犬と狐

博麗咲夜、十六夜霊夢

博麗咲夜は、犬と狐が違う生き物であるとは知っていた。
だが、それだけ。幼い頃には互いの根本が異なるわけでなければむしろ親しい存在であると錯覚すらしていて。

「咲夜……私はお前の無能が殺してやりたいくらいに憎いよ」
「そう……ごめんなさい」
「はぁ。この子が出来が良いのは態度だけか」

だから、遠慮なく失敗に対する嫌味ぶつけられる今が辛い。
今日も抓るくらいに強く傷口に軟膏を塗られるのを我慢しながら、何より憧れた九尾の狐の悪口を咲夜は間近に聞く。
大体においてそもそもろくに顔を合わせてもくれない相手。それがどうしたって嫌いになれずむしろ縋るように巫女は彼女のために努めるのだった。

「これでよし……あと……羽織くらいは自分で整えなさい」
「ええ」
「ふん……あまり私の手を煩わせないことね」
「気をつけるわ」

あまりに今代の世話が焼けすぎるからこそもっぱら巫女のために動くようになった、八雲藍。
豊かに過ぎる艷やかな尾を幾つも見せつけるように背を向けた藍は、本心から咲夜のことを犬ですらない猿の形損ない程度であると認識している。
傷だらけを膏と包帯で覆った白い姿を巫女の紅白で包みながら、彼女がそんな心を隠さなくなったのが何時かふと咲夜は記憶を探った。

「……だめね」

しかし、子供として優しくされていた時期にすらその金色の目は冷たかった気がするし、そもそも情は見せかけばかりで一切通っておらず、これまで冷たい関係に終始するばかり。
もっともそれは当然至極のことだったか。八雲藍は魑魅魍魎の集いし地である幻想郷でも頂点に極めて近い程の大妖怪。
日の下の現に殺生石という証すら残す、妖怪から最強を三つに絞ったところで含まれる玉藻の前そのもの。

「そうだな。お前は自分が駄目だということだけを知っていればいい」

戯れに向けられた美貌はぞくりとするほど悍ましく、あやかしの言葉の通り。
そう、彼女こそ八雲立つ空の藍に染まった、太極の陰たる白面金毛九尾の狐。
拾っただけの八雲紫と違い先代巫女と共にここまで咲夜を育て上げた、親代わりの存在だった。

「それでは、な」
「ええ……」

だが、藍は悪意そのもののだったころから随分に丸くなったとはいえ人類愛なんてものは心の内から遥か遠くにある、妖怪らしい妖怪。
挨拶も拒絶し、彼女は《《スキマ》》を描いて去っていく。

「っ」

咲夜の手は思わずそこに伸びたが、閉ざされる前に壊れ物のような色をした指先は引き戻される。

「駄目、よ」

やがて辺りにしばらくの沈黙は落ち、少女は自分が先に彼女に何を求めて何をして欲しかったのか、自問するのだった。

 

「私には犬を飼う趣味はないのよ」

スキマの先にその身を移し、しかし子から向けられた指先を察しながらも振り返らずに八雲藍は独りごつ。
九尾の狐、八雲藍はもともとは究極の黒である。天地開闢の後に凝った陰気の塊がその正体。
故に、咲夜から受ける純粋なまでの敬意と親愛を容れることはない。この妖怪は幾度もの変貌を果たしたところで、そんな捻くれたところがあるのだった。

「その上あれが駄犬であるからには、ね……」

とはいえ、思わずと言葉にした通りたとえばもし咲夜が巫女として優れた存在だったなら、藍が彼女に一目置くのはあり得ただろう。
役に立つ。ならば上手く使ってあげるのが上位であり悪意。多分に漏れず藍も新たな駒に期待はしていた。

だが実際の所感として今代の巫女はそこそこ目端が利いて、すばしっこくて捕まえにくいだけの、実力足らずでしかない。
駒として優れていなければ、むしろ歪んでいて安定させるにも手がかかる。

少女の無能のために頓挫した計画は果たして幾つあっただろうか。軽微なものを含めてしまえばきっと三桁は下らないものだと藍も理解していた。
そろそろかと思ったのに中々上手くいかないものね、等と零す主紫。彼女が控えた場所にて歯を食いしばったことだって数少なくはない。

