「うーん……」
本を読むという行為に沈黙が付いて回るのは果たしてどうしてなのか、上白沢慧音はときに考える。
そして、きっとそれは読書という行いがそれだけ緻密なものであるためではないかと、今日の彼女は思いついた。
その通り、ただ目で文字を拾うだけなら楽ではあるが、他人が認めた意味を飲み込むというのは中々に難儀だ。
いつどこでだれがなにをどのように。そのような説明の条理等が何時だって丁寧に使われている訳でもない。
そもそも、書くというのは独り言の延長線上に近く、畏まってさえいなければ本など但し書きのように不明なものだって多々あるものだ。
更に、玉石混交なそれらから意味を取り出すのでは飽き足らず、教訓までを得ようと欲張ってしまえば、それこそ頭よりも心が大変になってしまうものだろう。
心に印字するのなんて無理難題。しかし、真に書を読み上げる行為はそんな咀嚼行為によって仕上げられるものと、慧音は信じてやまない。
だからこそ、心他に預けることすら出来ないための沈黙が周囲に広がるのは自然でそれを不自然と感じる心の方が不自然だ。
もっともこれは読書に真剣でありすぎる自分だけに当てはまるばかりか、とまで考えてから慧音は本を置いた机の下の辺りから子猫の鳴き声のようなものを聞く。
「ああ、咀嚼から食に意識を繋げていたか……あやかしの端くれとはいえどうしたって、私も生き物だな」
それは猫ではなく空きっ腹の叫び。
先からずっと、日の没するところの国の歴史の一部とその繋がり、また妖怪変化じみた武威の活躍に心を往かせていたところ、箸休めに余計を考えたところでそれには滋養が足りていないと身体は言い出した。
彼女が朝から暮れにほど近い今まで瞳に映すばかりではなく脳に運動をさせ続けていれば、さもありなん。
「んぅ……はぁ、少し努めすぎたか」
脇机の上にて枯れた湯呑みの青い底を覗いてから、慧音は大きく伸びをする。
すると柔らかな全身の特に大振りな部分が揺れた。所作が年寄り臭いし、少しはしたないかと彼女も思わなくなかったが、しかし上白沢亭に慧音以外の人はない。
だから何を気にすることもなく、これまで彼女は読書に沈黙していたのだった。
そう、これまでもこれからも、この家に関わるものなんて何も無いのではと思えてならないほどに漂白された一軒。
ただ積み上がった本の数々ばかりが慰めの、そんな屋敷にて独りぼっちの中、平気の平左で彼女は今を活きていた。
我ながら寂しい人間だな、という考えこそ起きても一切合切寂しさなどとは無縁の心。それを読書や僅かな縁のためにと動かすばかりなのが慧音の今の普通である。
「それでは、軽く摂るか」
まずは湯を沸かさねばと動き、土間にて七輪が活躍するその合間に塩っ気の強い乾物を少し用意。
やがて慧音は頃合いを感じた際にお櫃を開いて朝の炊き残りの飯をこんもりと丼によそいだす。
そうしてから、騒ぎ出したヤカンの中身を持ってきてご飯にかけて、その上にぱらりぱらりと茶色い干し肉だのなんだのを振りかけるのだった。
「独りだと……こんなものだな」
次第に乾物らがふやけてきた頃合いにて、匙にて彼女は食み出す。一口ふた口、そうしていればもうお腹も騒ぎ立てることはない。また、味だって滋味深く角のない、しかし物足りなくもないものだ。
夕餉はこうして茶漬けのような簡易なものになっているが、朝に摂った栄養も思えば別段悪くはないだろう。
そう誰かに向けて内心言い訳している自分を不思議に思いながら、とても口当たりの良い一杯を慧音はいただいたのだった。
「旨かった……さて、次はどの本に……と」
そうやって、腹八分目は貯めたお腹を軽く擦りながら彼女が休んでいると、戸から控えめな音色が。
トントン、というそれが果たして低めからのノックであると察するが早いか、慧音は軽く身を正してから直ぐに応答。
いらっしゃったのだろう住まう人里の恩人へ疾く顔を出すのだった。
「いや、気づくのが遅れてしまったかな? こんにちは、阿求ちゃん」
「こんにちは、ですね、慧音さん。いえ。むしろ直ぐに気づいてくださったようで、私としては有り難かったです」
