妖怪とは、陰陽思想で言うところの陰である。
そして、陽の存在に人間を当てはめるとするならば、幻想郷は果たして外の世界よりも明らかにくっきりと影深い地であるのかもしれなかった。
傷病老死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦。
四苦八苦に塗れた人々の生に、その苦しみが形になって辺りに繁茂していたらどうだろう。
そんなの、信じたくもない悪夢のような現実になりはしないか。
そもそも苦から逃げ続けるのが生きるということであるというのに、生け簀の如き幻想の地では逃避すらもままならない。
真、人という存在が生き辛いことこの上ない幻想の地。
あやかし共のための理想郷にて、光とは殆どが呑まれるものであった。
少女のような妖怪は指先一つで境を自在にする。
敷いた闇と暗黒の境界に座しながら、会話の途中に視線を外に。
遠く、人里の方を見つめながら八雲紫はこう続けた。
「もっとも、恐れるのを良しとして幻想郷の人間達は我々と約定を取り決めているのよね。そもそも、彼らはもとより神に妖怪がないという現実こそを恐れて山に残った者。怖い目には慣れてるわ」
「……これでも多くの書を預かる身であるからには、私も歴史に異を唱えるつもりはありません。貴女方の生存戦略には、相互不理解が利となることは知っています。それで尚人里がその体を保っているのには、むしろ感謝すら覚えている程ですよ」
反して宵闇の騒々しさを聞きながら、上白沢慧音は賢者の計りを諾とする。
人と人で交わり切れないならば、相手があやかしならばより一層。それくらいは慧音もとっくに知っていた。
だから、自らの妖怪を知っている彼女も、見て見ぬふりこそ利口とは分かっているのだ。
すると、我が意を得たりと紫は残酷な微笑みを花と咲かせる。
まるで好ましいものを観るかのようにしながら、冷たく彼女は続けた。
「そうね。餌食であり創造主でもある人間達には私もそれなりに便宜を図ってあげたつもりではある。でもそれを知った上で……貴女は幻想郷のあるべき形を違うと叫べるのね」
「ええ。隣人を恐れて闇に怯えて生きるのは、人にあるべき姿ではないでしょう」
「……妖怪は、人の不安で出来ているのよ? それに並ぶのは大変な努力が必要ではなくて?」
「ええ……しかしだからこそ、立ち向かい克己することに価値があるのではと私は思わずにいられません」
愚かと見る紫の視線に、負けずに慧音は断言する。
何しろそれは、潔癖故の理想論ではないのだから。
慧音の中心に座っているのは否定を嫌う、少女。怖いからこそ、怖がられたくなくて、怖がりたくもない。
そうあって欲しくて、そうなりたくて。故に慧音にとって恐れに克つというのは万金に勝る価値がある。
それを人に求めるのは酷であろうけれども、そうであればどれだけ温かいものであるかと分かるから、だから彼女も管理者の前にて引けない。
とはいえ、その怯えの結論を好しとも思える八雲紫は相容れないとも感じる。
妖怪は陰。だからこそ光を見上げて穢す。
尊い思いだからこそ餌食にさせるべきではないとする優しさのある妖怪の彼女は、柘榴の赤を扇子で隠しながら、あえてこう言った。
「ふふ……理想というか、夢想を語られている気分。記憶喪失の貴女は知らないみたいだけれど、弱いのが人というものですわ」
「そう、なのかもしれません。ですが、それを認めてなお進むのが成長とも言えるでしょう」
「全く、博麗の巫女を生け贄に生きている人里の大人の意見らしくないものね」
まるで闇を知らない光そのもののような発言に、ここではじめて紫は眉をひそめる。
口先八寸、舌禍は死にすら繋がるもの。賢者はそもそも囀らないべきである。
だが、それこそ嘘のようにマトモな意見に、子どもの背中にて怯え続ける人里の人間らしさが見受けられないのは解せず、紫も苦言を呈さざるを得ない。
一拍。
無防備にも妖怪の前で一度目を閉じた慧音は瞳を閉じ、そしてもう一度大きく赤を開いてからこう返す。
「……八雲殿の言葉に一つ、異見があります」
