第四話 さとり妖怪と一角の鬼に優しくしてみた

優しい幽香さん 幽香さん、優しくしてみる

地底――主に幻想郷では旧地獄、忌み嫌われる妖怪に怨霊溢れる地下の広大な空間を言う――の先へと続く、縦穴を通う妖怪が一人。
本来ならば進入禁止。地底の妖怪が怨霊を封じるのと引き換えに地上の妖怪の不可侵が約束されている――もっとも現在はとある騒動の後で条約は有名無実化している――のだが、その妖怪が気に留めることはない。
人工的な明かりの無い仄暗い、道中。しかしヒカリゴケの一種が幻想的に繁茂しているのか、或いは弾幕に代表される発光する力の一種が払っているのか、包まれてしまうほどに闇は深くない。
一応地底までの行路太陽の下では活躍してくれたが、この暗がりではもう必要ないだろうと、妖怪は持ち歩いていた風に煽られつつある日傘を閉じる。そうしてから、ヒュンと蕾のようになった傘を一振り。
それだけで、魅力的な彼女に寄って来ていた怨霊達は、掻き消えて跡形もなくなった。

「久しぶりに来てみれば、切り捨てられて大分たったからとはいえ地獄も生ぬるくなったものね。霊の生者に対する怨みがあまりに弱い。それはきっと、管理者が優しすぎるから、なのでしょうね」

見下げ、周囲を睥睨しただけで、怨霊すら逃げ出していく。ゆっくりと、地を降りる妖怪のその行動を邪魔する者等、最早存在しない。
粘つくような念に、羨望嫉妬の視線。それらを受け止めつつ、全く影響を受けないまま、彼女は周囲の何より美しく笑んでいる。
太陽も届かぬ場所であろうが、今日も今日とて、風見幽香は輝いていた。

「ここらの雑魚は堅いわね」

旧都。過去は地獄の繁華街であり、今は地上から移り住んだ鬼たちによって都市化された鬼達の楽園。そこの旧地獄街道と呼ばれる目抜き通りの上空を飛び、平素から乱れ気味だった秩序を更に滅茶苦茶にしているのは、幽香であった。
両端に瓦屋根連なる幅広の道は、今や喧騒で溢れている。最初は誰が、風見幽香、と彼女の名を叫んだのだろう。今や遠巻きにしているものや果敢に立ち向かうもの、その全てがその名を口に出しているため最早分からない。

旧都にて、幽香が地底に来たという噂は、彼女のゆっくりとした移動スピードの何倍もの速度で広まり、様々な妖怪の口の端に上った。
そして、特にこの昼間から酔っ払った鬼を代表とした多数が、幽香の持つ最強という称号に目が眩み、結果尽くが雑魚として処理されているのである。
そう、最強の種族である筈の鬼ですら、幽香が地の底に咲かした白き花弾によって容易く墜とされていた。

「しかし、馬鹿正直に向かってくるものばかりというのは、少し退屈ね」

勿論、幽香は一応相手の耐久力のレベルに合わせて弾幕の威力を高めている。それは、弾幕ごっこに緊張感を持たせるため。当たっても蚊ほども効かない力では、避ける気すら起きないだろうから。
人間に当たれば爆破四散する程度では済まない破壊的な威力の弾幕は、しかし風雅を解しているか不明な鬼――酔漢――すらも目を奪われるほど可憐な花の形をしていた。
幽香の花弾は群れながらもわざわざ避けられるように距離を開けながら往く宙を埋めている。隊列は前後左右見事に揃い上下すら整って、傍観者達にも流石は幽香と頷かせる美しさを魅せていた。
しかし、地底の荒くれ者共には迂回すら面倒に映るのか、はたまた酔っ払い過ぎて上手く避けられないのか、自己の防御力を過信し突貫してきて墜ちてしまうケースがあまりに多い。
弾幕ごっこを楽しむ心に欠ける鬼の男衆に至っては、この鬼殺しの弾幕を幾つ耐えられるか賭け、そして二つと触れられる前に墜ちてしまうのが常である。

