博麗の巫女というのは、巫女として神社の世話をするだけが仕事ではない。
最重要として博麗大結界――幻想郷の幻想性を保持する要となる境界――を維持する役目があり、また妖怪と人間の境が曖昧にならないように働くことだってあった。
そして、それら全ての務めのために必要なのは主に巫術と結界術、そして技術能力ひっくるめた妖怪退治の能力だった。
「はぁ……はぁ……」
「体術は年齢を考えると殆ど満点。けれど、結界や霊力の操作に関してはまだまだね。まあ、想像よりも悪くはないとは言っておきましょうか」
「はぁ……そりゃ、どうも」
しかし、今の代の博麗の巫女がそのための技術の教えを請うているのは、境界の上に座すいと美しき妖怪の賢者。
彼女、八雲紫は境界を操る程度の能力を持ち、幻と実体の結界を手づから張りまでして幻想郷を創成と維持のために影から動き、多くの博麗の巫女を育ててきた妖怪だった。
そして、霊夢にとっては思わずぶっ叩きたくなるくらいにうざったい、親のフリをした何か。先から師として振る舞っているつもりのようであるが、しかしその目の熱のなさといったらまるで、傘に和紙張る職人の瞳の色のよう。
紫は笑顔ではあるが、きっとその実思考としてはお仕事のルーチンを工夫しながら、作品を組み上げているばかりという、それだけ。真剣なばかりのそこには情がこれっぽっちも宿っていなく、またその余地もないのだろう。
冷静な品定めを耳に入れ肩で息を吐きながら、霊夢はこれを一番の友としているお母さんはやっぱり間抜けと思いながら、しかし何だかんだこんな妖怪すら骨抜きにしてしまった親の凄さも思い知る。
目の前の少女の心を知ってか知らでか、八雲紫は優雅にも扇子で空をひと撫で。そうして軌跡を花丸の形にしてから、扇を広げてこう評するのだった。
「ただ、空を飛ぶことに関しては最早天賦といっていいかもしれないわね。その才能だけは、きっとこれからも貴女に並ぶ人間なんていないでしょう」
「それは、あの人、よりも?」
「ええ。非才にして最高の巫女に至ったかの博麗慧音には才能面では貴女に逆立ちしたところで敵わないでしょうね」
「そう……」
一つ霊夢は呟き、そして静かになる。それは、彼女が考察を行う際の癖だった。
そもそも、初めて会った時にひと目幼少の霊夢を見た紫は、貴女の娘は貴女に不釣り合いな程に才能に溢れていそうねと呟いていた。
ぞっとする程の美形に言われた一言はよく覚えているし、今だって才能は母に勝っているのだと言われてもいる。
多くの巫女を見定めて輩出して来た紫の言だ。きっとそれは間違いではないのだろう。
娘として母に勝っているというのは嬉しくも似ていないということで残念なような複雑さがある。
だが、才能で大勝しているのならば、当座の目標としている母をぶっ倒すということは存外楽ではないのかとも思えてきて。
「ふぅ」
「何よ」
そうなれば、きっと。予想から夢想に考えが移行しようとしたその時に、溜息一つ。
ふと見上げてみればこちらを見つめる紫はもう笑ってすらいない。
まるでルーチンから外れた愚かな一匹の蟻を見るような目をして、彼女は語る。
「先に言っておくわね。ただの天才なんかでは――――本物の秀才には敵わないわよ?」
「なにそれ。それなら、私も努力すればいいってだけでしょ?」
「ふふふ……それで、届けば良いわねぇ」
「っ!」
そして、紫が僅かに露わにしたのは妖怪としての本領、あまりにも恐ろしいその気質の一部。
闇の如く出てきて胸を掴む、並の妖気とは比べものにならないその悍ましさに霊夢は驚きを覚えながらまた、そんなモノを持つ者を友としている母の度量の異様さも思い知る。
ああ、これと並んで平然としている、その領域。それはいったいどれほどの研鑽の果てなのか。
「届かせるわよ」
「ふうん」
分からない。だが負けるわけにはいけないのだ。
実の親にすら認めて貰えなかった私を誰より認めてくれたあの人が、護ってきたものに認められないなんてあまりに許しがたいことだから。
そのためには、修羅にでもなろう。そう考える霊夢には子供ながらあまりに余裕が欠けている。
そんなことを危惧した紫はそっと、扇子を閉ざしてから努めて柔らかく語りかけるのだった。
