第二十三話 知識のために

先代巫女な慧音さん 霊夢に博麗を継がせたら無視されるようになった

先生。
それはここ幻想郷の人里において小さな寺子屋などを運営する教師達の呼称としてよく用いられているものだ。

そして、この頃新たに先生と呼ばれるようになったのは、稗田の家お抱えの賢者とされる上白沢慧音。
里の中程に新設された寺子屋にて彼女は主に社会学、特に歴史方面に造詣の深い存在として重宝されている。

最初は半獣なぞと侮る者も居たが、実際幻想郷の本の殆どを読み込んだ過去を持つ慧音に知識の深さにおいて敵うものなどない。
いや、少し古びたというかかび臭いレベルの古典を時に引用するようなところなどは面白がられることもあったが瑕疵などそれくらいのもの。

容姿端麗、子等に懐かれるのも上手で、それでいて出過ぎるところもなければ最早文句のつけようもなかった。
今日も今日とて、大げさな手作り教材を抱えながら子等に纏わり付かれる慧音を捻くれた者以外は柔らかに見つめている。

「けーねせんせー、もっと昔話してー」
「えー、そんなのよりせんせーと遊ぼうよ! 折角の休み時間だし!」
「こらこら、袖を二人して引っ張らないでくれ。今君らは休みの時間だろうが、先生の私は移動に次の授業の準備に忙しいんだ……それと智史、私が教えているのは昔話ではなく歴史であって……」
「ちぇー」
「昔話とかそんなのどーでもいいじゃん。ねー、せんせー。だめー?」
「駄目だ……授業熱心なのは嬉しいけれども、むしろ智史は大人以外と遊ぶのを学ぶべきだ。由香、出来れば彼と遊んでやって欲しい」
「えー。さと坊はチビだし面白くないんだけどなー」
「むぅっ……ユカだってチビじゃん!」
「あんたよりこぶし一つは大っきいよ。それにとろいし……ほら、こっちにおいでー」
「このっ、待て-!」
「……やれやれ」

子らは風、いや颶風や疾風の如くのそれにも上白沢慧音は慌てず微笑み一つ。元気な彼彼女らが出入り口から近くの広場を目指して駆け行く様をのんびり見つめるのである。
常の騒々しさも、明らかに雑草ではない靭やかさを持つ一輪の花には難事ですらなかった。
人里の大勢の若者達の好意を知らず袖にし続けている麗しき乙女は、しかしまるで実際《《子供でも育てたことがあるかのよう》》に勝手な精神に合わせることに慣れていたから。

「……元気で結構」

呟き、視線を合わせ子供と隣り合った慧音は、今一度背筋を伸ばして明らかに常より物で詰まった一室に挨拶とともに入る。
そして、その教員室に用意されている自らの席に手製の日本地図や指示棒を置いて、一息つく。

「ふぅ……んぅ」

気持ち落ち着いてから一度伸びをするのは慧音の癖であるが、ひょっとしたら身じろぎ一つで老若男女問わずその大きな胸元に視線を寄せてしまうそれは悪いものであるのかもしれなかった。
慌てて視線を外す若いものの反応を知らず、存分に胸を物理的に弾ませた彼女は。

「けーね!」
「わ……なんだ、ルーミアか」

人里の寺子屋にて元人食い妖怪からの突貫を報い代わりに後ろから受けるのだった。

 

さて、もう博麗慧音ではない上白沢慧音は、退魔を生業としていない。
むしろ、いち里人として妖怪は恐れなければいけない立場ですらある。
人が妖怪に怯える。そんな当たり前こそ外の世界と幻想郷を分ける根本的な差異だった。

お化けなんてないさ、なんて理想論。見て来て触れてしまえば存在を否定なんて出来やしない。怖い怖い、それは博麗の巫女様になんとかしてもらう他にないのだ。
そんな幻想郷におけるベーシックな思考に、しかし慧音は上白沢慧音として生き始めてからどうにも馴染まなかった。

