「またこの結界って奴、ちょっと弄られてるわね……ま、これくらいなら通れそうだけど」
空中に確かな隔たりを指先で感じながら、霊夢はそう呟く。
引っ掻いたところで凹みもしないそれは膜と言うよりも、見えない壁。明らかに、そこにはここから通さないという意思がある。
曰く結界。現実的でない代物であるが、だからこそここ幻想郷においては当然のように存在し、こうして利用されているのだった。
そして霊夢の育った紅魔館から少し出歩こうとしてみれば、囲むようにこれがある。
邪魔だ。とはいえ決して蟻んこ一匹通さないようなものではない。
当たり前のように足下のバッタはひと跳ねにて境を越えていったし、妖精達もきっとコツが分かる自分だって過ぎるに問題ない。
だが、聞いてみたところでそれ以外の紅魔館の妖怪達は決して通れない代物でもあるようだ。
これには、どうにも家族が悪者扱いされているようで、気持ちが悪くなるのだった。
「ま、あの人等って、本当に悪い奴ららしいけど」
そう、聞きかじりばかりを零して、霊夢は踵を返す。
上等な服に飯と娯楽。そんなものを用意してくれる妖怪が隠されるような悪であるとは、霊夢が思うのは難しい。
お嬢様などは人の血を食らうし、そもそも揃いも揃って人の恐怖の形であるからには排斥されて仕方ないとは思わざるを得ないけれども。
「だからって、嫌いになんてなれないっての」
そもそも存在はあるだけで場所を取るのは自然。生きているのならば尚更補給のために奪い合うのは当然で。
思春期付近の少女には、だからどうせ何もかもが悪だと思わなくもない。
ならば、より身近を親しく取って、愛すのは小っ恥ずかしくてやってられなくても多少は仲良くしたっていいだろう。
空を見上げれば、鳶が高く獲物を狙っているが、地べたの獲物たちは別段縮こまっている様子もない。
それは彼らがろくに見上げないためだろうが、世には知らなければよいこともあり、安心とは無知の一種なのかもしれなかろうとも。
「はぁ。面倒」
そう、ごちゃごちゃ考えるのは、苦労。
例えあいつらの牙や気持ちがこちらに少しでも悪く向いたらこの命だって危うかろうが。
「やられそうになったら、やっつけちゃえばいいだけじゃない」
親愛なる夜の王に向けてそう言い切れてしまうくらいには、霊夢は強かだった。
十六夜霊夢は、姓名を主であるレミリア・スカーレットより賜っている。
夜の王たる由緒ある吸血鬼から頂いたものであるからには、本来餌食となるばかりの人間はそれを大事にしなければならないのかもしれない。
だが、物心つく前から自分に引っ付いているものを大切に思うほど霊夢は殊勝な存在ではなかった。
故に、まあ親みたいなもんよねとレミリアを認めるくらいで、基本的には崇め奉るようなことはしていない。
それこそ今も、珍しく仕事としてふよふよ壁磨きなんてしてみているところに近づかれたところで、目を向けることすらなかった。
しかし、ニコニコとしているレミリアお嬢様。それこそ我が子に向ける笑みを受けながらも無表情な霊夢に、優しく彼女は声をかけるのだった。
「霊夢」
「何よ、お嬢様」
「ふふ。偶には貴女の血液、くれない?」
愛おしむべき親代わりの子供のようなおねだりに、口の前に表情が嫌と言う。
血液というのは、殆どの生き物は薄皮一枚と管に隠して大事にしているもの。
ましてや、霊夢には自傷癖なんて無いのだ。
それ以前にくれといって軽々と差し出せるほど彼女の心はではなく、むしろケチ。
霊夢は手のひらでしっしとしてから、こう告げるのだった。
「ごめんなさいね。知らない間に蚊の奴が持ってっちゃうから、私に余計な血なんてないわ」
「あら、残念……それと後でパチェに蚊取りのお香でも用意して貰わないと」
「何。お嬢様、自殺でもしたいの?」
「霊夢……吸血鬼は蚊の一種ではないのよ?」
バカ正直に強請ったところで無駄だったかと大人しく去ろうとしたレミリアは、しかし愛おしき霊夢にそう返されて首をぐりんと向け直す。
吸血鬼は当然ながら、蚊取りにて死ぬほど弱くない。そんなので死ねなければ、むしろ太陽の元によく増える彼奴等がちょっとうらやましくなってしまうくらいに極度の夜行性。
当然彼女が、元気いっぱいな今は真夜中である。昼寝ばかりしている霊夢は平気で起きているが、夜は静かが一番と思っている嫌に人間的感性な彼女は子供じみた親の過干渉を嫌う。
からかうと言うには少々本気の顔して、霊夢はレミリアにこう言った。
「ふーん。ぶんぶんうっさいし、血も吸うわで一緒だと思ってた」
「このメイド、主を何だと思っているのかしら……アレは羽虫で、私は立派なヴァンパイアよ?」
「そういえばあんたも蚊も両方メスだし、羽根もついてるしで考えれば考えるほど似てるわよね……実は祖先が一緒だったとかないの?」
