氷精チルノは、元々野良妖精である。
だがしかし、今は半分くらいは紅魔館のメイドとして暮らして生きていた。
当の本人は、特にその生活の変遷については気にしていないし、それ以前に理由もどうしてそうしたいのかすら忘却の彼方である。
そんなお馬鹿で永遠の悪戯盛りなチルノは、今日も今日とて今を生きる。
具体的には、紅魔館のアンタッチャブルそのいちである十六夜霊夢に対して先からこっそり悪戯をしかけていた。
特異な直感が働くまでもない程度の軽い嫌な思いをした霊夢は、またアイツねと怒って冷気の源へと今日もふよふよ向かうのである。
「こら、チルノ。何でもかんでも凍らすんじゃないわよ。モップが嫌に冷えててびっくりしたじゃない」
そう、霊夢が苛立った原因は掃除用具の異常な冷たさ。だいぶ人間を止めた能力持ちの霊夢ですら驚いた程であるから存外そのマイナスは尋常ではない。
また紅魔館は狭しであるためこんなことを出来る存在は簡単に三人ほどに絞られ、今一週間な魔女と魔法少女の吸血鬼は共に地下で霊夢が育てているもやしに水をあげている時間の筈だから、違う。
「ふふーん。それもあたいの策略ってヤツよ!」
そして、霊夢の推理した通りに実際チルノが犯人であり隠すつもりもない彼女は直ぐ様馬脚を現しきゃっきゃと飛び跳ねて笑った。
そもそもチルノがしばらくひしと二本のモップを抱きしめていたのは、他の妖精メイドの告げ口から裏は取れていたこと。
とはいえ何でこいつは何時もこんな無駄なことをしでかすのかと思うと何故かメイド長から直々にあの子は任せたわと投げられている霊夢も頭が痛い。
ため息を吐きながら、霊夢はチルノに問うのだった。
「はぁ……あんた、どうしてこんなことしたのよ。皆困るじゃない」
「ふふん。霊夢。これであんたはどーぐを触るたびに凍ってるか不安になって、メイドなんて止めたくなって……ふぎゃっ!」
「はあ。小賢しいわね……あんたが冷やす程度のマイナスなんて、私に障る程じゃないっての。むしろ、冷え性のメイド長がひんひん言ってたから止めてあげなさいな」
「メイド長……美鈴のことね! 何時もお菓子をくれる美鈴をイジメるやつなんて許せないわ!」
殴られて不満顔になったと思えば霊夢の言によって一転、義憤に燃える。
いや、美鈴ダメでどうして私には悪戯したくなるのかと霊夢は思うが、お菓子とか言ってるし餌付けが足りていないのかもとも考えてはいた。
まるで懐かない犬を見る目で、そして哀れみも加えてから彼女は言葉の一部しか拾えなかった妖精にこう真実を告げる。
「やったのはチルノ。あんただ」
「なんてこと! あたいったら悪い女ねっ」
「あ、こら」
指さされようやく合点をいかせ、たチルノはどうしてか自分をぺちんぺちんと手のひらで叩き出す。
いや、悪いやつを途端に懲らしめる意気はよくても、己にだってそれも同じではただの馬鹿だ。
見咎めた霊夢は、そんな愛すべきお馬鹿なチルノの小さな手のひらを取って、自虐をさせないようにする。
こんなの私の役目ではないわよね、と思いながらまたため息禁じられずに、こうだけ何時ものように告げるのだった。
「はぁ……ちょっとは反省しなさいよ」
勿論、霊夢も口癖となってしまったこんな文句でこのガキと素直が合体したような子供地味た氷が、変わってくれるとも思っていない。
そして実際、霊夢以外の人間ではきっと触れることすら出来ないかもしれない絶対零度付近で停滞しているチルノは相変わらずこう返すのだった。
「べー、だっ。あたいは霊夢がメイドを辞めるまで諦めないんだからねっ!」
そう吐き散らかしてから背を向けて逃げるチルノ。
変わらぬ啖呵を切り頭を両手にしながら飛び去る彼女はどうも情けなく、追いかけて罰するのだって阿呆らしい。
「ったく……」
だからという訳でもなく見逃す霊夢。流石に幻想の極凍に触れては手のひらも少し赤くなった。
仕方がないわねとそれを擦りながらそれに努める彼女は。
「じゃあ、一生あんたあたしから離れらんないじゃない……」
故に、自らがちょっと嬉しそうに微笑んでいることにだって、気づけないのだ。
夜に目はないが、しかし夜に沈む視線は確かにそこにあった。
ましてやそれが霧の中大きくぱちぱち瞬いてすらいればそんなもの、霊夢にとって気づくには容易い。
果たして霧の中を泳ぐように瞬時に移動して間近の湖まで出た霊夢に向けて攻撃したのは、緑髪の妖精。
大妖精とカテゴライズされている、そんなちょっと自然から抜きん出た彼女は大ぶりの石を投じながら律儀にこう叫ぶのだった。
「えいやっ、霊夢さん、覚悟っ!」
「はぁ……無駄だってのに、どいつもこいつも妖精ってのは懲りないわね」
「わっ、あんなに重かった石を片手で……」
