陰陽玉

博麗咲夜、十六夜霊夢

博麗咲夜には、確かに母がいた。

産みの母は直ぐに手も縁も離されたがために朧であるが、先代の巫女として最期まで立派に務めを果たしていた、そんな育ての母は間違いなく存在したのだ。
彼女は線の細い人だったと、咲夜は亡くした今になってよく思い出す。
装備する幣も何もかもが大げさで、常に立派な巫女の形をとっていたのはひょっとしたらその身の頼りなさを隠すためだったのだろうか。
確かに温かいことは知っていたが、あの人は何時だって大事なことは教えてくれなかった。それこそ、私の後に巫女になってくれとも言わずにただ可愛がってくるばかりで。

だから答えは、とうに闇の中。過去の因縁に少女の宵闇をすらその細身に抱いた欲張りな先代巫女は、最期に咲夜に幸せになってねとまで強請ってから、力なく指を垂らした。

「|酷い《むごい》、人だった」

少々の暇。一人、何時までも舌になじまない緑茶を飲み込んでから、咲夜は母に対する総括地味た感想を呟いた。
今日は、姉貴分である妖猫橙も用事のために開けている日。故に、その結論ばかりは誰にも否定されることなく青空に呑み込まれるように消えていく。

「はぁ」

感じたのは、無為。それが、痛いくらいに嫌で咲夜の白魚の指先はきいと湯呑みに爪を立ててしまうのだった。

「私は貴女に期待されたかった」

いつの間にか隣に敷いていた座布団は手の甲を載せてみたところで、やはり冷たい。
彷徨う凍えるような指先、そんな一人ぼっちの証は何時だって無聊に過ぎていた。

 

博麗神社は幻想郷でも人が通える最も高い位置だ。
輝きの陽光を掲げながら、深い青に暗い雲に呑まれるように鎮座する社は確り尊いものとされて里人には崇められている。
それこそ、覚悟なしでは上がれないほどに、用意が欲しくなるくらいには特別なところ。

巫女たる咲夜が天女のような現実離れした美しさを持っているのも大きいのかもしれない。
侍らす者すら貴人も裸足で逃げ出すだろう本物の銀であるならば、博麗の神とは如何ほどの黄金たるや。

物理的な距離も含めて人里の者共には、とてもではないが近寄りがたいと語られるのが博麗神社であり。

「……暇ね」

つまり、博麗神社には基本的に閑古鳥が鳴いていた。

朝の時間を用いて清めきった境内は、これ以上掃く必要はなさそうだ。
だが昼餉にはまだ時間遠ければ、使いこなせないありがたい御札は昨夜作りすぎて橙に行灯油に紙を無駄にするなと叱られたくらい。
その後ぺろぺろと行灯皿を平らげていた二尾の黒猫の姿を思い出しながら、ここのところ性質が生真面目に寄っている咲夜はこう結論付けた。

「今日も、修行ね」

自らは巫女としてはいささか物足りない。だが足りないなら、今持つものを鍛え上げて補填すればいいのだ。
ちょっと過ぎるくらいのそんなストイックさは誰から学んだものだろうと咲夜もふと思いながら、しかし彼女は自らが刀を佩くのを止められない。
その際の金属がぶつかり合うカチャカチャという音に勝手に気持ちが盛り上がっていることを感じながらも。

「さあ、行きましょうか……もう、負けないために」

そう言う少女の瞳の鋭さはまるで刃の如くだった。

博麗神社は博麗大結界を背負う、要である。またそれ以前にそもそも山の上。
子どもが遊べるどころかたっぷり一日迷えるくらいには敷地広く、境内に道場なくとも運動を行える場所くらいはあった。

「はぁっ!」

銀閃、風を追い越すように流麗に一重に広がる。しかし、それが手本と比べて酷く醜いことが、このところの咲夜の悩みの種だ。

明羅、という女侍がふらりと博麗神社に現れたのは、何年か前のこと。
何時かまたふらりと去った彼女が残したものを決して手放さないように、咲夜は彼女が置いていった刃の軌跡をなぞるように型を重ねる。

