「ふぅ……」
朝、鏡を前に顔を洗う。彼女はあまりこの時間が好きではない。
とはいえ、目麗しいウマ娘という以前に年頃の少女。洗顔は念入りであって当然であり、また個人的な理由で《《マスク》》を常につけている彼女にとって不潔は天敵。
それこそニキビなんてものが出来たときには、泣きたくなるくらいの悲しさを覚えるものだった。
ふわふわのま白い泡に顔をつけて、ごしごし。飾りっ気ない自分の頬に泡立ちが這っていくのはマヌケな感じで、どこか不思議でもあった。
「エル……ああ、洗顔中でしたか。失礼しました」
「あ、ごめんなさい、グラス……」
「いえ、大丈夫ですよ」
そんな、文字通り仮面を被っていないありのままの自分を、何時ものように同部屋のグラスワンダーは目撃。鏡に映った逆しまの彼女は長髪を背に流したまま気を遣って離れていく。
振り返り、対応できないことをしっかり謝りたくある。けれども、それはやり過ぎか。そも、このままだと泡が飛んで辺りが大変なことになるのは自明。
慌て過ぎだ。ぱしゃり、と水を頬にあてながら、少女は自戒する。
普段どおりならば、彼女に気を留めることもなく、上機嫌に顔を流している自分がありありと想像できた。けれども、己は盾もなく強くなれない。
弱い弱い、鏡の中のウマ娘はどこか悲しげにしている。
でも、もう顔は洗えたのだ。マスクはどこに。……あった。
「よし、っと」
急いだためにちょっと湿り気が残ってしまった気もするが、でもそんなのどうでもいい。そう、コレを身に着けた私はエルコンドルパサーという世界に羽ばたくウマ娘。
決して、布地一つで顔を覆わなければ世に出ることすら恥じてしまう、弱いウマ娘の少女じゃないのだ。
柔らかな頬を両指で引っ張り、笑みを形作ってから、エルコンドルパサーは振り返り、言った。
「グラスー! アタシはもう顔を洗い終わりましたよ! エルに何か用でしたかー?」
「ええ。そうですね……」
造った笑顔に、あえてグラスワンダーも気にせず応対。滞りのない朝の一幕がそして行われる。
これから、美浦寮の同室の二人は仲良く朝ごはんを食べ、学園の生活を楽しんでいくのだろう。そして、その後エルコンドルパサーは――――という少女と懸命な努力を繰り広げるに違いない。
笑顔溢れた中、エルコンドルパサーというウマ娘は誰にも愛され、刺激的な日々を送る。
でも、そう。それは果たして真実なのだろうか。
仮面の奥の彼女。知らないウマ娘の尻尾の動きひとつで怯えてしまうような弱い少女は、ならば嘘なのだろうか。
「そんなことはないよ」
ああ、アタシは、エルコンドルパサーに隠したアタシも、あなたに愛されていいの?
