第十話 おっこっちゃう

先代博麗の巫女な慧音さん 霊夢に博麗を継がせたら無視されるようになった

「幻想郷史ではなく日本史か……原始の頃だと石器に、竪穴住居。古代で土器に古墳にヤマト王権で……ふむ。こうしてつらつらと並べていくのは問題ないか。いや、しかし目立つ事柄を集めたばかりが歴史ではないだろう。背景や文化なども確り記さねば……信憑性が高そうな文化に関して広く纏めた書物は……これか」

真白いノート――先頃返ってきた子供のころ使っていたものよりは上等な――を前にして、いざ記念すべき一文字目を記す前に羽根ペンを私は彷徨わせる。
そして、目は必死に正解を求めて資料を漁り続けていた。それは、不安だからだ。

いや、一文字一句とは流石に言えないが、実のところ私はそれなりに一度読んだ本の内容は大概記憶できている。
だが、自分のための知識ではなく、人に広めるための情報を記すのであれば、それは情報の正誤に敏感になってしまうのは自然。
仕事のためにしばらく書き物をするのだと言ったら後で読ませて欲しいからと大量のノートやら紙類を融通してくれた烏天狗の信頼に報いるためにも、立派なものを作りたいとは思う。
だが、そう意気込んでしまっているからこそ、私は大したことのない代物すら書き始められない。
最早、文才以前の問題だ。人並み以上に溜め込んできたからこそ、その知識に不安を覚えてしまうなんて、バカだなと私は微笑まずにいられなかった。

「ふふ……ただ記す、或いは伝達のために書くのではなく、教え配るための整え方に私には知識の不足があって……そして、覚悟もどうやら足りていなかったようだな」

そんなことを呟き、私ははじめて白紙のノートに記したのは、線二つで作ったバツ一つ。
これは自戒だ。端から間違っていて、ならこれからという新たな覚悟の表れ。
そう、何が不安だ。そもそも、教師にすら未だ成っていない新米未満が下手を馬鹿にされるのを恐れるなんて、下らない。

教え導かなくてもいい。ただ共に学びに学ぶのが教師。

我が先生八意永琳からはそんな文言を既に頂戴している。その言葉が正しいかも、頭でっかちな程度の私では確かめる術がなく、ならばこれから未来の生徒たちとで見極めていくのだろう。

「ああ、なんだ。それは、楽しみじゃないか」

考え直してみて、私も理解する。
独りで学ぶのではなく、教えてみて更に彼らの学びに理解を深めていくというのは実に魅力的だ。
一度そう思ってしまえば、まるで枷でもかけられていたのではというくらい重かった筆も軽い。それこそ、羽を箒に空を掃いているかのようにペンは動いて、すらすら書き出しのバツの先に文字が連なっていった。

「阿求ちゃんは、私には寺子屋の教師しかないとまで言ってくれていたが……歴史の教師として斡旋してくれたことといい、これは感謝だな」

そう、もう私は稗田の家の阿求ちゃんがずっと無職は困るでしょうと向けてきた強い圧に屈する形で秋頃から教職に就くことになっている。
最初は私には向いていない、そもそも子供たちには好かれていないのだと断り続けていた教職という仕事。だがその嫌気は実際、私が押し付けるばかりの寺子屋の教師達のことが嫌いだった過去から来ていた。
それなのに、応諾した後でそのような苦手だった、正しいと思う知識の押しつけをする先生の道を危うく最初から私は進みかけていたのだ。
これは良くはない。きっと私は先生としては大した才能がないのだろう。心構えすら足りない、ばってんの無様な物真似から始まる一歩はきっと見苦しい。

「懐かしいな」

もっとも、それくらいで諦めていては、博麗慧音なんてやってはいられなかったが。
見苦しい程度で諦めていては、私はきっと末期の父に彼が望んだ巫女姿を見せること叶わなかっただろう。
そもそも得意なんて何もなく、ただ積み上げるばかりが好きなばかりの私だ。そんな生き物が、格好いいなんてあり得ない。

「霊夢には、よくお母さんはぽやっとし過ぎって言われたものだ……しまりがないのは勤めに対する自覚のなさから来ていたのだろうが、まあ……あの日あの子の母をやれていただけで私はもう、夢のようだったよ」

私は過去にそう、思う。好きだった相手に振られてそれっきり。以降浮いた話もない私に出来た大切な一人。
我が子霊夢のためにと生き延びた異変や騒動は両手では数えられない。あの子こそ生きる意味と思っていた、私だった。