「……そう言われてみると、不安になってくるわね……ひょっとしたら蚊のマラリア媒介とかも吸血鬼の恐怖の形成の一助になっている可能性も考えられるし、後でパチェに確認してみようかしら?」
冗談に、つい自分の世界に没入するくらい本気になる。
下手に頭でっかちだとこうなるのか、と今夜も霊夢は親代わりから学ぶ。
実際、テキトウに近寄られる前に潰すので蚊に食われたこともろくになかったりする少女は、そこまで眼の前のヒトが下等ではないとは分かっている。
とはいえ、このヒトと真面目に付き合っていられないというのは、霊夢の本音。
お腹すかせた吸血鬼に、再びしっしと払いながらこう告げるのだった。
「ま。どっちにせよあんまりうるさいと引っ叩くから」
「本当に、霊夢は敬意というものを持ち合わせていないメイドね!」
ぷりぷりと怒り出す、そんな様子はレミリアが平素からバカにしている妖精メイドであるチルノのものとも酷似している。
子どもねえ、と感じる霊夢はしかし自分の50倍近くコレが生き永らえていることが今ひとつ実感できていない。
だからこそのこの雑な対応であるのかもしれないが、それを助長しているのが無礼だろうが悪口だろうが家族だからと許してしまうレミリアにもあった。
子煩悩。それ以前に家族という形態を大切にしすぎるのは、妖怪の中でも珍しくはある。
なんとはなしに、霊夢は問うのだった。
「そういえば、どうしてアンタ、私を拾ったの?」
「拾ったって……霊夢。そういうのは、もっとシリアスな、ここぞというタイミングに聞くべきで……」
「いいから答えなさいよ。減るもんじゃないし」
「あのね。あんまりはいはい言って景気よく施してあげてたら減るのが威厳ってもので……」
「そんなのもうないでしょ」
「霊夢ー!」
問いをかけたことすら忘れてほとんど脊髄反射的に、お前カリスマゼロだろと返す霊夢。
実際に、そんなあんまりな言にぷんぷんしているレミリアに、そんなものはないように見える。
まあ、然るべき時と場所が用意されれば魅せることなど簡単なものを確かにレミリアは持っていた。
だがそれを霊夢の前で一度も披露したこともなければそれこそ霊夢には、はいはい言って景気よく施してあげてばかりの現状。
ナメられるのも当然なのだが、それに気付けないレミリアは、しばらくぷんぷんとしてから嫌々語り始める。
「全く……それで、どうして私が霊夢を拾ったかって?」
「そう」
「そんなの、決まってるじゃない! 霊夢が可愛かったからよ!」
「はぁ?」
答えは、分かりやすすぎるくらいに、端的。
だがむしろその端折り具合に霊夢は混乱する。
そもそも霊夢の自認だと、自分はまったく可愛くない子どもだ。
いや、しかし変わり者のレミリアならば幼い頃の自分を愛らしいものと思うのだろうかと、少し彼女は悩んだ。
その前で、首を傾げる吸血鬼。レミリアは少女の不明に疑問を重ねる。
「あれ? これでも分からないの?」
「そりゃあね……」
「そうね……あのね、霊夢。例えば赤ん坊の泣き顔なんてかなりブサイクなものでしょう?」
「そう感じるのは人それぞれかもしれないけれど……まあ、どちらかと言えばそうかもね」
「でしょう!」
赤ん坊の泣き顔なんてものそういえば見たこと無いなと思いながらももう少し幼いレミリアが泣き喚く姿を考えながら頷く霊夢。
それに気を良くしたレミリアは、腰に両の手を当て、えへん。
こう続けるのだった。
「種族柄私は、これまで生きてそんなものばかり見ていたわ。だから……」
「だから?」
「私は、私を見ても何の感慨もなさそうに見返してきた貴女のことが未だに忘れられない」
「それだけで?」
いっそ子どもと比べてすら頼りないくらいの、矮躯。
だがそんなレミリアも、夜の支配者であり持つプレッシャーは並々ならぬものがある。
それこそ狩りの際には、大人でも失禁しかねない程であれば、子どもが泣かぬことなど殆どあり得ないものだったが。
紅美鈴が拾ってきた赤子は、何もかもを容れる青空の瞳を持って、夜を見返す。
ひょっとしてこの子は泣くどころか、むしろ。
全てを受け容れてしまってはいないか。
「ふふ」
問う霊夢にこの上なく瞳細めてあの日を想起したレミリアは、こう続けた。
「ええ。夜の王として現れた私の前で無様に泣き喚かなかった――――それだけでもう、私の寵愛を受ける十分な理由となる」
だから、私は貴女を拾ったの。
そう、レミリアは心より彼女を愛するようになった、そんなただの契機を話したのだった。
「そう」
それを聞いて霊夢は照れることも、今更に愛を深めることすらなかったが。
ただ、もう彼女はしばらく近くで微笑んで眺めるレミリアを払いのけることはもう、しなくなっていた。
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