黄昏の手前の頃合いの客人。慧音の前に現れた小さな儚い影法師の名は、稗田阿求といった。
彼女は《《己と周囲の歴史を誤って食べてしまい》》初対面と誤認していた慧音に優しく事の次第を教示してくれた賢人の一人。
また、最も価値のある人里の人間である、一度見た物を忘れない程度の能力を持った、御阿礼の子。
更には慧音にこれから務めることになる寺子屋教員という職をまで斡旋してくれた、大恩ある人物でもあるのだ。
それこそ、白沢の威を借りるばかりの木端妖怪な自分では頭が上がらないものと彼女は思い込んでいる。
敬語をしないのは、止めてほしいという阿求からの要請があるからで、実のところは何時だって慧音も礼を尽くしたいとは考えているのだった。
「そうか……おや、今日のお付きの方は、稗田の家の方ではないようだね」
そうして、挨拶の一方後ろ。そこに付き従っている影が何時もののっぽの女性ではない、小柄なそれこそ白銀を思わす灰色の少女にすげ変わっていることに遅まきながら気づく。
にこりと微笑んでから、慧音は軽くその見た目年若い、でも阿礼乙女を守る実力確かであるだろう彼女に声をかけた。
「こんにちは。お初にお目にかかります。私はこの家に住む上白沢慧音と言いますが……阿求ちゃんの用向きに関わっている以上既にご存知でしょうね」
「ええ。貴女は阿求からは、知識豊富で最も賢い獣人と聞いてるよ。それに、あの白沢の妖獣ってのも噂で知っていたが……うん」
「ええと?」
上から下に、ゆるりと見定める朱の瞳。鳳凰の如く鋭いその視線から、逃れ得る真などある筈もなく、そしてどうしたって眼の前の知の獣人は自然体。
なるほどこれは、戦う存在でもないし、更に悪いことも考えてはなさそうだと理解した彼女、藤原妹紅は微笑みを作ってから、言った。
「はは……折角予定がかち合ったんだからと、偶の阿求のお出かけに何かあったらどうしようかと構えていた私が馬鹿みたいだ。うん、私は藤原妹紅。里の外に居を構える人間ではあるが……別段里とも無縁ということもないよ。慧音も仲良くしてくれたら嬉しい」
「ええ。こちらこそよろしくお願いします、妹紅」
手と手は迷いなく握手として組み合わされる。
互いの手の平の柔らかさに、妹紅はやはり鍛えていないなと思い慧音はどうしてこんなに綺麗な手をしていられるのか不思議に感じたが、閑話休題。
妹紅の方はそれだけでなく、慧音の言に不思議を覚えていた。何でこの半分人でなしは、こんな小娘に毛が生えた程度のような容姿を永遠としている自分に敬語を取ってつけているのか。
明らかに初対面であるのに、何をこれは感じたのか不思議に思い、逃さぬよう手を繋いだまま問いかけるのだった。
「んー……名前呼びなのは良いけどさ。どうして見ての通りのこんな小娘の私相手に慧音は敬語なんだ?」
「えっと、それは……貴女が見ての通りの方だろうから、でしょうか?」
「そっか……」
見ての通りで、敬意を払う。妹紅にもそれだけである程度の意は察せてしまった。
きっと、この半人半獣には自分が人と違うものに観えている。
それは間違いないだろうと思い、だが少し痛くなってしまうだろうくらいに握り込んだその手を開くこともなく、果たして縋るように妹紅は慧音にこう聞いたのだった。
「なあ……あんたに、私はどう見える?」
眦にも現れたそれは、不安。水の反射に満足して鏡の向こうは見つめられても、真なる己は覗けないから。
私は果たして未だに人間をやれているのだろうか。そんな問いに決して答えは返ってはこないのだけれども。
「私にはとても美しい、お姫様のように見えます」
「は?」
鏡よ鏡よ鏡さん。ワーハクタクという手鏡はどうにも歪んで過去を映していた。
妹紅から透けて見える永遠の躰の奥で死んでくれない唯我独尊のお姫様は、歴史に意味を見て取ろうと続ける慧音にとっては眩しい。
だから、彼女は敬意を持って話しかけたくなっただけ。
「そっか」
だが何となく、妹紅にはそんな在りし日に向けた褒め言葉だって嬉しかったのだった。
「あ、また慧音さんたら粗食をして! 身体は何よりの資本です! こんなの駄目ですよ!」