最強と知れ渡りすぎて普段から弾幕ごっこですら歯向かってくる者が少ないために、幽香も最初はこの鬼達との戯れを彼女なりに楽しんでいた。
しかし、幽香が展開する弾幕に応答するは、威力が高いばかりの下手に直線的な攻撃に、挙句は無謀な玉砕。幽香自身猛攻の中で舞うことすらなく、宙にて揺れるだけで全てを回避出来るとあれば、無聊を感じざるを得ない。

「そろそろ煩すぎるし……どうしようかしら?」
「つまらないなら、こいつを受けてみるというのはどうだい? 力業「大江山颪」!」
「あら」

そう、飽き始めた幽香が、もう少し優雅に途中を楽しむためにも光線で辺り一帯焼き払ってしまおうかしら、等と物騒なことを考えていたところだった。
青く巨大で過激な弾幕が、吹き荒れる山颪のように襲いかかって来たのは。

スペルカード宣言の後に、右に左に業風によって運ばれて来た大玉弾は幽香の花に匹敵する威力を持っている上に、あまりに多量であった。
ごう、と風音轟いたと思えば、周囲の野次馬魑魅魍魎達は、吹き飛び力にひれ伏していく。それもそのはず、遠くから見たら宙を転がる沢山の葡萄の実にも見える弾幕を回避するというのは実は非常に難易度が高い。
隙間を探して通うのが、回避の常道。しかし、避ける間隙すら押しつぶさんという迫力に力の業がそれを大いに邪魔をする。
しかし、大きな交差点を広げ続ける青の最中にて、一人幽香は冷静的確に細道へと滑り込んでいく。それはまるで全身に瞳が付いているかのよう。無論前後左右を見つめる目など、幽香にはない。
代わりに、極大の力を内に秘めている白き肌は、鋭敏に周囲の変化を感じ取っていた。そう、幽香は臆病とも取れる程正確に、全てを漏らさず受け止めている。
そして、力業に対しながらも、幽香はその力の殆どを使うことなく打ち克つことに成功した。
相手がその業を続けることに限界を覚えるまでに避け続けた幽香は、疲れきっているのだろう敵の顔を見つめる。しかし、思ったよりも徒労を受け入れて笑んでいたその端正な顔は、長命な幽香にとっても懐かしいものだった。

「あら、こんなところに居たのね、勇儀」
「やあ、久しぶりに会ったね。しかし、変わらない。流石は幻想郷最強と謳われる大妖怪、風見幽香だ。鬼も一撃で墜ちるような弾幕をあれほど軽々と張るとは、恐れ入ったよ」

金の長髪を流し、額から生えた一角を誇り高く見せつけているのは、鬼の少女。片手に持つ大きな盃の中身枯らして大分呑んでいるようであるが、その様子に酔いも隙も欠片も見つけることは出来ない。
彼女は旧都一帯を実力で取り仕切っている、鬼の四天王が一人、鬼熊勇儀という女傑だった。
勇儀は幽香と自分で行った弾幕ごっこによって起きた旧地獄街道一面に妖怪倒れ伏す惨状を一目見て、後に起きるだろう片付けの苦労を想像し一笑に付してから、大人しく鬼気をしまう。

「何、貴女は彼らのように喧嘩を売ってこないの?」
「強者に挑むのは好きだが、別に負け戦を好むわけじゃないし何より……」

改めて言うまでもないが、勇儀は鬼の四天王である。強者の中の強者。だが、その程度。最強の呼び名を一度も得たことのない彼女は、その重みをよくよく知っている。
弾幕ごっこならば或いはと、半ば嫌いな不意打ち気味に挑んでみたが、それなりに本気だった弾幕は、スペルカードを引き出すまでもなく美しく打ち破られてしまい。恐らく自慢の剛力も届くまいと、気づいてしまった。
勇儀は一瞬悔しさを表に出したが、それを呑み込み、彼女は豪快に笑んだ。

「ははっ、虐められるのは好きじゃなくてね」
「あら、今なら優しくしてあげるというのに」
「面白い冗談だね」

嘘が嫌いな鬼といえども、冗談を苦手にしている訳でもない。その手によって撃ち墜とした者共、呻く妖怪の山となった現場を振り返りもしない、幽香の姿勢から優しさなど見いだせる筈もなく。
だから、勇儀は温まった旧交を更に和ませるためのユーモアかと思って笑んだ。しかし、幽香は勇儀のその笑みをみて、不思議そうに首を傾げる。