「っ!」

それが一度二度であれば咲夜も汗をこうして額からかきはしない。
トレースは慎重に、しかし勢いよく無数に。咲夜も百を超えてからもう数えてなどいない。
真剣に刀を振るう少女はもう太陽が天辺に来ていることすら気付けなかった。

「ふぅ」

そして、一度も本物と一致しなかった剣舞はほどほどで終わる。
流した汗を手拭いにて吹く咲夜は当然のように満足などしておらずいっそ無様にすら思っているが、それでもそろそろ体力が底に近い。棒のようになった手を動かし、彼女は鞘に刀を収める。
止まった時の中ではほぼ無限であっても、普段は少女の枠から咲夜も外れていなかった。
そして、また一人の人間として去った相手を思うことだってある。
彼女は子どもが自らの見取り稽古をするのを止めなかった気っ風の良いお侍さん、明羅のことを思い出す。

「……あの人何時、取りに来るのかしらね?」

今の博麗は幼子か。
博麗は私がもらうぞと勇んでやって来た彼女を相手取ろうと震える手で立ち向かった咲夜に彼女はあっけなく刃を下ろした。
最初その身なり装いから慣れぬ男性と勘違いし怯えていたが、妖怪の賢者達の鋭い舌鋒すら相手にしない自由な明羅にそのうち咲夜も憧れを覚えるようになる。
どこぞで拾ったのか、子どもにはもったいなさ過ぎる立派な刀を隣で振るい出した少女を見て、明羅ははじめてくすりと笑った。
そして、母亡くしたばかりの幼子の寂しさを気遣ったのか、あの人は居候としてしばらく博麗神社に住み着くようになったのだ。

「陰陽玉……」

博麗の秘宝とされるそれ。先代巫女は手足のように使っていたそれも、そういえば神社のどこにも見当たらない。
何時かまた取りに来ると言って明羅は神社を発ったが、果たしてあれはどこにあるのか。
賢者曰く相応しいものへと遷るとされるそれが自らの手に今ないのは当然と思えたが、しかし。

「はぁ……何時かは私も手にしたいものね」

そう、発してしまうのは母への憧れのためか、否か。
取り敢えず、ただ斬るだけが巫女の能でないことは重々知っているからこそ、いくら剣のみで妖怪を屠れるほど強くなったところで咲夜は不足にあえぎ続けざるを得ないのだった。

「あー! 咲夜、またこんなとこに居た! 前も言ったでしょ、どうせアンタ時間を忘れるんだから書き置きくらい残しなさいって!」
「あ……もう昼? ごめんなさい、橙姉さん。直ぐにご飯用意するね」
「もう、お腹ペコペコよっ」

しかし、そこにとっとと駆けてくるお腹の減りっぷりに不足を感じた姉貴分が現れては、それどころではない。
人の姿を取ったところで小柄な化け猫は愛らしくて、また恩もあって咲夜はどうにも頭が上がらないから。
ごめんなさいとする美人相手に、ふんすと鼻を鳴らす橙は、指を真っ直ぐ示してこう言うのだった。

「咲夜は勝手に一人になんないの!」

思わず怒ってしまうくらいに、心配。
そう。それが確かに愛から来ているものだとは知っていて、だから恐縮してしまうのは仕方なく。
でも、小さなお姉さんはそれでも完全に一人ぼっちにはしてくれないから。

久しぶりに繋がった手の先は、嫌でも温い。

「ごめんなさい」

咲夜はつい冷たい世界に籠もって孤独になろうとする自らを自省し、頭を下げるのだった。

 

そして、ほとんど同じ時、違う場所で。

「はぁ……霊夢、起きなさい」
「ふぁ……あ。美鈴、もうこんな時間?」
「全く、昼間中眠るなんて、もう貴女ったらお嬢様をバカに出来ないわよ?」
「あー……それは嫌ね。っと」
「あら? その玉は……」
「なんかこの柔らかいのそこらに転がってたから、枕にしてみたのよ。中々寝心地よかったわよ?」
「そう……なるほどね」

白と黒。赤と白。そんなような太極を図案としたような一つの玉が彼女の手元にころりと転がった。


前の話← 目次 →次の話

コメント