月が綺麗ね

博麗咲夜、十六夜霊夢

星が月の子だというでまかせを信じる者はもういない。
月は地球の衛星でしかなく、そもそも煌めく星星と異なり自らの熱量で輝いてすらいなかった。

誰彼の距離のみが太古から月のその大いなるを信じさせたが、実のところあんなものは地球から離れて集った石塊だ。
間近で同じ顔ばかりを見せてくる、光輝を帯びてばかりいる物体。
月にうさぎが居るというのが嘘っぱちであるのと同じくらいに、星より尊い唯一無二と感じることは本来おかしい。

「今日も、月が綺麗ね」

だが、博麗咲夜は縁側にて茶をいただきながら、空を見上げてそう呟く。
それが愛言葉にさえ使われてもいい文句であることを知りながら、しかし黒に浮かぶ美麗に耐えきれずに用いてしまうのだった。

一目瞭然。百聞は一見に如かず、机上の空論ということわざもあるもの。
そう幾ら事実宇宙規模では矮小だろうが、個人の視座において月は最も大きく見える天体だ。
人に信じられなければ存在しない、そんな人間原理に雁字搦めされているのは、別に妖怪変化だけではない。

「盲亀の浮木、優曇華の花。……それほどでなくとも残念ながら私は人を愛する機会などろくにもないけれど、でも幻想郷は愛せたから、良かった」

愛は、知らずとも生まれる。自分の認めた世界こそ、少女の全て。
別段咲夜は、見られることがなければ事実もまたない、というどこかの外国人がした発想を聞き及んだことはない。
ただ彼女は風雅に覚えることで察していた。感じなければ美などこにも存在し得ないということを。

「はぁ」

しかし、冴え冴えとした月の下、咲夜は己のちっぽけさばかりを覚えてしまう。
肌で感じる夜風は先の驟雨にてどこか湿っている。その得意を先代に褒められたからこそ、未だ毎日丁寧に掃いた境内はむしろ清々しすぎて心置くことも出来ない。
だからか、寝入る前に月ばかりを見上げて、ずっと。その痛くない輝きと冷たすぎない青白さに今夜も魅せられる。

幻想郷は美しき、自然の極地。暗がりを見ればそこに魑魅魍魎が蔓延っていようとも、光見上げれば心安らぐことこの上なく。
そして博麗咲夜は己がそんな愛する月にも負けない優しい輝きだということに気づけずに、ただ月光を浴びて銀糸の髪を煌めかせていた。

それを勿体ないな、と何となく思った《《彼女》》はばさりと隠形を脱ぎ捨て、それこそ咲夜のお隣で小さな足をぷらぷらこう言う。

「へぇ。モウキだのウドンだの物知りな巫女なこと。でも、やっぱりあれがツキっていうのね!」
「っ!」

突然の、声。それに驚き身構えるのは博麗の巫女でなかろうとも必定だろうが、それにしたって感じるこの禍々しき妖気は恐ろしく。
そして距離があまりに近かった。魔理沙の見慣れた金の髪とはまた異なる淡い色のそれを冷たい光にキラキラと。
ロリータ的なファッションの背中で動く宝石ぶら下げた羽根の形骸がまた嘘みたいで。

そう、いつの間にかフランドール・スカーレットが博麗咲夜の隣に居た。

このバケモノなら時を止める前に息の根を止められる。
そんな必殺の距離を知ってか知らでか、魔法を解いたことで素敵な青い目と視線があったことに気を良くしたフランドールは、歪でない笑顔のまま首を傾げた。

「こんばんは、かしら?」
「合ってるわ」
「そう。うふふ……吸血鬼ってちょっとおかしいから、お姉様なんて今ぐらいにおはようって起床するのよね。私は間違ってなくてよかった」

どうも出来ないこの間隙をどうすればよいか。
そればかりぐるぐると考えていた咲夜の思考が吸血鬼という文言によって止まった。

それは確か、何時の日か先代が懲らしめるのが大変だったと語った、異変の首謀者達がその種族だった筈である。
なるほど確かにこれは強い。茫漠であり、強力なのはひと目で理解できた。それに、先程のように身を隠す術だって持ち合わせているのであればたちが悪いどころではない。
こんなの、結界の奥に封印されていて当然であり、それが今目の前に出てきてしまっているのは目眩のするような事実ではある。