「本当よ?」
「嘘は嫌いだが……ふうん。二度まで言うなら、信じてみるか。まあ、用事を終える前に顔を腫らすこともない。帰り際にちょいとコレで遊ばないかい?」

誇りを汚されることさえなければ、高い壁に挑戦するというのは勇儀の望むところ。挑発交えて、出来ればこちらがいいと先程までカードを握っていた手を閉じる。
そして、勇儀は幽香に向けて、傷だらけの拳を伸ばす。幽香はそこに、コツンと優しく大きさに形の違う拳を当てた。

「偶には、そういうのも悪くないわね」
「楽しみだ。それで、風見幽香は、ここ旧都に何の用があって来たんだい?」
「幻想郷一の嫌われ者に優しくしに来たのよ」

上等に微笑んで、ここ旧都の中でも一際大きな洋館を指さし、幽香はそんなことを言う。
温かみの感じられない信じられない音色を聞いて、やっぱり、優しく戦ってくれるというのは嘘なのではないかと、勇儀は思った。

勇儀と別れた後に、普通の存在ならば気後れするくらいに大きな建物、地霊殿と呼ばれるそれに向かって迷わず幽香は歩んだ。
地霊殿は周囲の和風建築に喧嘩を売っているかのように景観に馴染まず、また豪奢であった。
しかし、先日幽香が遠くから眺めた、似たような建築――紅魔館――と比べたら、窓ガラスにステンドグラスの天窓等によって採光が確りとされていて、閉じこもっているような印象はどこか薄い。
それもその筈、地霊殿は灼熱地獄跡を塞ぐように建てられ、その熱と溢れる怨霊の管理をする者のために造られた拠点的な役割も持っている。見通し悪すぎれば内の働きに疑念を持つものもが出るのはどこであっても自然なこと。
だからそこに、偉そうにしている奴ら、そして怨霊も恐れ怯む少女が居る、と地底中に知れ渡っている位には開けているのだ。

だが、神をも恐れぬ風見幽香はそんな情報にも怯えることなく、むしろ件の少女に訪れを知らせるためにと、銅製の呼び鈴を鳴らす。
カランいうその音色は幽香の予想以上に大きく響いた。すると、偶然近くに居たのだろう、通りがかりの館の主が直々に出迎えてくれた。

「久しぶりにベルの音色を聞いたわね……礼儀正しくも正気とは思えないことをお考えなお客様は誰かしら?」

観音開きの入り口が開くことで顕になった、地霊殿のシックな内装に溶けこむようにして幽香の眼前に現れたのは、気怠げな表情をした少女。
紫髪に内履きのスリッパ、それ以上に目立つのは、可愛らしいその容姿を装飾しているハート型を突端としてコードのような器官を辿って行くと見つかる、第三の目。
彼女の心臓の位置に収まったギョロリとしたその大きな瞳は、真っ直ぐ幽香を見つめている。いや、それは覗いているといった方が正しいか。なにせ、それはさとり妖怪が持つ相手の心を読む部位なのであるから。
そう、彼女こそ地霊殿の主であり、孤影悄然の妖怪でもある、古明地さとりであった。
ドアマンの代わりを勤めてくれた一対の豹相手に頷き退かせてから、やっとさとりは幽香の姿を改めて二つの目で見上げる。

「……あら。失礼、こんにちは。奇特な考えをしているのが、風見幽香、貴女だとはまさか思いませんでした」
「こんにちは、古明地さとり。私が何の用で来たか、貴女には分かるでしょう?」
「やはり……私に優しくしに来た、と。信じがたいことですが、確かなようですね。とりあえず、上がって下さい」
「失礼するわね」