「……だが、私は間違えた。だから……せめて、私があの子に求めて貰えるようになるまで、正しく生きないとな」

そう、しかしやはり私は正しくはなくて、だからせめてこれから正さなければならないだろうと強く思う。

ああ、あの日どうして私は今にも事切れんばかりの様子だった白沢の姿を見て、残念としか思えなかったのだろう。
そして、彼の歴史を継げる、その死を無駄にしないで済むという事にのみ心奪われて頭いっぱいになってしまったのか。
未だにその答えは出ない。

『済まないな……』

だが、最期に見た彼の小さな笑みばかりは確かに、今の私の救いだった。

 

「ん? もうこんな時間か……」

一度はじめてしまえば、拙さは止まらない。ノックの音で顔を上げるまで、私は表現の楽しさに浮かれて耽溺していたのだった。
きっと見返したら駄文だと理解できるだろう長い長い事実なのか考察なのか分からない途切れのない文で大分汚れたノートを置いて、私は暗がりに時の経過を覚える。
そして、夕に暮れる手前のこの頃に人里にしては少し治安の悪いところにある我が家に訪れる者は誰だろうと私は首を傾げた。
来訪の合図は欠かさない程度の礼儀を持っていて、しかし随分とそれは低い位置から聞こえたような。分からずに、私は素直に問った。

「む、阿求ちゃんにしては少しばかりノックが優しげだったな……すまない、扉の向こうのあなたは誰かな?」
「え、私を忘れちゃったのー。慧音ちゃんったら、霊夢ちゃんに呆れられちゃったって聞いてたけど、本当にダメねー」
「えっ……この声はもしかして!」

戸の奥から小さく響いたのは懐かしさすら覚える、その声色。
優しさ柔らかさが魔性なまでに整ったとすればこのような音になるのではと思える、そんな響きに親しみばかりを覚えた私はがらりとこちらから扉を開ける。

すると、そこには案の定彼女らしき姿があった。
それこそ特徴的なたくましさすら感じるサイドテールを筆頭として、これ偉そうで格好いいでしょうと彼女が気に入っていた赤いローブを羽織ったその様子は間違いなく、魔界神である神綺のもの。

「慧音ちゃんだ!」
「ん?」

だがしかし、そんな全てがどうにもちみっこい。私はなんだかふわふわしていて柔らかそうな彼女の全身を認めて、こう呟くのだった。

「これは神綺……の人形?」
「ええそうよー。私今、ちょこっとアリスちゃんの抱きまくらになってたお人形さんの身体を借りてるのよね」

コミカルに強調されてもはや太いばかりの髪の束を弄りながら、曰く神綺そのものらしい人形はそう語る。
目を細めれてみれば、確かにこの神綺人形には凄まじい魔力が秘められているのは理解できた。
もとより愛らしい見目をしていた彼女がより可愛らしくなってやって来たことに、私は興奮を隠すのに必死になりながら、しかしこの口は関係ないことを問う。

「流石は魔界の神様……神霊で言う分け御霊、のようなものか?」
「ええ、そんなもの。ちょっとお邪魔するわねー。あら? このお家土間から式台までちょっと高さがあるんじゃない? よいしょ。バリアフリーじゃないわー」

お邪魔すると言って勝手にちょこちょこ歩きだし、式台の一尺程度の高さに引っかかっている様子の神綺人形。
飛ばないのか飛べないのかは分からないが、自分の背程のバリアに難儀しているその様子を哀れに思った私は彼女を持ち上げる。
なんだか神綺人形はとてもふわふわしていて、そして良い匂いがした。

「わあ。今度は私が高いわ!」
「私の家は旧くてな、すまない。だが、この家だとむしろ今の神綺にはそこらに置いてある本の山が一番障壁となりうるだろうな……」
「わぁ。凄いところに住んでるのね、慧音ちゃんって。これじゃ夢子ちゃんのお部屋の方がよっぽどすっきりしてて過ごしやすいわよ?」
「むぅ」

あの子程私物がなかったら逆に困っちゃうかもしれないけれどね、と私をつぶらな――つやつやした黒ボタンで出来た――瞳で見上げる神綺人形。
まあ、汚部屋ではないが機能性の殆どを阻害された私の家と、機能性しかないガラガラな夢子――神綺曰く魔界最強クラスのメイド。確かに強かった――のワンルームのどちらに住みたいかといえば、普通は後者なのだろう。