けれども、そんなことより先に咲夜はこうも思う。私よりずっと、匂わないな。正直に彼女は呟いた。

「……こんなに血の匂いのしない吸血鬼もいるのね」
「私はこんなに血の匂いのこびりついた人間なんてはじめて見たわ」
「そう……」

そして、目の前の少女然とした吸血鬼から述べられたのは、自分の感じたところの肯定。
血を喰むバケモノがこんなに一滴たりて血を大事に零すことなく無駄にしてこなかったクリーンである様子なのに、反して人間である自分はどうだ。
目を閉じれば最早黒ではなく、記憶に残る赤ばかりが広がる。それが我が罪の罰であると思いこんでいるところが、咲夜の歪んでいるところだった。

口籠ったお隣さんに、その理由が常識知らずの自分の発言のためだと思ってしまったフランドール。
何か間違っていたかなと、彼女は美味しそうな匂いの源泉の巫女をよく見つめる。

「まあそもそも動く人間なんて見たの二例目だから私の意見なんて参考にならないでしょうけど」
「いえ。確かに私は妖怪だけでなく、人間だって数多殺しているわ。貴女の嗅覚はきっと問題ない」
「そう? なるほど巫女のお仕事って大変ね」

思い返し青い顔する咲夜の脇で訳知り顔に頷く、ほぼ五百年物のニートの女王フランドール・スカーレット。
まあ、実労働不足なそんな彼女とて、メイド達の働きぶりに感謝をしてはいるのだから、その理解も間違ってはいなかった。

だが、しかし。自罰的に咲夜は一度目を閉じて、開けた。
ああ大変でもそうしなければいけないのが巫女だけだからとはいえ。

妖怪を、人を殺して本当にいいのだろうか。

悪いから、といってそれは本来愛おしき幻想の歪みでしかなく、抱きしめて正してあげるほうが間違いないのかもしれないのに。
しかし、咲夜という切り裂きジャックは、斬って殺してそればかり。
ぎゅと握られる右手。彼女はそんな自分が許せなくて、でも心より許して欲しかった。

無意味と知りながら、ただ降って湧いた対話者に咲夜は更に本音を語る。

「……仕事だから、で許されることなのかしら?」
「? よく分からないけれど、私は正義という道理の元殺されるなら本望よ。もっとも、相応に暴力に対して暴れはするでしょうけど」
「それは、普通じゃないわ」
「でもみんなそうあるべきと思わない? 往生際が悪いって、普通に悪だわ」

咲夜は持論に自信ありげに胸を張るフランドールに、いやにさっぱりし過ぎる考えを持っている子だな、と思う。
それこそ真っ当過ぎて、普通に生きるのは無理なくらいに、それは清々しく。また結論が虚しい。

人の子はどうしても、思ってしまう。道理なんかに殺されたくないと。ピリオドなんて見たくもないって、首を振るのが人生だとすら思う。

『幸せになってね』

だって、私はあの人の遺言を叶えたいのに未だ満足に幸せになれてない。
泣き喚いて、その狂乱にもう一人の母親代わりに取り押さえられても、あの人の死を嫌って必死に手を伸ばして《《間違っていない》》貴女こそ生きていてよと願ったあの日。
それからずっと、咲夜は生かせないむしろ殺してばかりの自分が嫌いだ。
でも、願いだけは間違いなくと、まるで今にも消えてしまいそうな恐ろしい妖怪にこう反論するのだった。

「私は……それでも、生きていて欲しいと思うわ」
「あー。なるほど、そんなだから貴女生きるのがちょっと辛いのね。んー……」
「っ」

大きな紅玉の瞳がぱちりぱちり。意外なものを見たと何も言わずに物語る。
駄目なら駄目。良いなら良し。それで生きれば簡単に諦めがつくのに、諦めもせずにこの子は血の海を走っている。
自然と伸びたフランドールの手。それにびくりとする咲夜はしかしろくに構えもしない。
それが信頼からの対応でないとしても、でもそう思えたらこの世はもっと綺麗になるよねとあえて錯誤しながら吸血鬼は人の子の頭に手をやり。