さとりは促し、幽香を連れて直ぐに客間に入った。そして、床と同じ真紅に紅赤色の市松模様のソファーに幽香を座らせてから、主であるさとり手ずから菓子に珈琲の用意をする。
その間、飼われているのだろう多くの動物が幽香を楽しませるために現れた。半ば妖獣とはいえ、犬や鳥が普段行わない行動を取るのは面白い。彼らが清潔で臭わないというのも美点であり、待たされた幽香の心はむしろ和んだ。
ただ、幽香が気になった、動物達の中で一際目立っていたハシビロコウは、睨みつけるような目で彼女をみつめるだけで動かない。そしてしばし経ちそんな怪鳥が退いたと思えば、後ろにはカップ二つを珈琲で満たしてお盆に載せて歩くさとりの姿があった。
テーブルに菓子とともにカチャリとカップを置いてから、さとりは口を開く。

「あの子は人見知りが激しくて、ちょっと緊張していたみたいですね。……ああ、それはどうでもいいですか。一番やりたいことは変わらず、私に優しくしたい、と」
「話が早くて助かるわ。それで、なにかリクエストとかはあるかしら?」
「私個人としては、希望はありませんね。寂しさはペットによって慰められていますし、貴女の力を借りてまでして異変を起こすような野心もない」

勿論お気持ちはありがたいのですが、と付け加え、さとりは一旦黙して珈琲を一口飲んだ。
さとりの言葉は本音である。彼女はどちらかというと無欲であり、強い我はない。大人しく人当たりのいい無害な性格。しかし覚妖怪というだけでそれらの美点全ては水泡と帰してしまう。
相手の心の裏も表も見逃さず、全てを受け入れ、何を思うかさとりはその口で相手の気持ちを語る。ざわりと、直接的に心に触れる遠慮なき妖怪。そんなものを不快に思わない輩は殆ど存在しないといってよかった。

しかしそうして幻想郷中の人並みに心持つもの殆どに嫌われておきながらもこれまで滅ぼされていないのは、持ち前の性格による多少のプラスと、さとりなりに加減を把握しているというところにもある。
あまり幽香の気を害し過ぎないようにと、さとりは少しでも要求を満たそうと考え、ふと一つ思いついたことがあった。

「強いていうならば……見かけた時だけでいいので、代わりに私の妹に優しくしてあげてくれませんか? こいしが貴女の庇護下にあると思うと、私も安心出来ます」
「構わないわ。約束しましょう」

そう、古明地さとりには、古明地こいしという妹がいる。同じ覚妖怪、しかし二人には決定的な違いがあった。
それは、第三の目が開いているか、そうでないか。負担となった心を読む程度の能力を捨て、心も閉ざしたこいしは、無意識を操る程度の能力を手に入れ無意識をさまよう存在となっている。
もっとも、さとりにとってそんなことはどうでも良いこと。心が読めない相手、それが妹であることが大事だった。相手の心も受け止めて万全になるさとりの世界において、読めないこいしは不明で不安な存在である。
分からないから何時も心配で、それでも大好きなたった一人の妹であるから見捨てることなんて考えられず。幽香に一番に妹の保安を願うのもさとりにとっては当然のこととすら言えた。

鷹揚に頷きながら約束した幽香が、並大抵のことでは違えないぐらいには順守の決心をしていることを感じて、さとりは内心で喜ぶ。
しかし、その後に続けられた思考に、さとりは硬直する。

「でもそれだけでは、つまらない」
「近寄って……抱きしめる……いや、流石にそれは止めて私を撫でるつもりですか? 実は寂しさを隠しているのではないかと、そう思っていますね……的外れと思うのですが」

互いに言葉は要らないとはいえ、優しくするに撫でるとは何とも安直な、とさとりも思わないでもないが、しかし幽香は真剣にそれを行うことを考えていた。
妖怪であるさとりは少女の見た目であるが、決して子供ではない。実力者相手に抵抗は無意味であるといえども、それでも気安く触られることは望まなかった。
嫌われ者とはいえ大事な家族にペットも居る。だからさとりは決して孤独ではなく、慰められるべき寂しさなど自分にはない、と考えていた。

「流石に会話いらずね。しかしさとり。いくら貴女でも、自分の心の奥底は確かには分からないでしょう?」

しかし、幽香の考えは変わらず、テーブル越しに身を乗り出して、広げた手のひらをさとりの頭の直上で留める。
心を読んでみれば、なるほど有無を言わさないくらいにその行動に迷いはない。しかし、それならば直前で止めたのは、どうしてだろうか。
それが、さとりが震えたことを感じたから、ということを読み取った時に、自然と彼女の口から言葉が転がり出た。