そもそも自分の中には人ならぬ部分があると感じてはいたし、満月には大ぶりの角が頭の左右から主張し始めるのあれば、まあ妖怪は居るのだろうとは理解できる。
だが、それら全てが禍々しく恐ろしいものと誰が決めたのか。慧音は自らが持っている多分の力だって使いようだと思うし、己が眼で判断することを根っから好む彼女には決めつけなんて好めない。

故に、慧音は書状を持って《《一番に信頼する人》》へと伺った。
皆の言う通りに妖怪はそして私は悪しなのでしょうか、という問いを使いをしてくれた兎たちはむしゃむしゃせず確りと届けてくれたらしく、愛嬌程度に端を味見に齧れられた様子の返信封筒にて彼女は新たな知見を得る。

「生に頼る善などなければ悪も然り……異見に不安がることなく貴女は成したいことを成せばいい、か……」

永年の経験から来る言葉を慧音が全て察せる訳ではないが、しかし彼女も【先生】の言いたいことばかりは理解出来た。
善悪は尺度でありそれのみに生きるものでなければ、人の言葉を気にせず好きなように生きることも良い。そして、貴女なら間違いないだろうとあの人は応援してくれているのだ。

「ふむ……そうだな。理や律に背こうが、そもそも《《鬼》》のような枷もない人は自由。なら、私は……」

それから、慧音の準備は早かった。彼女はしばらく家から発つための準備を始める。一人分の荷物は、広く本で狭い家屋からでも直ぐに集めることは出来た。

時期としては、霊夢に魔理沙と立て続けに人よりも妖怪に近い人間達に会った頃合い。
それは即ち、予定している建立途中の寺子屋での教職に就く日までしばらくの猶予がある期間だった。
その間を本来なら孤児院へ通うことを半ば己の意義としながら過ごす予定だったが、それも変更だ。

「幻想郷を、知ろう」

そう、彼女はしばらくの箱庭の旅を決心するのだった。

意気込んだ翌日、後見を行ってくれている稗田の家、特に阿求へ話を持っていったところ、驚くほど簡単に許可が降りる。
それこそ、先にこう言い出すのを待っていたのかと勘ぐってしまうくらいのトントン拍子。
気づけば、出会えたらで構いませんが私からの名代として妖怪の賢者へこれを渡して下さい、と一通の手紙を大事に背負い、頑丈な人里の外へとつながる大扉の閉じる音を彼女は後ろに聞いた。

「……行くか」

街道は、里内と比べればどうしたって粗い。それに身を預けるための一歩目はどうにも不安になった。
しかし、不安定なそれも続けていけば今まで通りの心細い一人ぼっちが外でも続くだけなのだと、慧音は理解することになる。

「これなら……」

なら、大丈夫である。何せ上白沢慧音は博麗慧音ですらない、●●慧音の時からずっと人と並べない一人ぼっちな内心を隠し持つ歪んだ存在。

「ふふ……君らは可愛いな」

次第に、歩む隣に見慣れた兎たちが跳ね回るようであれば、それを可愛がる余裕だって出てくる。
道はどんどん不明になろうが、それがどうしたというくらいに慧音は健脚。頭でっかちにも書類を見定めるために下げていた頭も、青空を仰ぐために高く伸びた。
藪から望む美麗な世界に首を上げ続け、心に孤独を浮かべ続けた彼女は、そして。

「おお……私は、飛べたのだな」

地に足つかない心地と同期するように、その身を浮かすのだった。
兎の跳ねるそれより高くをしばらくふよふよとして、しかし飽いた慧音は発見ばかりを大事にして、降り立つ。
大きな胸を撫で下ろした慧音は、そのまま本心を人知らず、ぽろり。

「あまり飛ぶのは私に向いていないのかもな……下手をするとそのままどこへでも飛んでいってしまいたくなる」

寄す処、軛の足りない孤人に空はあまりに魅力的すぎた。そんな感想は続けずに、しかし彼女の視線はしばらく高く。

「……なんだ?」
「♪~」

故に、彼女はその暗黒を見つけられたのだろう。

 