それは、エルコンドルパサーがデビューする11月8日の新馬戦を控えた10月最後の週、金曜日。けーんと空飛ぶ鷹も喜ぶよく晴れた日。
飛び抜けている彼女が間違っても負けることはないようトレーナーの指示の下、逃げる――――をその末脚で追い抜くトレーニングをエルコンドルパサーはよく行っていた。
「ふぅ……」
先日の初勝利で切れ味を増した相手の逃げっぷり、そしてコースを塞ぐ上手さに、エルコンドルパサーも中々勝ち切るのに苦労を覚える。
今回も何とか差し切ったが、次はもっと面倒になるだろう。実に、楽しみである。
そう、――――という少女は決して弱くない。いや、エルコンドルパサーが出会った最初は正直なところ凡百の域を出ているかと言えば疑問符が付いてしまうレベルだっただろう。
しかし、――――は懸命だった。そして、必死でそれに過ぎていて。
「っ」
思わずあの必死の鳴き声を思い出し、怖じに《《この》》エルコンドルパサーも、身震いする。
あの走り。ウマ娘の限界を突き抜けた魂の速度。僅かずつとはいえ、――――という少女はあれに縋るように伸びてきているような気もした。
グラスよりお尻の大きな子は初めて見ました、と出会い頭に口走ったことで驚かせた相手が、その引き締まった肉体に似合う速度を出すようになってきている。
とはいえ。
「ん……負けたか……」
後からとぼとぼ走ってきた――――の表情はすぐれない。
それもそうだろう。稀代のウマ娘エルコンドルパサーが相手とはいえ、何時も何時も得意の逃げを刺し貫かれていては、育った自信というものも揺らいでしまう。
だが、この自分よりもずっと笑顔が似合う、必死な少女が凄いということは、何より負かしてばかりいるエルコンドルパサーこそが知っていた。
負けて、負けて、心より勝ちたがる。そんな性根。
「いえ、――ちゃんはスゴいデス! 前よりきっとタイムも、伸びてますよー!」
「そう、だといいけど」
かしいだ首に、寄り掛かるようにして垂れるお下げに愛らしさを覚えたエルコンドルパサーは、くすりと微笑む。
そう、――――の負けん気、それは本当に尊敬すべきものであると、エルコンドルパサーに隠れた少女は思うのだった。
「いいトレーニングでした……はぁ」
その後もトレーナーに言われるがまま駆けて、引っ張って、持ち上げて、そんなことを繰り返して、休みを取る。
エルコンドルパサーにとって、感じるのは充実。ちょうどいい具合の疲労感。これは、明日に残る程度ではないな、と思う。
「疲れた……」
だがしかし、――――という少女は常に必死で、トレーニングをものにするために一足すら気を抜かない。更には、必死でコンドルから逃げを続けていたのだ。
となれば、くたくたな疲労に顔も上げられなくなってしまうのも然り。
「ふぅ……」
落ち込む二筋の髪の軌跡。うなだれる少女のうなじはどこか色っぽい。
何となく伸びそうになった手を持ってきたボトルの方へ動かし、―――と、彼女の太ももを触診しているトレーナーへ向けてエルコンドルパサーは言った。
「はい、――ちゃん! トレーナーさんも、エルお手製のドリンクをどうぞ!」
「ん、ありがと」
「お、ありがとう。いや、エルが作ってくれたスポーツドリンクはなんでか美味いから、本当に助かるよ」
「ふふー、隠し味のはちみつが秘訣デス!」
「はは、隠し味普通に言ってるね……」
苦笑するトレーナーに、エルコンドルパサーは笑顔満面。はちみつ一匙を何時も忘れないのが、彼女の得意である。
自慢気に胸を張る少女。それに向けて、愛らしい笑みを浮かべた――――は、本心より告げる。
「……エルは本当に、優しいね」
「えへへ……そんなことはないデスよー!」
少女は少女の褒め言葉を笑顔で否定した。だがいや、エルコンドルパサーという女の子は、とても優しい。
でも、それは彼女にとって当たり前をしているばかりだった。
なにせ、強者である筈のエルコンドルパサーは、それでいて誰より弱さを理解できるから。
もともと、父親より貰ったカラフルなマスクを身に着けていない以前は、身体だけが強いばかりの弱い子供でしかなかった。
世界に飛び出るどころか、家にて縮こまっていたことの方が多かったくらいだ。
それを《《なりきる》》ことで克服したはいいが、臆病者であるという自己評価が、エルコンドルパサーというウマ娘にはこびり付いている。
