第二十六話 消えずに燃えて

先代巫女な慧音さん 霊夢に博麗を継がせたら無視されるようになった

歴史とは足跡であり、それを失くした者に信頼などそう得られるものではない。
そんなのは、上白沢慧音は新しく歴史を始めてからこの方ずっと痛感していたことだ。
だからこそ、これからを歩み続けなければならないのだけれども、彼女は凍える今夜を人知れず逃げていた。

「喧騒が、遠いな」

探す元気に逆らいこの深き竹林に案内なければ迷うだけ。だが、迷妄抱く胸元にはそんな徒労こそが薬だ。
うるさき親類縁者もなければ、孤独は肌に染み入るように寒い。
戯れる子に友も先生も存在しておきながらそれで何を震えるのかと、角隠れても角張った固い頭は悩むけれどもその答えは単純だった。

「私は、私でしかない」

一体全体全てが愛おしく、好ましく、でも狂おしくはない。
何から何までが情報であり、心に届かないのはあまりに慧音が読者然としているからか。
そう、彼女は一項を捲るかのように愛を持って触れて目を通し、そればかり。
抱いたのは娘一人きりで、それすら必要にかられたからというのが発端であり、更に言えばそんな歴史も今の彼女になければ。

「だから妖怪すら、嫌えやしないのだ……」

好きに反する嫌いもなく、ただフラットにそのモノばかりを見てしまう。
孤高の賢しき瞳には平たい世界がどうして闘っているのか今ひとつ理解できないことと、彼女のそれは似ている。
孤独の愚かな心には数多の人達がどうして愛し嫌いあえているのか、これっぽっちも理解できなかった。
それが素晴らしいことだとは思えるのに、思えるだけ。紙片の彼らと同じように燃えることなど出来ないのが、残念で。でも、幾ら涙を溢しても彼らのように上手な染みになることだって不可能。
暗いインクの筆跡と、慧音の細い指先はどうしたって交わることはなかった。

「……おや?」

自棄になっても避けるべき竹の根っこは数知らず。
転ぶことすら出来ない程悩む慧音の頭は勝手に動いて空を見る。

竹林の何が良いかと言えば、それだって限りない。材になれば、景観も優れて、筍の味も良いものだ。
ただ、慧音がこの場が森林ではななくて良かったと思えたのは、たった一つの理由だった。

「涙?」

そう、それは月光梳くばかりの擦れ合う葉の騒々しさ。
慧音の所作に踏みつける足の音も彼女の元まで届くことなく消えていく。

「――さ」

勿論、銀の少女の眦の光を語った無聊な言葉、そして彼女が呟いた弔いの文句も誰知らず散っていった。

 

藤原妹紅は先代の巫女に心を救われた者である。
髪の長い女で、知識人。恩人の情報をそれくらいの言葉でしか表せないのはどうにも何かの呪いの存在を感じざるを得ないが、しかし妹紅が恩を感じているには違いない。

「やれ、私にこんな退屈な夜を紛らわす友が酒以外にも出来るものとはね」

妹紅の家はあばら家だ。迷いの竹林にある、竹の成長を考慮に入れず気にもしなかったために時に伸びすぎたそれらを燃やす度にボヤ騒ぎを起こし、その度に燻され旧さを増すそんな家屋。
何度も竹の勢いにほじくり返されて中は相応に荒れている。だがしかし、その上の茅葺き屋根は存外綺麗なもの。
そんな屋根の上にて家主たる妹紅は月光読書と洒落込んでいた。

「また会いたい……かぁ。あいつら、本当に泣かせるわよね」

ただ、老いを知らない不死の彼女が手繰っているのは、数多の古ぼけた文。
当然のように写しも取ってはあるが、しかしこんなつまらない日には彼彼女らの温かみを感じる本物を眺めてみたくもなった。
年代も書体も異なるそれらが、自分を失ったことを悔いて想ってくれたその証だという事実を抱くようにして、妹紅は続けて言う。

「――私は独りだが、独りじゃない」

妹紅は、先代巫女をろくに覚えていない。だが、彼女との関わりを思い出そうとする中でそんな言葉ばかりはすっと出てくるものだから不思議だ。
手入れ要らずの蓬莱の形の端たる銀の髪を茅に絡ませながら、妹紅は更に考える。

よく分からない先代巫女の末路は知らない。だが、それでも確かに妹紅は彼女が人を救える、救おうとした人物であったことだけは識っている。
なにせ、彼女のために不老不死の孤独よりも去った筈の人の心に残れたという愛おしい事実に温まり続けられるのだから。

「はぁ。何時かは恩返し……といきたいところだけれど、代替わりしちゃってるし、死んじゃってる可能性のほうが高いだろうから望み薄、かしらね」

自分は何時までも想えるが、人は永遠を待てない。
実際巫女は新しく博麗なんちゃらに代替わりしていて、そもそもその正体すら幾ら考えようともよく分からなくなってしまえば、どうしようもない。
本来ならば、忘れてしまったほうが良い、恩。幾ら救われたとしても、この熱量程度が永遠を温めるには足りないと知っているのだけれども。

「ま、輪廻転生で相まみえるのでも何でも良いわ。私は私である限り何時までも貴女のことを忘れない」

それでも、今に孤独に震えなくて良いことがどれだけ素晴らしいことか、彼女は果たして知っていたのだろうか。
それが分からなくても、藤原妹紅にとっては、良い。

月光明るく遠く見える星の下、ただ擦れ合うばかりの葉の音ばかりが、今の独りぼっちの彼女には心地良かった。

 