「妖精って非力よね。それは大妖精の貴女も一緒なのかしら?」
「うー……今日もダメでしたー……」
何故か今日は弾幕ではなく投石にて憎きメイドをやっつけようとした大妖精。
しかしそんな半端な攻撃なんて大した力も要らずに止められてしまうのが霊夢だ。何せ相手は人間を殆ど辞めていて、でも神域にまでは足を伸ばさないなんていう怠惰な女の子。
地味に頭がザクロみたいになってしまう霊夢を予想していた少しえげつない大妖精も、自分の全力でひいひい言いながら投げ込んだモノですら今だに少女の手のひらで安堵されてしまう現実を見ては力の差を感じざるを得ない。
悲しみを全身で表すちょっとチルノより賢しめな妖精を前に、しかし空の少女は泰然と構えるのだった。
「大空から見れば大海の波紋すら小事よ。しっかし、何度目かしらこれによく似たやり取りも……」
「えっと、ひい、ふう、みい、よお……沢山ですね」
「いい加減飽きたわ。あんた、そんなにチルノが大事なの?」
「それは勿論です! 紅魔館に、吸血鬼の館なんて恐ろしいところにチルノちゃんを置いておけません!」
「吸血鬼が、怖いねぇ……」
大げさに震えた様子を見せる大妖精の言は、恐らくは幻想郷の多くの存在の本音なのだろう。
実際、紅魔館の吸血鬼姉妹は確かに妖精なんて比べ物にならないくらいには強力。それこそ、実はあんたドラゴンでしょとあからさま過ぎて言うに言えないしかし明らかな強者の紅美鈴ですら頭を垂れているのだから確かに並大抵ではない。
まあ、霊夢の本心としては家族同然の相手を、触れもしないのに怖がられている事態がどうにもムカつくばかり。
とはいっても、レミリアも大妖精みたいな木っ端の前でぎゃおーだの戯けたりしないだろうし、ならば地力で恐れられるのも仕方ないしそもそもそうでなければ妖怪という存在は成り立たないようで。
七面倒なバケモンよねえ、と妖怪全体を雑に考えながら霊夢はそういえばと続けて述べた。
「でも、ちゃんと朝昼には霧の湖にチルノ返してるでしょ。勝手に紅魔館に来ているの今みたいな夜だけよ?」
「夜のチルノちゃんも私が独り占めしたいのにー……」
「はぁ……正直、私としてはアイツなんて熨斗付けて返したいんだけど」
執着する大妖精を放ってきゃあきゃあ夜にノコノコやってくる、チルノ。
結界をすり抜け門から堂々とやってくるそれを許しているメイド長もそうだが、あんなちっちゃな存在を妙に認めている様子であるレミリアの考えが霊夢は気になっていた。
何しろチルノは面倒である。霊夢に対しては仕事の邪魔しかしなければ、そうでなくても騒ぎを起こす。
彼女が過って侵入した地下にて、フランドールの手によりぴちゅーんして落としてしまったボムアイテムによって起きた、紅魔館爆発寸前事件も記憶に新しい。
トラブルメーカー。チルノにはそれだけでしかない印象が今の霊夢にはあり、故にあの子がどうして私をあんなに気にしているのか、特にメイドとして働くのを嫌うのかが分からなかった。
当然至極に、チルノの方も既にその原因を忘れていれば、事態は完全に迷宮入りになると思われたが。
「何を言ってるんですかっ。そもそも紅魔館にチルノちゃんを連れて行ったのは霊夢さんじゃないですか!」
「……そう、だったっけ?」
しかし、ぷんぷんと怒る大妖精のそんな言葉に光明一閃。
ふと、考える霊夢はどこかでこんな悲鳴のような言葉を聞いた憶えを想起したのだった。
『ふざけんな……お前ら霊夢を、こんなとこに縛りつけんなあっ!』
お手々繋いで、一緒に遊ぼ。
冷たいのも気にせずそんなことして《《くれた》》子が、でもその館の中では誰より下であって《《あたい》》より小さな手のひらで頑張っていて。
そんなの間違っている。そんな想いは、どうやら未だにチルノの心の奥深くに刺さっていたようだった。
「ああ……そんなこともあったのかもしれないわね」
私はこれっぽっちもそんなこと望んでいないのに。
でも、そんな馬鹿みたいな空回りだって嬉しいのだから、この世はどうしたって不思議だった。
「あ、霊夢……と大ちゃん?」
「ああ、チルノちゃん! 大丈夫? 怖い人達に酷いことされてない?」
「わ……あ。そうだ、大ちゃんこれ!」
「あれ……美味しそうなお菓子? どこからくすねたの?」
「くす? よく分かんないけど、メイド長から大ちゃんにって」
「くっ、買収ですか……そうは……うう、でも美味しそうで勝手に手が……」
「チルノ」
「む、霊夢! 今は大ちゃんと遊んでて……」
「――――私はちゃんと、幸せよ?」
「ふふ。《《バカなあたい》》には、分かんないよ」
「……そっ」


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