「あ、お夕飯を茶漬けで済ましてたの見つかっちゃった……ごめんごめんね、阿求ちゃん」
「ごめんは特に私には一回で十分です! 全く、どうせ慧音さんも私と同じく人の言葉を忘れられない癖して無視をして……後で、たっぷり稗田の家で馳走してあげますからね!」
「ぷっ」
故にこそ、藤原妹紅はいずれ上白沢慧音のことを一番に信じる人間となるのだろう。
それは、これより歴史となるに違いない当然のことだった。
日暮れ前の、人里。
仕事終わりの里人たちが行き交う目抜き通りを避けた、裏の小道に早々と上白沢亭を発った二人は歩を進めていた。
言葉は少なく。でも、そろそろ良いかと周囲に誰もないことを見て取った妹紅は小さな九代の天才の集合体に向けて、こう問い正す。
「それで、阿求。あんたは結局私に何をさせたかったの?」
宵を前に影法師も長く。小さいはずの稗田阿求は向けた面に多く闇を湛えながらこう返した。
「それは……理解、でしょうか?」
「あんたが、あの間抜けな賢獣もどきと仲良くしてることに対してなら、私としてはむしろ謎が深まったけれど?」
「ふふ……それでいいのですよ」
「はぁ?」
訳知り顔に、いいや実際に全てを忘れずに次第を理解しているのだろう唯一かもしれない存在は、子供らしくない笑顔を妹紅の前にて披露する。
解らない。それが率直な彼女の感想である。
妹紅とて、決してただの阿呆でなければ知恵者の方で情報を得ようとするのは自然なこと。
人里のこれまで見知らぬところに人と妖怪とも取れない存在が湧いてきた。それは以前ちょっとした話題となり、妹紅も興味を持って調べたことがある。
それによると、稗田家にて雇っていた歴史を食べることの出来る能力を持った半人半獣が、誤った歴史書の処理を任せていたところ間違えて自分とその周囲の歴史ごとそれを食べてしまった、という事の次第が理解できた。
「歴史に疑問や不満を思い、嘘と信じる者が多くあればあるほど、それは暴かれる力となる……そのために、私はこうして貴女と彼女を合わせたのです」
「……そ」
まあ、それを思うと《《一度見た物を忘れない程度の能力を持つ》》阿求ならばそれに対抗出来て、故にこうして唯一ほくそ笑むことが出来ているのだろうと、妹紅は思う。
その口ぶりから今と昔には齟齬があるような風ではあるが、だがそれくらいが何だ。
「まさか、あの堅物と私が親友だったというわけでもないでしょうに……」
そう、言って彼女は彼女から背を向ける。
何故か走った胸元の凍え、それから逃げたくなったためだ。妹紅は、背中越しにこう問った。
「ここまでくれば真っ直ぐだ。帰れるよね。稗田の嬢ちゃん」
「ええ。大丈夫ですよ。さようなら、竹林のご令嬢」
「……じゃあね」
振り返ることなく、未練も特になく、藤原妹紅はそのまま里の外へと歩みゆく。
背負った袋に入った古いらしい酒の味を楽しみに、彼女はきっとそのまま今日を生きるのだろう。
「ふふ」
だが、そんなの関係なくあの日の地続きの今を稗田阿求は生きている。
遅まきながら浮かび始めた欠けた月に、ノックの前に窓から覗いた彼女の顔の真剣を思い出しながら、くすりと彼女は微笑むのであった。
「今の貴女は随分と本に感じ入っていたようですが……書には真実のみを記す必要などないのですよ、慧音さん?」
そう、歴史は変わり、記憶も記録も神域の能力によって塗り替わった今。上白沢慧音が博麗慧音だった歴史を識るものなど最早僅か。
だが、それだって地続きの慧音という人が生き続けてくれているならば、きっと。
前に撫でられたあの優しさ、そして助けてもらった際の知恵ある言葉を思い起こしながら、少女は。
「私は記憶しています。貴女の言葉、行動の全てを」
恋するように、未完の月を見上げながらそれでも全てを良しとして、しかし。
「里で最も愛された巫女は、きっと全てを忘れたとしても、また愛されないわけがない」
頭を振って、それだけ断言をしてから家路を行き始めるのだった。
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