「あら、何かしら?」
「博麗の巫女は、生け贄などではありません。むしろ、彼女らこそ暗闇の中に歩を進めた人間らしき人間でしょう」
「うーん……そういえば、人里にはあの子達のあり方を名誉に思う者も多く居ると聞いてはいるけれど……貴女は特に夢を見ているようね」
八雲紫。巫女のための結界の八重垣は、手中の籠鳥を嫌に褒められたことに、目を細める。
紫にとって、博麗の巫女とは確かに思い入れ深いものであった。だが、それは翻せば弱点になり得るからこそ決して悟られるべきものもない。
だが、この相手のその役割に対しての拘りに対しては少々気取られるところがある。
狂的なまでに真っ直ぐにこちらを見つめる赤い目の、その博麗の巫女に対しての信心は不可思議。
だが、ゆっくりとその故を慧音は語った。
「境界を操る貴女に語ることではありませんが、夢は現実の地続きでしょう。私が夢見れるのであれば、それは彼女らの舞う姿があまりに美しかったがためです。籠の鳥は、自由です」
「面白い結論……それに随分と、霊夢を買っているようね」
「貴女には及ばないでしょうが」
「それはそう。……でも、解せないところがまた増しましたわ」
ここで初めて紫も面白い、と感じる。それはこの少女の感情の結論が、存外紫にとって心地のよいものであったから。
ああ、本当、彼女らが僅かにでも自由を感じていたなら良かったのに。
そうは言わずに、紫は慧音を爛と見つめる。
星降る、夜。そんなの幻想郷では当たり前だ。自然、夜こそ醍醐味であるこの地に、しかし妖怪どもが星と座する天をろくろく望むものはない。
その筈なのだが、強くも少女は少女が愛した星空を自然体で見上げている。
これは。いやこんな様こそ幻想郷に相応しく、だからこそこんな出会いは喜ばしくない。
本来ならば、私は彼女と。だが違って、それが少し悔しくて紫はこう問った。
「ねえ、上白沢慧音。そんな貴女はどうして――博麗の巫女ではないの?」
「それは……」
「私としては、したり顔で人を語り博麗を見上げる貴女がどうしてただの人里の者でしかないのが不思議でならない。観察と対話で分かっただけではそもそも貴女は生け贄向き。その命を他者に棄てられる稀有な存在でしょう」
語る紫は暗に、どうしてお前が博麗の巫女ではないのかと責め立てる。
道理を語り、変革を望む。そんな人間がどうして力を持ちながらただ人でなしでしかない。
何か違えば、お前と私は志同じくして背中合わせに立てていただろうに。
それくらいは解ってしまう程度の賢者である紫は、故に内心怒りに燃えていた。
これまで幻想郷にろくろく歴史を刻むことすらなく、光を向けるばかりでお前は何なのだ、と。
無論それは■■慧音が創り変えてしまった歴史の歪さの犠牲となった感傷でしかない。
本来ならば、確かに彼女は彼女の隣りにあって、ひょっとしたら今も仲良く笑顔を向け合っていたのかもしれないが、今は伏し目を睨むばかり。
八雲紫は以前の歴史では誰より信ずる相手だった慧音をこの歴史においては何一つ信じられずに、更にこう続ける。
「また、どうにも貴女の光は強すぎる」
指を立て、紫は天を指さした。
今は月が収まるそこに本来あるべきは、太陽。何より平等で痛々しいそれを少女にたとえた妖怪は、首を振る。
途端細やかな金の色が柔らかに黒を掻き、綺羅綺羅と大げさにそれは否定を表した。
「誤って貴女が自分の歴史を食べてしまった……それはいい。でも、こんなとびきりの人間で嘘のような妖怪でもある貴女がこれまで何者でもなかったというのは信じがたい」
「私は、それでも……識りません」
「でしょうね。ただ私は貴女の隣でだんまりを決め込んでいる月の方の意見も聞いてみたいところですわ」
目に入れて痛い、人の子。これは知らぬ存ぜぬで、通ってしまうのが憎たらしい。
そこで紫が声をかけたのは、素知らぬ顔した銀の人。
水を向けられ、そっと怜悧を極めた顔を向ける八意永琳に、不安そうに慧音は呟く。
「先生……」
「慧音はただの私の教え子よ」