「貴女は……暗闇? それとも、その奥の輝きが本質?」
「わー……なんか変なことを言って脅かそうと思ったら、もっと変なこと聞かれた!」

蒼天を汚す黒と目が合った。それを感じた慧音は自力の程すらよく知らないままに、訳のわからない妖怪の到達を待った。
そして、思わずかけた問いかけに、暗闇から唐突に出て怖がらせようと考えていた宵闇の妖怪ルーミアは、出端をくじかれる。
うむむと問いかけの答え、というよりもその意味を咀嚼する妖怪を前に、慧音は眉を知らず寄せた。
彼女は、少女向けて対話を続ける。

「失礼かもしれないけれど貴女は子供……のようね」
「そうかな? ならそう言う貴女は大人なの?」
「そうね……私は子供のつもりはないわ」
「なるほどー……なら、貴女は獣? それとも人間?」
「どちらかといえば人間かしら」
「ちぇー、残念ー」

人間と聞いて、お姉さんからは美味しそうな匂いがするのになあ、と悲しみを顕にする妖怪ルーミア。
ユーモラスで稚気まみれで、しかし背後に間違いなく闇を持つ。そんな妖怪の有り様に百聞は一見に如かずと慧音は瞳をぱちくり。
思わず、こう問いかけるのだった。

「どうして、貴女は人間を食べないの?」
「んー、確か前に『もう人は食べないで』って言われた気がするー。だからもう食べないんだ」
「そう、なのか……」
「そーなのだー」

言い切りそして徐ろに両手を広げる妖怪。それこそ今はない記憶をしかし身体が覚えていたための行為である。
パブロフの犬のように、愛おしかった人が前に来てくれたから、抱かれるための用意。
何度も抱き返してくれたそれを眼の前の歴史の続いていないこの人は知りもせず、むしろ訝しげに首を傾げるだけだったけれども。

「良かった」

ただ、間違いなく返してくれた笑みに、戯けたルーミアは良しとする。
たとえそれが子供のようなものを退治しなくて済みそうで良かったという本心から来るものであってもそれがどうしたというのだろう。

「そーなのかー」

ルーミアは、今はリボンのようにしている御札に触れるたびに思い起こす、記憶の中で涙を流していた紅白の彼女に似たこの人が笑ってくれているのが、嬉しかっただけだから。

「あらあらあらあら」

純な初々しい会話。そこに愛があるのは不思議である。
ましてや、そんなものはちょっと悪魔な彼女には反吐が出てたまらないもの。
邪魔はしたかったけれども、それ以上にどうしてかムカムカするこの胸元に従い、どう人里に忍び込もうかと考えながら隠れ潜んでいた少女は声を上げて邪魔をしだす。
からかいや悪意満々なその声色に、慧音は闇の更に後ろに隠れたそれをじっと見つめるのだった。

「……今度は誰?」
「うん? 言ってなかったっけ、私はルーミアだよ」
「そう……私は上白沢慧音。そしてルーミアの後ろに隠れた貴女は誰かしら?」
「誰と問われましたら、答えたくなくとも曖昧な返事くらいはしてあげましょう。私はそうですね……小悪魔風情といったところでしょうかね」
「そう」
「わー後ろに居たんだ、気づかなかった」
「ええ、ええ! 館のバケモノ共と比べるとルーミアさんと言いましたか。貴女は驚かせようがあって何よりです。しかし……そこの貴女はいただけませんね」
「……私?」

再び首を傾げる慧音。
いい年してなんとあざとい所作をするのだろうと目を細めながらもまあ似合いの仕草ではありますが、と内心捻くれてから現れた赤髪の小悪魔は一息でこう続けるのだった。