けれども、住めば都であり元々生家であるからには終の棲家としたいくらいに私はこの家に馴染んでいる。
まあ、霊夢は本の山を邪魔だとよく切れ散らかしていたが、あの子はあの子で暇な時に本の山に物理的に世話になって――主に枕のような寝具、投擲する玩具として――もいたからまあいいだろう。
取り敢えず、不便はしていないのだからいいのだと決めつけて、私は魔界のゲートを閉ざしたため当分会うことはないと思っていた、胸の中の小さな小さな魔界神に問いただすのだった。

「……正直、このような形であろうと神綺に会えて私は嬉しい。だが、どうして今こんな無理な形で私のところに来たか、聞いてもいいかな?」
「不安だったの! 巫女さん辞めちゃった慧音ちゃんがどうしてるのかな、ご飯とかちゃんと食べられてるのかなってなったら私もう心配で心配で……」
「あー……流石に毎日食は欠かしていないが……確かに仕事を辞めたと手紙に書かれてたら、心配にもなるものか」
「そうよ! 私達お友達じゃない。それに私あの鬼巫女さんだった慧音ちゃんが巫女さんを辞めたらただの鬼のように荒れた人間にしかならないんじゃないかって、怖くなって様子を見にきちゃったのー」
「う……」

鬼巫女、と言われてまあ私も心当たりはなくもない。
実際、魔界から大量の侵略者――と当時の私が勘違いしただけで実際はただの観光客だった――が幻想郷を押し寄せてきたのだから、これは過去最大の異変として私もあの時ばかりは本気にならざるを得なかった。
やれ陰陽玉だの退魔針だのフル装備で平和だった魔界を蹂躙――魅魔も幽香も何故か加勢した。当時仲良くしてたからだろうか――した私は、それこそ鬼のように思われても仕方がなかったろう。
結局、それもこれも神綺と弾幕を交わしながらの直接的な話し合いの結果すれ違いだと分かって、最終的に問題を引き起こした魔界のゲートを閉じることで話はついたのだが、私が殆どお咎めなしだったのは奇跡に近い。

さて、そんな寛大な許しをくれたどころか私と友達にまで成ってくれた母友である神綺。
彼女は今胸中の人形と化しているが、だがそれでもその観察眼は確かなままであるはずだ。そのくりっとしたまんまるお目々で私を見つめる神綺人形に、私は聞く。

「……実際私を見てみてどう思った?」
「んー……ちょっと動物っぽくなったくらいで元気そうで良かったわ。ただ、神の犬じゃなくなっちゃったのは減点ね」
「そう、か……私は……」
「いいの」
「え?」

つい、私は私が神綺に挑める位置ではなくなってしまったことに落胆されてしまったのかと思い、肩を落とす。
だが、違うのよと彼女はその丸い小さな手で持って示す。
神綺人形が棒切れのような腕でさし示したのは、私が書いたばかりの幻想郷へと続く日本の歴史。その、奇跡のつながりを私が愛していることをまるで知っているかのようにして、優しく彼女は言うのだった。

「正直なところ、この世界が貴女を望まないのだとしたら、私が貴女をいただいちゃおうかと思ってたわ。神隠し、なんて在り来りだけれどそれで幻想郷と喧嘩することに成ったって、私は貴女が欲しいと思うくらいに慧音ちゃんを贔屓しちゃってる」
「神綺……」
「でも、良かったわ。思っていたより貴女はいい表情をしていて、楽しそう。なら、私はお隣の神様として慧音ちゃんの幸せを願うばかり」
「うっ……!」

貴女のところの神様は、もう他の子を選んじゃったみたいだけれど私は慧音ちゃんをずっと忘れないわ。そう続ける友に私は涙腺を緩むことを止められない。
涙を二つ、強く抱いた神綺人形の頬に落とす。そしてそれがすっかり吸い込まれてから、彼女ははっきりとこう続けるのだった。

「でもね。何時でも私は貴女を待ってる。ねえ、もし慧音ちゃんが《《おっこっちゃう》》ようなことがあったら……その時は私の方に目掛けて堕ちてきてね」

こんな小さく狭いお家でも住めば都と満足できる貴女なら、きっと魔界でだって楽しく暮らせるわ。

私の中で大きく手を広げ、そう語る神綺人形の口元は、円くも裂けんばかりに歪んでいた。


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