「……私は、気持ち悪い、らしいですよ?」
「ふぅん。それが貴女のトラウマなのね。でも実際、貴女が本当に気持ち悪い生き物であるかは、直に触れてでもみないと分からないわ。じっと、していなさい」

温かい人肌に身体が勝手に驚いたのか、ビクンと背筋が伸びる。それを抑えるように、幽香の手からポフポフと、軽い力がかけられ、落ち着きを促された。そのまま、幽香の白魚のような指は、柔らかなさとりのくせっ毛を探る。
抵抗虚しく、結局さとりは幽香に撫でられていた。

「やはり悪くない。どう? 貴女は嫌かしら?」
「嫌では……ないですね」

問われ、さとりは自分の心を探る。しかし、それは能力によって簡単に読める他人のものと比べて、非常に分かり難いものであった。
ただ、少し受けるに緊張していたその身は解けたように自由になっていて。ほとんど優しくした経験のないだろう幽香は、しかし迷わず撫で擦り触れ合いを続ける。
幽香の思考の中は、偽りの優しさで満ちていた。サードアイで見つめた心は、本物と比べてどこか冷たい。手のひらの温度も少し低い気がした。
だがそんな幽香の右手が、記憶に薄き母のものを想起すらさせるのは、どうしたことか。幽香の内心は形ばかりでも優しくするために動いているようであるが、それは新鮮な相手の反応を楽しむため。決して、愛のように純粋ではない。
しかし、同じように懸命ではあるのかもしれなかった。優しくするという未体験に、幽香は虐めてばかりでしかなかったその身で挑んでいるのだ。全霊でなければ、きっと本物と錯覚するほどの慈愛を生み出すことなど出来まい。
そして、他人と違って幽香はさとりを、心を読む妖怪ではなく、怖がり屋の少女として観てくれていた。躊躇わず触れてくれている事実を鑑みても、さとりには嫌悪をなんて感じ取ることは出来ない。

「ああ。確かに、奥底から沸き立つこの感情を、私はすっかり忘れていました」

これは偽物。しかし、それでも嬉しいと感じていることを、さとりは自覚する。
嫌われていて、悲しい。そんなことは当たり前。そんな中で自分を嫌っていない相手が、嘘でも優しくしてくれた。それが嬉しくなくて、なんだろう。
殊更鬼どもに嫌われるわけである。さとりは、我が心を知らずに寂しくないと自分に嘘を付いていたのだから。そう、相手の心を語りすぎて、さとりは自分の心を見失っていたのだ。
だから、顔を朱くして、少女さとりは幽香のその手に身を任せた。

「あっ……」

わざわざ語る必要もないからと穏やかな沈黙の時間が過ぎ。やがて、満足を覚えた幽香が、さとりの頭から手を離す。玩具を取り上げられた子供のように、彼女はその手を見上げた。
しかし笑んで、幽香は躊躇うことなくさとりから温い手のひらを没収する。

「本当は、抱きしめ一緒に眠ってあげてもいいのだけれど、そこまでするほど優しくないと、私は自覚しているわ」
「十分過ぎるほど優しくして下さったと、思いますが……」
「嘘ね。まだまだ物足りないという顔をしているわよ?」
「ふふっ、まさか、さとり妖怪である私が心を読まれるとは思いませんでした」

図星を付かれ、さとりも、思わず笑みを作る。それは普段の世を斜に観ているような表情と違った少女らしいものであり。それこそが、自身が優しくした結果であると解し、幽香も笑みを深めた。

今回さとりの元へ訪れるに当たって幽香が考えてみたのは、幻想郷で一番に優しくするべき相手は誰か、ということ。無論、慰安目的ではなく、最も優しさを有難がってくれるような存在を探した。
特に、嫌われていたり胡散臭がられていたりする者の方がいいと幽香は考える。相手が普段との落差に感じ入った方が様態の変化が分かりやすく起こるだろうから。
少し悩んだ結果、八雲紫か古明地さとりか、というところまで絞り込んで、まあ紫は後回しでも構うまいという判断から、まずは引きこもりの心のケアへと赴いたのだった。