「それにしても、勝つまであの子と話をすることすら断つなんて、バカねぇ。ちょっと甘えたところで減るもんじゃないのに」
「減るのよ。私の意地が」
呆れた様子の妖怪を前に、霊夢は歯がみしながらそう言い切る。
彼女には母との関係を絶たなければ、間違いなく自分は意地を張りきれないという確信がある。
無視でもしなければ、あの人の向ける愛にはきっと耐えられない。ひとたび抱きしめられてしまえば辛いと泣いてしまうだろう。
そんなの、これまで泣き言一つ告げずに幻想郷の維持をしてきたあの人を前にしてしまうのは絶対に娘として嫌だったのだ。
故に、霊夢は一人を選ぶ。それが人間として間違っているということを理解しながらも、今まで貰った愛に報いるためには、と歯を食いしばって。
それを見た紫は、霊夢を健気だとは思う。そして、それだけ。
可愛いが、愛おしくはない。そんな現状に対する結論に出せるのは、一つばかりと彼女は長い金髪を指先で遊ばせながら言う。
「はぁ……あの甘えたの子供がまあ、頑張るわねぇ。まあ影ながら応援してあげるわ」
「ふん。あんたの応援なんて結構よ」
「あら? 優しい大人が近くに何人居たとして、子供は喜びこそすれ困ることはないはずだけれど?」
頼りにはしていいという意味を込めた言葉を否定され、流石に紫も困り顔になる。
幾ら優れていても、一人では立ちゆかないのは人の常。
それを乗り越えようとしてこのまま個人として少女が修羅になるのなんて面白くもなく、また彼女の母の友として許せもしない。
だから、困ったわねぇと首を傾げる紫に対して、しかし霊夢は真っ直ぐその鳶色の瞳を向けて。
「それは、年寄りの間違いよ。私にはね……あの人だけ、隣に居てくれれば良いんだ」
そればかり、断言するのだった。
「疲れた……」
自ら頼み込んで夜中まで行った修行を終えてから、八雲紫と別れてしばし。
山中を動き回って、霊力の殆どを絞り出した霊夢は最早気力のみで神社の境内へとたどり着いてから、リボンを整えつつそんな一言を溢した。
実際、十を数えたばかりの年齢にて朝昼は社屋に境内の面倒、そして夕方からは巫女修行を行うなんていうのは、本来無理があること。
持ち前の膨大な霊力を持ってして身体能力を向上させているが、しかしそれだけでは身体はともかく心の摩耗を止めることは出来ない。
ああ、そういえば一番近くに笑顔になったのは何時かしらと考え、それが霊夢が砂糖と塩を間違えたおにぎりを食べさせてしまい母が甘みに悶絶していたあの日以来になるのだと思い返す。
そして、そんな機会はきっとまたしばらくないのだろうと霊夢は思う。何となく虚しく思いながら、よろよろ神社の前までたどり着いた霊夢は呟くように言った。
「……さっきから、誰かどこかで私を見てるのは分かってるのよ、出てきなさい」
少女に視線を感じる肌はない。けれども、不穏を察する直感は誰より優れていた。
そのために、本来なら気取れない筈の実力差のある相手の隠形にすら気づくことが出来る。
出てこいと言われた彼女は満月に双角を晒しながら、これまで見たことのないくらいに真剣な霊夢の表情に苦笑いを浮かべながら茂みから現れるのだった。
「いや、流石は霊夢……私だよ」
そして、慧音は賞賛と一緒にその身を月光の元に晒す。
全体に緑の色調に、見覚えのある甘い顔立ちに目立つ胸元。そして、迫力のある大ぶりの角。それらを見つめた霊夢は微妙な表情をしながら、問う。
「お母……いや、違うわね、その角と妖気。先代巫女に化けてまでして私になんの用?」
「え? あ、角……そうだ、今日は満月だった……いや、それはその、な?」
「私は、なんの用かと聞いているのだけれど?」
「え、えっと……」
苛立たしそうに更に問いを重ねてくる娘。余裕のなさからくるその驚きの迫力に、お母さんはもう涙目だった。
霊夢が母を母でなく変化している妖怪と考えた今回の事態。
それには、まず幼い頃に霊夢が狸に化かされた経験があった。
更に、霊夢が慧音に取り合わず、そのため満月の日に母の見た目に力の変化が起こるようになったのだと知り得なかったこともある。
そんな親子のすれ違いのための勘違い。
娘は母を妖怪だと思い込み、母は母で勘違いしている娘に驚きながらもでも勘違いされているからこそ話が出来ている今に感動して本当のことを告げるべきか悩む。