「ええ。上白沢慧音さんと言いましたか。長ったらしいので慧音さんとここでは呼称しますが、どうにも貴女は無防備過ぎますね。察するに慧音さんは人里から出たばかり……そんな力を持った程度の生娘がどうしてこんな危険な場所にて気楽にできるのですか? あやかし混じりとはいえ、人側なのは一目瞭然。そして、実は貴女名前を発するのを迷っていましたよね。そしてそれも当然の防備です。これでも悪魔な私であれば、あなたの名前から人となりを知ることも呪いをかけるのだって楽勝ですから。しかし、その可能性を知っていながら、私の善性に賭けてみた様子で……これには私もびっくりです! 愚か者に染まるのは賢人らしからず……けれどもそこに震えがないのがまた不思議です。貴女、ひょっとして自分が殺されないとでも思ってます?」
「うっ」
「小悪魔、話長いよー。もっと短くまとめてー」
「そうでしたか。なら縮めましょう……貴女はどうしてそんなに、知らないことを恐れないのですか?」
「それは……」

長い身につまされるような言葉の後に、小悪魔は真面目な顔して彼女に問う。
無知を恐れて知識にすがる。それを続けてきた慧音に、知らないことは恐れるべきだと思うのは当たり前で、むしろ小悪魔に自分が恐れを知らない人のように思われるのは心外だった。

だが、今一度自らの言動を振り返るに慧音は慧音にとって不可思議な言動を取っていたとは思う。
妖怪の残酷を恐れるよりその純真を信じて、悪魔の狡知を不安がるより隣人であることを選んだ。
それら全てが、どうにも無私のよう。私はこんなに大物だったのかと驚く慧音の後ろで、本心は諦観からこんな言葉を紡がせるのだった。

「私が私でしかないからだ」
「……それは?」
「きっと信じて、死にたいからだろう……一人で死ぬにしても、私は最後まで空を見上げ続けられる私でいたい」
「そのためだけに……貴女は優しくその手を差し出すと?」
「ああ。頭でっかちな私は、だからこそ知識のために生きたくはないんだ」
「けーね……」

誰より知識を蓄えながらも、孤独故に心に殉じて天に恥じる生き方を出来ない。だから、何時だって死んでも仕方がなと思う彼女は震えないのだ。
それこそ慧音の言う頭でっかちの生き方であるが、しかしあまりにそれは不器用に過ぎるというもの。
隣で聞いていただけでも、子供を自認しているルーミアは慧音を不安げに見上げるが。

「ぷっ」

勿論、小悪魔は違う。
彼女は悪徳を尊び、正義を嗤うもの。

「ぷははははっ、あっははははは! な、なんて愚かな人でしょう……とても、っぷ。無意味で無価値で……あは」

なら、喉から出てくるこれは間違いなく嗤いであり、そしてその更に奥から出てくるものはきっと。
呆然とする慧音に向けて、《《自己》》を嗤いきった小悪魔はこう結論づけるのだった。

「だから、長生きしてほしいと思っちゃいますね♪」
「え?」
「えいっ」
「わ」

そして、決めたら次は早いもの。小悪魔はふわりと慧音の元に近寄り、その指先にキス。
驚く彼女と彼女を前に悪魔はにんまりと笑み、満足気にするのだった。

途端に身体に感じ出した魔力の流れに目を白黒させる慧音の代わりに、じとっと小悪魔を睨んでルーミアは問った。

「……小悪魔、けーねに何かした?」
「ええ、しましたよ。それは……」

何か。それこそルーミアが問う前から小悪魔は隠れて色々試し続けている。
魅了に、麻痺に、石化に、その他の魔法をかけながらも健在の相手に、しかしこれだけは可能だったと彼女は喜びを表に出す。
上機嫌に、それこそ歌うように、小悪魔な少女はこう続けてウインクをするのだった。

「仮契約です♪」
「え」

 

「慧音……予想より、随分と大人数ね」
「そーなのかー」
「ふふ。そうなのですね♪」
「はは……先生、申し訳ないです」

その後。
野宿は嫌だとごねた小悪魔の要望叶えた結果、でっかいひっつき虫二つつけたまま宿を借りに兎たちの先導で永遠亭へと訪れた慧音は、先生――八意永琳――に苦笑で出迎えられるのだった。


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