意外にも、というか当然というべきか、幽香はさとりに対して忌避の心は端からない。彼女にとっては能力なんて、偏り世界に対して個人を表せる程度に形となったばかりの力として、評価は低いもの。
心という弱点に作用しようとも、触れるばかりの僅かな力に気を取られる風見幽香ではない。何より、読まれて困るような策謀思想我欲など、幽香にはないのだった。
圧倒的な実力に支えられた自信。それは、読み取る側にも小さくない影響を及ぼす。心から笑んでいたさとりも、感じ入り思うところがあったのか、少し表情を固くしてから口を開く。

「しかし、私は読むことが出来るから分かりますが、貴女は心まで強いですね。それこそ……あり方を変えたところでその最も強い本質は変わらないくらいに」
「優しくしても、かしら?」
「そうですけれど……そこまで急変すると、悲しいことですが、過去の貴女を知らなかった者か、私のように能力によって本心と確信の持てるような存在ではない限り、変わってしまったのはどうして、と貴女の周囲は大きな猜疑心に襲われるでしょうね。貴女にその都度疑問に対する覚悟があることも、私には分かりますが」
「そうね」

何時の間に飲みきったのか、空になったカップを手慰みに弄っている幽香を見ながら、さとりはその少女然とした姿の奥に、強固な信念を発見する。
だがさとりが見るに、それは果たして幻想郷というこぢんまりとした枠の中にあっては強すぎるきらいがあった。

「しかし、下手をしたら受け入れきれなかった者たちが異変として、貴女の変心を排斥しようとする可能性すらありますよ。そうなったら、風見幽香。貴女はどうしますか?」
「そうしたら、抵抗するわ。本気でね」
「その言葉に偽りはない、と。……このままでは、博麗の巫女辺りと真っ向衝突するような未来しか見えませんね。怨霊に取り憑かれたという訳でもないのにこうまで方針が変化するというのは、心を読める程度の力しか持っていない私には不可解にしか映りませんよ」
「ふふ。それも道理。私にだって理由が分からないのだから、ね」
「そうですか。そこが詳らかになれば、無駄な騒動は……む、今それも楽しそうだと思いましたね」
「このチョコレートクッキー美味しいわね。形は猫かしら?」
「はぁ。露骨に話を逸らそうと考えていますね……因みにそのモデルは火車です」

ため息を一つ吐きながら幽香の読めない心変わりの原因について頭を悩ませるさとりを、嗜虐的な特徴は変わらぬままの花妖怪は笑って見つめる。
そして、既に幽香を身内の如き距離にまで受け入れていたさとりは、何時もの他人にするみたく睨めつけるように見上げることなく、真っ直ぐに三つの目で持って幽香を見つめ返す。
真紅の瞳は柔らかに交錯し。そうして、お菓子を摘みながら対話を続ける二人は、最早仲の良い友達にしか見えなかった。

「それじゃあ、そろそろ私はお暇させてもらうわね。この後、ちょっとした約束があるのよ」
「残念ですが、分かりました。見送りますね。それでは別れる前に一つだけ。……今日の恩は決して忘れません。もし何があっても、私は味方になりましょう」
「ありがとう。そうね、私も当分の間は貴女の味方でいましょう」
「楽しめたお礼ですか……それでも、嬉しいですね」

その後二人は珈琲をお代わりしたり、ペットに優しくしたりして、そうして穏やかな時間を過ごしていたが、楽しみはそう長く続くものではない。
日の及ばぬ地下にあっても、幽香の中の時計は狂うことなく正確であり、彼女は秤にもかけず残酷なまでにあっさりと、さとりと一緒の時より迫る帰宅時間を優先する。
それが少し寂しいと、さとりは思う。味方をしてくれる理由が、心からの友情ではないことも、悲しくないといえば嘘になる。離れるための、歩みは自然と鈍くなっていた。
しかし、さとりが先導したまま杢調も立派な玄関の扉を前に着いた時、幽香は彼女に向かって一つ心の奥底にて大事にしていた感動を披露する。

「あ、そう」
「何ですか?」
「この感想は能力で読み取れなかったみたいだったから、口頭で伝えておきましょうか。さとり、貴女の笑顔は想像していたよりずっと、素敵だったわよ」
「なっ……!」