隙間から様子を見ていたとある少女は畳を叩いて笑っていたりするがそんなことを知らず、慧音は必死に最善の答えを考えていく。
「そ、そうね。私は、貴女を……」
「私を?」
「あ、甘やかしに来た!」
「はぁ?」
幻想郷の知恵袋とまで言われた知の蓄積を持つはずの慧音は追い詰められた果てに、そんな突飛なことを口にした。
突然の、目の前の狼狽える母に似た何かの甘やかし宣言に、霊夢も些かながら驚く。
いや、この流れでこんなことを言い出すのは、本当にあのちょっとポンコツな母ぐらいであり、幾ら変じたところでここまで化けられるのかと娘は疑問を覚えて。
「だ、だって、霊夢。お前何だかずっと頑張っていて、休んでいなかっただろう? 流石に心配になって……」
「ああ……」
そして、続いた言葉に霊夢は全てを理解した。
ああ、この一体全体目に優しい色をするようになって頭に逞しげな角まで付けている馬鹿げた妖気を秘めていそうな存在は、妖怪の方に寄っているだけの母なのだと。
流石に、勘なんて得意を持ち出さなくても、娘に母の真心を間違えることなんてあり得ない。どうしようもなく、母は無視する私を無視できずに、こうして隠れて見守ってくれていたのだ。
それは、嬉しい。だが。霊夢は悩みながら、母だろう妖怪の話に乗りかかるのだった。
「分かったわ。あんたはそういう妖怪なのね」
「そ、そうだ。私は満月にだけ現れる子供好きの妖怪で……そう、お前の母親そっくりなのは……」
「そっくりなのは?」
「それは……うーん。偶然だ!」
「……そういうことに、したいのね?」
「あ、ああ……ダメか?」
うるうるとした瞳を持って、色違いバージョンの母は自分を見つめる。
嘘を吐いた上でそんな情けない姿まで見せられた霊夢は。
「はぁ」
だがその内に存在する自分に対する愛を覚えてしまえば、どうしようもなく無視など出来なかった。
まるで誰かに言い訳でもするように、子供は続ける。
「あのね。私は博麗の巫女。色々とごちゃごちゃした決まりがあるけれど、簡単に言うと妖怪と敵対すべき者よ? そんなのが、妖怪に甘えられると思う?」
「それは……思えないが、でも!」
博麗の巫女は、間違いなく妖怪を許容してはいけない。そんなのは誰よりその役目を破ってしまって問題を引き起こした慧音こそが知っている。
だから、本来は霊夢の駄々のような言葉にただ頷いてもいいのだろう。
けれども、母は断言する。胸にぽよんと手を当てて、柔らかに笑んでから彼女は言い張った。
「霊夢は私に、甘えていいんだ」
「何よ、それ……」
本当に、何なのだその言葉はと霊夢は思う。
子供好き妖怪と嘘吐いておきながら、母として本性を晒す。
そんなことで、本当にこの人は娘に全てを見抜かれないとでも思っているのだろうか。
「ふふ……」
思わず、少女は微笑んでしまった。
だから、もうダメだ。そもそも意地とか、目標とか、そんなもの全てひっくるめて全て無理だった。
だって、私は博麗の巫女ではなく、元々ただの霊夢。それを救われて今があるのだから、なら。
いつの間に、神社間際まで二人は来ていたのだろう。
開けっぱなしの全体に吹きさらす緩い風。それに追い立てられたかのように、霊夢は溜息を吐きながら、指示をはじめる。
「はぁ……貴女ちょっとそこに座ってて」
「そこって、縁側か? よし……っと」
「ん」
そして、縁側にて座した母の背に、霊夢は靴を脱ぎ放ち疾くもたれかかる。
温かい背中に背中を押し当て、頭まで預けていかにも不用心に。こんなの、巫女が妖怪にする行為でない。
でも、それは母に甘える子供の図としては正しくぴったり。
そのまま、二人は外に中。違うところを見つめながらも優しく寄り添いあって。
「私と貴女はきっと背中合わせ、でも……」
もう、私達は一緒になれないのかも知れない。でも、そんなの嫌で、だから頑張るのだけれど、しかし。
「一時だけ、背中を預けて休むくらいはいいかしら?」
これくらい甘えるのは許して。そんな子供の言葉にお母さんは。
「ああ、勿論だ」
月に微笑み、肩に流れる黒髪を撫でるのだった。
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