苗は並んでいた。
しばらく黙って、名も知らぬ小さな花を愛でる幽香を見つめることで、なるほど本当に彼女は花の妖怪であるのだと、早苗は理解する。何より、花とあることが、風見幽香という少女には似合っているから。
美しく、可憐で、何より強い。早苗は幽香に嫉妬を覚えているのも解しながら、しかしずっと多くの尊敬の念を抱き始めていることに気づいていた。
思わず高鳴る胸を押さえた、そんな早苗を横目で見てから、幽香は話しかける。

「確か、早苗は霊夢に勝ったことがないって言っていたわよね」
「はい……一度も」
「まあ、アレに当てるのはコツが要るから仕方がないわね」

葉に付いていた虫を摘んで捨てながら、幽香はもう一人の巫女のあの掴みどころの無さを思い出す。
博麗の巫女としての能力、そしてそれ以上に本人の資質。その二つが弾幕ごっこという遊戯においてあまりに噛み合いすぎていた。
宙に空を見つけて飛ぶ、そんな霊夢が本気になった時に、墜とせる存在はあまりに少ない。特に早苗は、仰ぐ神の敗北によって、それをよく知っている。
しかし、雲をつかむ事など造作も無い程の存在であれば、或いは空の少女に触れることも可能であるのかもしれなかった。早苗が幽香を見つめる視線に、熱が篭る。

「やはり、幽香さんは霊夢さんより上手なのですね」
「勿論。だって、霊夢に敗北を教えてあげたのは、私よ?」

微笑み、幽香は淡々と驚くべき事実を答えた。幽香は早苗が見上げて止まないあの巫女をすら、地に這わして実力の程度を教えている。
果たして、この力の怪物は、殆どそれの及ばぬ弾幕ごっこにおいてすら、どれほどの実力を発揮出来るのだろう。
僅かに蘇る恐怖に、手が震える。だが、それはそれだと早苗は呑み込んだ。幽香に向けて言葉を吐き出すのに、躊躇いはなかった。

「……幽香さん。ならば私に、勝利を教えてくれませんか?」

早苗は、仰がず、頭を下げて乞う。彼女は幽香に、霊夢に負けている。自信の程は、もう殆ど無い。
しかし、だからこそ、欲するものがある。今この位の身の程と知ったならば、後は自分を見失わず高みを目指したくなるのが、少女の常。目標は、遥か空高く霊夢の上。
今日一日で、早苗は幽香から色んなことを教わっている。師匠や先生、そう呼びたくなるくらいに、知らず彼女は幽香を近づくだけで自身を引き上げてくれる高次の存在と認識していた。
だから、きっとこの願いも受けてくれる。幽香の言動に優しさを見つけている早苗は、そう思う。

「嫌よ」

しかし、幽香は笑みを深めて、拒否をする。
一拍おいて、ええっ、という驚きの声が辺りに響いた。

一陣の風が吹いたところで、全ての花が頭を垂れることはない。花菖蒲は風にそっぽを向いていた。

 

「やはり、こっちの方が、面白い」

騒がしく周囲で再考を嘆願する早苗を無視して、幽香はぽつりと呟き口の端の弦を持ち上げる。
すべてを受け入れる空に、星が追いつくことが出来たとしても、幾ら風が暴れようが敵うものではないと、幽香は知っていた。
頷いたところで現実は変わらない。無理と言わなかったのは、果たして彼女の優しさだったのだろうか。


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