それは効果覿面。少女に起こった変化を、幽香は口の端を上げて受け止めた。
一気に顔を赤らめたさとりを置いて、幽香は悠々と帰路へと向かう。後ろから聞こえた、ああ、恥ずかしいです、という大きな声も無視して石畳を歩んだ。
そして強く扉が閉められた音を聞きながら十間ほど進んだ先には、どれほど前からだろうか、鬼が一人待ち構えていた。
酒盃はもうその手になく、両手は空で拳は強く握られている。しばしその後ろを見つめていたが、幽香に焦点を合わしてから笑顔を作ったのは、先の約束を心待ちにしていた勇儀であった。

「ふぅん。さとりがああも取り乱しているのは初めて見たよ。幽香、きっとあんたは本当に、優しくしたんだねえ」
「鬼の前でわざわざ嘘をつくこともないでしょう?」
「前までは嫌われるようなことを平気にやっていたような気がするが……まあいいや。それじゃあ私にも優しくしておくれよ?」
「勿論」

そう言って、戦うために両手を持ち上げ構えを取る勇儀に対して、幽香は右手ばかりを持ち上げる。ゆっくりと曲げた親指を包み込んで、軽く握った拳には、気づけば途方も無い力が宿っていた。
それは、鬼の勇儀ですら見通しきれないほどの最強の一部。妖とも神ともつかない圧倒に向かったことで、思わず本能的に退こうとする勇儀を、幽香は声をかけて引き止めた。

「さあ、私は逃げも隠れもしない。鬼の剛力の全て、ぶつけて来なさい。私が優しく合わせて受け止めてあげるから」
「……ははっ、言ったね! 本気で行くよ! こうまで近けりゃ三歩も要らない。コレが私の一撃必殺だ!」

真っ当にぶつかっても、弾かれるのが落ちだろう。そう考える勇儀は、足りない力を必死でかき集めた。
勇儀の筋は支える骨を痛めるほど力んで隆起し、溢れる妖気の全ては大きな拳に集っていく。力みは一瞬で溜まりに溜まって、彼女の身体を一回り大きく見せた。
そして、その全身が捻られて遠心力を加えながら、風を引き裂く音とともに、破城槌のように突端を幽香にぶつけようと動く。
踏み込んだ足の地面は消し飛んだ。巻き込まれた周囲の空気も大いに騒いで暴れる。きっと、間近の建物は余波で跡形も残るまい。
真に全身全霊の、一撃。それは、幽香の最強の一端に吸い込まれるように向かっていき、そうして轟音を立てた。

「まさか、打ち合うことすら、させてもらえないとはねぇ……」
「優しくするって、言ったでしょう?」

だが、果たして対した拳同士はぶつかり合わず、優しく勇儀の拳は幽香の開かれた手のひらに包まれ、収まっていた。
破壊をもたらすはずであった激しい力は、もっと大きな力に全体受け止められて、欠片も見つからない。
勇儀の全力が振るわれた名残は、廃墟となった、辺りの建物ばかり。暴力の先端を向けられた、幽香は受け止めきって、優雅に笑っている。

「はは。敵わない。負けだよ負け。いやあ、こうまで完全に負けると、気持ちがいいね」
「それは、良かったわ」

喜々として、余力を残したまま敗北を受け入れる勇儀を幽香は面白いものとして受け止める。何しろ、全力を駆使して届かないことに絶望し、這いつくばって項垂れる、そんな相手の姿ばかりを見てきた彼女であるから。
勇儀の満足の笑みを認め、記憶する。これも優しくしたことで見つけられた。これは当分止められないなと、幽香は思う。
そして、僅かに残った、勇儀の疑念の視線をも受け止めて、幽香は微笑む。その笑顔を見た勇儀は、酷く胡散臭いものだと思った。

「しかし、昔からすると、信じられないくらい優しいね。最強の力は一緒であれども、本当にあんたは風見幽香なのかい?」
「私は、私よ」

誰が変化に介入した訳でもない。変わらず幽香を動かすのは幽香自身である。
そんな事実を淡々と告げ、そして勇儀の反応を見ないままにその場を去り、幽香は地底を後にした。


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