だから、小さいものにすら気を向けて、大きいものには立ち向かう。そう、まるで彼女は完全無欠の《《ヒーロー》》のようですらあった。
そして、ヒーローは多く、持て囃されるもの。そしてそんなだからこそ、本当の自分を好きになれないのは、仕方ない。
優しいという褒め言葉を彼女が否定するのは、当然だった。
「でもさ。無理しないで良いんだよ?」
「えっ?」
でも、それは本当に当然なのだろうかと、――――は思う。謙遜、ですらない自虐が隠れたエルコンドルパサーの面に浮かんでいるのが見えたのは、偶然か。
それとも、はたまた――――というウマ娘がとびっきりに弱い自分を嫌っている同士であったからかもしれなかった。
何かを察したトレーナーは、彼女らの側から一歩、離れる。
果実の唇を軽く噛んでから――――は、言った。
「貴女はそのままでも、可愛い」
「っ!」
聞いたものを理解した途端、エルコンドルパサーはぼっ、っと頬に火がつくような思いをする。
これはまさか。いやおそらくは自分の弱い部分を彼女が察している。そして、それが可愛いものだと――――は言った。
こんなこと、想像の外。あわあわとなったエルコンドルパサーは、しかしそのアメジストの瞳を少女から離すことが出来なかった。
愛すべき笑顔のまま、――――は続ける。
「貴女が、貴女を嫌っていても、私は貴女を好きでいる。それは、友達の当然でもあるだろうけれど……それだけじゃないんだ」
「……どういう、ことデス?」
「簡単だよ。私は私に勝つ。でも、貴女を残してはいかない。だって……」
だって、どういうことだろう。分からない。これは、自分に負けて、自分を隠すことしか出来ないアタシには分からない気持ちだ。
愛も尊敬も、一皮ばかりに集まって、誰も隠れたアタシなんて見ていないはずだったのに。
――――は、仮面の奥を見つめて、言った。
「ふふ。それくらいに私は、エルコンドルパサー、いやキミのことに惚れ込んでいるから。優しいキミだからこそ、私は一緒に走りたいんだ」
「そんな……嘘デスよ……」
アタシは、貴女を親愛なるチームメイトと思っていた。でもしかし、そんな貴女の前でアタシは自分を隠してばかりで。
でも、それでも貴女はアタシを見つけてくれた。そして、怯えるそんなアタシこそを優しいと。
ああ、こんな幸せ、嘘だ。夢に、違いないのに。
「そんなことはないよ」
――――、彼女は心に痛いような言葉を続けるのだった。
少女は自分が嫌いである。少女も、自分が嫌いである。でも、隣の少女には、隠れた彼女が素敵に見えた。
だから、自分を嫌い続けることが辛いと知っている――――は、だからこそ、自分なんて無視して、辛いだろう相手に救いの手を伸ばす。
ああ、それはどんなに間違っていることだろう。他所で聞いていたトレーナーは、だからこそ止めたい思いも湧く。
でも、それでも。
これが愛に違いはなく、そして彼女のぬくもりだけは本当だった。少女は震える少女の手を握る。
「ん。私のことなんて、信じなくてもいいよ。怖くたって、仕方ない。でも、私がキミ《《も》》好きなのは嘘じゃない」
「え、えっと……」
それはだからこそ、告白に似る。
弱いがゆえの、過干渉。でも、それがもし美しく輝いてくれたなら。
真っ赤な顔を隠してばかりのエルコンドルパサーに、――――は、満面の笑みをなんのてらいもなく向けて。
「これから、よろしくね」
一緒に歩こう、と続けるのだった。
鷹は、空を駆ける。それに成りきった少女も、だがしかしずっと駆けてばかりでは辛かった。だから、弱い部分ごと抱いてくれるだろう、この上のないとまり木を見つけられたことは幸福で。
「……はいっ!」
「わ」
そして、何よりこうして縋れることが嬉しいと、急な抱擁に驚く――――の首元に顔を埋めるのだった。
少女は、ぼそりと呟く。
「アタシも、――ちゃんのことが、好きデス」
「ん、ありがと」
精一杯の告白は、やっぱり届かない。でも、どきどきするこの熱は間違いないもので。
これは、後でグラスに、怒られちゃいますね、と思いながらエルコンドルパサーという名の少女は、胸元のぬくもりを大切に抱いた。
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