「はぁ……そういや、今日はアイツが消えた日だった」

命日、というものは送り人でしかない藤原妹紅には数限りない。
だからこそ、死を数える趣味もない彼女には普段は特に気にすることではなかった。
とはいえ、せっかく温んだ心。どうせならばと、一日の最後にまた誰かを想おうとしたのは、彼女の生来の優しさから来るものなのだろう。

暦を目にして慌てて書類を片付け時を空に見ながら、妹紅は慌てて竹林を駆けた。
後には竹林の案内人とすらされるかもしれない彼女ならば、どんな速度であっても危うくなることは殆どない。
ブレーキ要らずの健足は、しかし目的に近づくにつれて緩んだ。

「懐かしいな……」

思わず瞳の赤が、少し潤む。止まった慧音は、なにもない筈の竹ばかりの地に落ちた細かな石塊に過日を想う。

それは、竹林に棲む力ある妖怪だった。それなりに長生きしているようで賢しくあり、話をするのは楽しいものだったと憶えている。
ただ性格は傲慢で、人を餌食としか覚えないタイプのあやかし。それはそれは、妹紅と反りが合うことはなかった。
しかし、人も妖怪も縁というものがあれば、縄張り争いに負けた彼女が妹紅の所に身を寄せるようなことだってあり得たのだ。
とはいえ妹紅がその際にしてみたのも気まぐれ程度の軒貸し。その妖怪だって恩には着ずに好き勝手してばかり。
妹紅もいい加減追い出そうかと思ったある日、彼女は困った顔でこう口にしたのだった。

「そういえばどうしてお前、ずっと死なないんだ、か……」

相手は人と交わらぬ妖怪。ならば隠し立てすることもないと、妹紅は自分のことを話した。
不老不死。だから百年経っても私はずっと私のまま。まあ、別段おとぎ話のように他に不死を与えることすらない、気楽なものさ。
そんなことを言った憶えが妹紅にはある。そして、それを聞いた彼女の、だからお前はこれだけ経っても私を認めてくれないのか、という返答に口ごもった覚えも、また。

「――認めていたさ。決まってる。誰が好き好んで嫌いな奴を懐に入れるんだっての」

そして、だからこそ彼女は泣くのを堪えて死なずの人に爪を向けたのだ。
目的など無く、ただそれが思いのままだからというあやかしらしさから。全力を持って、不死殺しを妖怪は成そうとする。傷一つ付ける度に、その心の炎弱めさせながら。
まこと、そんな全てが愛のようであったのは、妹紅には忘れられない記憶だった。

「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に、死んで死の終わりに冥し……違うね」

生き死にの全ては無明。何もかも無意味であり、大義などこの世にないのかもしれない。
だが、そんな真理のために情動はあるのでなければ、勝手に生きる命の全ての小ささこそを愛そう。

泣かずとも、それを堪えて敵であろうとしてくれた貴女の真心を一度は汲んであげたけれども、もういいだろう。

「お前も、私の友だったさ」

藤原妹紅は今はなき妖怪のために涙を溢す。

 

それに足音はない。気配も薄くあれば気づかなくても仕方なかった。
だが、乱れる心は何かしらの兆しを発するもの。周囲に異常を覚えた妹紅はさっと慧音の歩んでくる方を見る。

妹紅と慧音はこの歴史上でも初対面ではない。ならば、迷うことはなく目の中に入るそれは上白沢慧音と断ぜるはずだった。
美しい、月光に輝く白銀。私と異なる独りぼっちの何か。訝しいとすら思えたそれが、どうして《《何か》》と重なって、ぶれる。

「ん――――あんた、誰だ?」

だから、自然妹紅はそう問った。
そんな突飛な問答を受けて、しかし誰よりも優しくしか出来ない彼女は衝撃を受けたかのように表情を歪める。

「私は、私は……」

上白沢慧音は、その紅の視線から逃げるように足元の砂礫を望んで、そこに何かの意味を見つけてしまい。
耐えられなくなって、こう本心を溢すのだった。

「誰、なのでしょう」

 

時の鐘ならずとも夜更けを知らせる冷たい風、一陣。
不死者にも悲しみ暮れていた昨日は終わり、今日がやって来る。
そして、存外この新しい日は快いものだったようだ。思わず口元緩めてにこりとして、妹紅はこう返す。

「あは。意外と面白いんだな、人里の賢者は」
「えっと……私は冗談で言ったわけでは……」

慌てる、女性。そしてそれは私を前にお姫様と例えてくれた子でもある。
他の読書家だの難しそうなところは全部差っ引いて、こうして見ると随分と可愛らしいものである。
そもそも、妹紅と彼女年齢は比べるまでもない。だからこそ、娘を見る婆の気持ちなのかと一考してみたのだけれども。

「だからどうしたっての、おかしいよ」

それは違うと、彼女は思う。
だって、彼女は正しく悩める孤人で、そして何より我を忘れるくらいに震えている。
ならば、気づけば炎たるようになっていた私が温もりになっても、良いだろう。
きっと私はそう思っているのだと、蓬莱人藤原妹紅は決めつけて。

「えっと……確かに私が私と分からないのは狂的かもしれませんが……」
「誰だっていいさ」

吹きさらしの場にて銀の房が互い違いに風に揺れる。
全く違う何か同士が向かい合って、それを果たして何と言うのだ。
きっと先程から想起してやまないこれは夢であり、でも間違いなく焦げ付かんばかりの想いが根底にあった。

「あんたは私の友達だったろう?」

銀の睫毛をこれ以上なく、驚きに開かれる瞳。

そう。歴史なく寄り添った歩みなどなくても。彼女の貴女を決して独りにはしないという思いだけは消えずに燃えていた。


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