「何時まで経っても特異な能力を持っている程度の人間を外れない……こうなると最低限巫女を出来てしまっていることすら鬱陶しいな」

苛立たしさに、美人から覗くのは険しき獣の面。とはいえそれが白面の者であるからにはどうしたところで極めて魅力的。

「はぁ……まあ、大切なところに置いているからとはいえ、アレにばかり感けていても仕方がないな。……家事でもして気を紛らわせるか」

結論づけた藍は国を貶す美貌を遊ばせながら、ため息一つ。
この極めつけの獣人の美しいところは決して顔ばかりではない。使役者たる八雲紫には心の底から服従を誓っているし、式にしている二尾の黒猫には優しさを見せる。
これよりどこぞの秘された空間にて紫の寝食の世話をして、愛猫のおべべをちくちくしたりして過ごすのだろう。

そこに唯一の憎たらしい子への思いを置かず、八雲藍は今日も今日とて式へと戻るのだった。

 

「咲夜――」

博麗咲夜は己が犬のような性質を持っていると知っている。そしてその上で、似て非なる狐という生き物を好む性格であるとも分かっていた。
だから、こうなってしまうのも仕方ないと沙汰を前に咲夜は諦めていたところもある。

正体は酷く醜い赤ら顔した禿頭。その上に乗った頭巾の大げさなところがそのモノの立場を無闇に示していた。
そんなものを《《引っ掴んで》》右手に。そして返り血で真っ赤になった巫女服を気にすることもなく、むしろ怒気示す八雲藍に咲夜は見惚れる。
やはりその金色の瞳はどんなものよりも美しく、だからこうして再び自分を真っ直ぐ見つめてれて良かったとすら、思った。

幻想郷の賢者たる九尾の狐は、妖怪の山の重鎮のいちを殺した巫女に静かに問い質す。

「――――お前はどうして、大天狗殿の首を撥ねた?」

こうして問いかけることすら面倒だと、妖怪は考えた。聞かずとも、こうも面倒を起こした巫女などまた変えてしまえばいいのだ。
だが、それでは主も納得しないし、確かに賢者たる彼女にも納得できないところがあった。

藍は正直なところ咲夜が大妖怪に対して刃が立つなんて、そんなことは考えたことすらない。
それは、巫女に関すること以外の物覚えだけはいい彼女に幻想郷のパワーバランスなどは確りと教え込んでいたから。
そしてこの駄犬は駄犬だからこそ間違いなく、間違えない。

だから、不思議といえば不思議である。どうして咲夜は私の意から外れるような動きをして、その上でこうも真っ直ぐ見返してくるのだ。

「それは……」

分からない、妖怪。それを前にむしろ狐につままれたような表情をして、犬のような人間はこう素直に返した。

「藍。貴女の悪口をコイツが眼の前で言ったから」
「――何?」

言い、断っただけでは足りなかったのか、放った首を上等な刀によって串刺しにする咲夜。

そう。確かに大天狗は藍を嘲った。あんな薄汚い女狐ごときに従うなと、悪意を持って。
それを八雲藍という母親代わりの|人《狐》が大好きな博麗咲夜が許すはずもないというのに。

「そうか。そうか、なるほど……」

遅れて、藍は合点をいかせる。
もしや咲夜は悪行に開き直っていると思えば、実はそれが何より正しいと思っているからだった。
なるほど、これは思いもよらぬ忠犬、いいや駄犬ぶり。見境ないというのはこのことで。

「あははっ! なら仕方がないな! こんな駄犬の前で《《妾》》を嘲ったであれば、素っ首晒されても仕方あるまい!」

それが、何より間違いなかった。所詮妖怪どもなんてやくざもの。決してナメられてはいけないものである。
今更に八雲藍程のものを下に見る者が大天狗の中に居るとは本人だからこそ考えてもなかったが、実際は瓢箪から駒。
それに反してこの血まみれの犬はどこまでも変わらず傷ついてそれでも真っ直ぐ見つめてきていて、何も変わらず期待程度で。

「咲夜」
「あ」

だからこそ、八雲藍は嬉しいのかもしれなかった。
そして久しぶりに撫でてみればこの子はこの子で、変わらずにどこかごそごそした少しけだもの地味た手入れ不足の髪質のまま。

「よく、やった」

故に、その笑顔での一言が許し以上の意味を持っていたのは自然なこと。

「っ……」

そして何時ものように泣く子に背を向けた彼女は、しかしその日また少しだけ心が傾いたことを、識っていた。


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