「なるほど、貴女ほどの賢者が秘密裏に育てていたのであれば、上白沢慧音の実力の程が理解できないこともない」
教え子。その言葉に対して理解に紫は頷いた。
確かに、この神獣を半身に持つ存在の不可解は、それで多少なりとも理解できる。
何もかもを計りうる八意思兼神の真意を察するのはこの世でも特に優れた計算機であると自認している紫であっても無理だとは思うのだ。
とあれば、この永遠の存在が上白沢慧音を凡愚から傑物に育て上げたと夢想することは不可能ではない。
「ただ……この霊夢どころではない異常な巫力の故の説明にはならないでしょう」
だが、続く紫の言の通りに、実際それは無理。
誰より巫女を大事にしてきた妖怪であるからこそ、慧音の異常さを理解できる。
この半妖は、歴代最強と胸を張れる霊夢をも超えていた。ただの力という尺度でしかなくても、それが悔しいのは親代わり故か。
そう、今自分が誰の代わりを務めているのかすら知らず、紫は歯噛みし、そして。
「ねえ、八意永琳。桁違いの歴史を持つ月の賢者の貴女ならば、全てを記憶して理解しているのではないの?」
縋るように、賢者は賢者にそう問う。
ひょっとしたら、全ての絡繰は歴史の齟齬にあるのではないか。
そんな疑いにまで辿り着けた誠賢しき妖怪は、知らず酷く苦しそうに顔を歪めていた。
「そうね。私は全てを解している」
「なら……」
「だからこそ、黙るわ」
とはいえ、そんな他人事の全てに永琳が胸襟を開く必要はない。
むしろ、教え子が背を向けた歴史を悪しとして、大凡全てを解しておきながらも、不動。
ただ、闇に足り得ない彼女の青は光も紫の苛立ちも飲み込んで深く。
つい、年下の女の子である紫はこう口走っていた。
「……それは幻想郷のため?」
「いえ。むしろ貴女のために」
「……なるほど」
百聞は一見に如かずという諺もあれば、一言で分かる心もある。
それは、何もかもを嘘で塗りたくられて疑心を持った紫によく効く、薬。
なるほどそういえばこの方は薬師の側面もあるのよね、と思いながら再び彼女は慧音を見つめる。
すると何とも堅物で頼りなく、とても好きになれないような相手が目に入るが、しかしそれで今は良し。
紫はこう決めた。
「それでは永遠に倣い、私も黙し観察することとしましょう」
「それは……」
過去は地続きでなければ、なるほど今は嘘。そして、その間にはきっと誰かの悲鳴が隠されている。
それを境界の妖怪はあえて弄らず見て取ることにした。
何せ、好きも嫌いもこの世にあるが、だからといってゴミ捨て場にそれを持ち込んでも余計なばかり。
そして、今やゴミどころか一等綺麗なもの達をすら容れているのであれば、幻想郷というものは恐らくこんな愛をすら許せるだろう。
そう、今はなき思い出せもしない過去を想いながら、八雲紫は心を定める。
「上白沢慧音。貴女は思うがままにこの幻想郷を生きて良い。それでも幻想郷は全てを受け容れますわ」
「八雲殿……」
そして、彼女はピンと張っていた境界を緩めた。
途端に、騒ぎと静寂が入り混じり、大人びた雰囲気と稚気が近づく。
夜は孤独を失い、にわかな熱を帯びた。
「あれ、そういやけーねはどこー?」
「これは……もしや慧音さんとあの頭でっかちが……私としたことが不覚です! 先生と教師なんて不埒に繋がりやすい関係ですのに……夜な夜な何の勉強に講じていることやら……」
「いや師匠とあの子が、とかあり得ないでしょ……ま、なんか嫌な予感はするけれどさー」
「えーりん、お腹すいたわー」
幾つもの足音。
やがて子どものような彼女らの騒々しさに巻き込まれる寸前に至ってから八雲紫は。
「もっとも――――私は貴女を認めませんが」
いじけたように、そう云う。片目を瞑り、博麗の巫女ではない慧音を認めることだけは決してしなかったのだった。
彼女はそのまま境を潜って夜陰に消える。
「紫……」
だから、彼女が知らず月光に向けたその呼び名は、届かずにただ夜に響くばかりだ。
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