「こうかしら? よしよし」
「あ……」

優しく、撫でてあげるのだった。
それは自然、不慣れ故に力過分なものとなる。

「う……」

あまりにぶきっちょな慰め。髪どころか頭すら揺れるこんなものに感じるほど自らは安くはない。
しかし、どうしてこの瞳はぽろぽろと涙を零す。
好きでも嫌いでもない初対面の妖怪に、愛でもないそれ以下の感情をかけられながら、それでもどうして。

『よしよし』

ああ。それは記憶の中に今も居てくれるあの人だって撫でるのは苦手だったからか。
似て非なる、他人。でも彼女がこんな私に優しくしたいと思ってくれるのは間違いないことで。
ぐちゃぐちゃな思考に、歪む視界の中、どうしてかフランドールの柔らかな笑みばかりが咲夜の記憶に残った。

「私はフランドール・スカーレット。二人姉妹の妹でしかないし、姪っ子が幼い頃に脅かしちゃったからろくに触れたこともなく、こんなことするなんてもうないと思っていたけれど……」

果たして、今彼女は私を通して何を見ている。
それが分からないから咲夜は悔しいし、悲しくて嬉しくもあった。
きっと、彼女が本当に愛しているその存在を理解してしまえば間違いなく嫉妬してしまうだろうと咲夜は思うから。

カチリ、カチリ。まるで時計の針がするように硬質な音を立てながらフランドールはやっと手を離し、背伸びを止めてこう本音を伝えた。

「でも、優しくしてもらうって、やっぱり嬉しいものよね。そんなのがこの世にあるから、私は生きていられる」

それは、彼女の495年もの助けてもらってばかりの生のQED。
波紋ばかりが心にあって間違わずにいられずとも、ずっと誰かに優しくしてもらえたから、だから。

「ぐす……ありがとう」
「うん。ずっとやりたかった優しさの返報が他所様相手だけれど出来て、いい機会だった。私は満足だわ」

もういいんだと、彼女は結論付けられる。

私はあの子のためになるならば、ゼロになろうとも構わない。そんな決心を、哀しい他人を前にフランドールは出来たのだった。
笑みから一転、殆ど太陽だった先に反して月より色のない透き通った表情をした彼女を前に、すっかり目の前の妖怪を好きになってしまった咲夜は問うが。

「どう、いうこと?」
「ルナティック。狂いに狂った運命は、やっぱり一度ぶっ壊さなければいけないみたいね」

しかし、終わってしまった彼女はただ、結界張り巡らされた空に今を見つめながら、そう断ずるばかり。

フランドールの持つ《《ありとあらゆる物を破壊する程度の能力》》を前に紅魔館に張られた結界の封印など意味を成さないし、実際軽くキュッとしたら出られたから、こうして今ここに居る。
そして、そんなアンタッチャブルな彼女が本気になるなら、きっと世界は残酷にも正されてしまうことだろう。

「……フランドール?」

希薄。それこそ今直ぐに消えていってしまいそうな少女を前に、咲夜は思わず手を伸ばす。
修練の痕に歪んだ白磁の手のひらは、フランドールをしても綺麗と思わせたが。

「それじゃあ、《《咲夜》》。また次の満月の夜に逢いましょう」

しかし、つれなくふわり。妖怪らしく吸血鬼は空に浮かび、語りもしなかった少女の本名を言葉にしてから。

「ああ……」

月光を背負う彼女を前に改めて、なんて月が綺麗だと思う咲夜に対して。

「大丈夫。きっと貴女はハッピーエンドがお似合いよ?」

そう言い、フランドールはふっと消えた。

一陣の風に揺れる雑草。それは果たして誰かの心のざわめきのようで。

「そんなこと……」

ないとは続けて言い切れない言いたくもない子供ばかりが、結果孤独にその場に残る。

満月は、その後もずっと一人を照らした。

 

これは、俗に紅霧異変と呼ばれるようになる異変が起きる、そのひと月前のことである。


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