一緒に地獄に

モブウマ娘 それでも私は走る

「ふぅ……」

――――の担当トレーナーである彼は、緊張のあまり細い息を漏らした。だが、それでも全身が強ばるほどに入った力の全ては抜けない。
大人の一員となって少し。仲間と一緒に酒を口にすることだって慣れてきた。最近は、一人麦酒を嗜んでいる今を振り返って、親父の影を踏んでいる自分に気づいたりもしていた。
だがそれくらいでは、この空間に馴染めるほどに大人びてはいなかったようだ。
仄暗い照明の元、品の良いバーテンドレスがふと向けた視線に淡く微笑みを向ける。それに、若い彼が返せた笑みは苦い。
居酒屋のあの喧騒が、今では懐かしいものだ。こう、馴れ馴れしい他人やしょっぱくて食いでのあるつまみ等はないのか。こんな、静かと酒とナッツを楽しむような場所なんて僕は知らない。

ああどうして、こんな雰囲気の良《《すぎる》》バーにて一人カチコチになって呆けているのか。
そんな原因は、トレーナーの中でも洒落っ気が目立つある一人の先輩に誘われてほいほい行きつけだと指定された酒場にやって来たからだ、とは彼も理解してはいた。

「あの人、遅いな……」

だがしかし、あの人ことチームスピカのトレーナーの名前を髭を蓄えたマスターらしき人物に告げたところ、カウンター側にて長く待つことになったのは、流石に自分のせいではないと思っている。

どこか飄々とした性格の先輩トレーナー。デビューしているウマ娘が未だないとはいえ、仮にもスピカというチームを運営しているそんな彼が仕事ができるには違いない。
そして、その有能っぷりは先に新人にして担当ウマ娘二人を持ってしまったせいで、溜め込んでしまった仕事の山の一部を気軽に崩して片付けてくれた恩からも、知っていた。
曰く、お前さんが潰れたら、お前のウマ娘が一番迷惑を被るんだぞ。優しい大人だと、当然――――の担当トレーナーは尊敬もしている。

「そろそろ遅れるって連絡から20分か……」

とはいえ、スピカのトレーナーはウマ娘以外のことにはルーズというのはトレーナー間では有名なこと。
一度すまん、ちょいと遅れるわ、というひとことの通知からこの方、メッセージアプリの振動はしばらくない。
取り敢えず知っているからと頼んだマティーニ一杯だけで居座るはそろそろ心苦しくて仕方なくなって来ていた。
たまらず、何か空気を変えたいと彼が脚を浮かせたそんな時。

「お、よう。待っててくれたか。いや、遅れてすまん、すまん」
「先輩……遅いですよ。先輩のちょいと、ってめっちゃ長いんですね」
「はは。お前さん、あんまりこういう場所には馴染みなかったか……本当に、遅れたのは申し訳ない」
「いえ、そんな責めるつもりはなかったので、良いですけど……」
「ありがたい。っと……マスター、いつもの頼む」

――――のトレーナーのもとに現れたのは、まるでタバコのようにペロペロキャンディーを咥えた長身男性。
おおよそ朗らかにしながらも、謝る時はしっかりと頭を下げた彼は、――――のトレーナーの先輩であり、チームスピカ担当のトレーナーその人であった。
意外なほどの真摯な謝罪に気勢を削がれ、年下の彼は口ごもり、そしてマスターと気軽に言葉をかわす先輩に向けて一つだけ問った。

「で、どうして先輩は、遅れたんですか?」
「あー……それ地味に今回の本題と掠る内容なんだが、まあいいか。単純だよ。お前さんみたいに、俺も仕事に忙殺されたのさ。暇な時は後輩にちょっかいかけて偉そうにしといて、ざまあない」
「いや……仕事、ですか。でも大体先輩は仕事残してないですよね」
「うん? ああ。わざわざ今出来る仕事を寝かしとくのも、性に合わないもんだからな」
「ということは、急な業務でも?」
「まあ、な」

多少言いにくそうにしている先輩を見て、後輩トレーナーは考える。
現状のチームスピカは少数精鋭どころか、デビュー前のウマ娘三名ほどしか在籍していないほぼチーム未満。それでも、三人分の練習の管理や諸々の申請にはそれなり以上の手間がかかる。
それを一人で不足なくこなしているのは素晴らしいことだ。しかし、だからこそ不思議ではある。
夏が終わり多くのチームやトレーナーがレースのためにと忙しくしている中、現状本番レースとは無縁である彼に舞い込んだ仕事とは何だろうか。

内心首を傾げている後輩を前に、静かに、出来上がった《《いつもの》》を一口。そして彼は続きを口走る。

「なあ、お前さんはおハナさんのチームのサイレンススズカは知ってるよな」
「ええ。チームリギルのトレーナーの秘蔵っ子、先の《《天皇賞を制した》》あのサイレンススズカなら僕でも分かりますが?」
「だよな……はぁ」
「えっと?」

――――のトレーナーは本格的に何をこれから話すのだろうと、疑問に思った。
近頃、伝統あるレースにおいて綺羅星のように輝く結果を出した、サイレンススズカ。そんな彼女を知らない人はウマ娘を愛するものでそうはいないだろう。
目立ったのは、レコードに迫るほどのタイムをすら忘れさせるほどの、鮮烈な逃げきり。影を踏ませないとは、このことかと皆を納得させるその速さは数週間経った今でも忘れられるものではない。
そしてきっとこれからサイレンススズカはトゥインクルシリーズにおいて、いやそもそも世界にとっても忘れられない存在になるのだろうという予感すらあった。
もっとも私生活では――――と随分仲良くしてくれているらしいがそんな彼女と、この変わった先輩にどう接点があるのか。
不思議がる後輩に、先輩はうんざりとした様子で語るのだった。

「なあ、貴方なら大丈夫でしょ、ってあのトレーナーの指示を聞かないじゃじゃウマ娘を任されたら、お前ならどうだ? 普通うんって言えるか?」
「いや……サイレンススズカのような《《芸術品》》のように優れたウマ娘に手を入れるのは僕には……って、ひょっとして」
「そう、察しの通り。俺はおハナさんからそのサイレンススズカを任されちまったんだよ」
「本当ですか!?」
「マジもマジさ……私には、あの子を閉じ込めることしか出来ない、ってこってな。ったく、おハナさんらしくもねぇ……」

それは、普通ではない、気心知れた同期二人の会話。先輩同士の意外な気安さを知って、それよりも驚いたのはその内容だった。
なんと、あの、サイレンススズカをリギルのトレーナーは手放したというのだ。GIで勝ちを収めたウマ娘を、このスピカのトレーナーへ。
閉じ込めることしか出来ない、とは意味が不明だが、なるほどつまりこの先輩であれば解き放った上で手綱をとることすら出来るということなのか。それは、凄い。
なんだか雲の上の話を聞かせられたような気がし、口をあんぐりして、――――のトレーナーはため息とともに言った。

「はぁ……そんな急な移籍の手間のせいで、遅れたってことですか……いや、先輩も大変だ」
「まあな。だが、そんなことを言ったらお前さんも大変だろう?」
「そう、でしょうか」
「そりゃそうだ。新人の癖して、とびきりのウマ娘にとびきりの問題児を抱えてんだもんなぁ。先輩方の中にはお前さんをよく見ない人もいるけどさ……俺はお前、かなり頑張ってると思うぞ?」
「……ありがとうございます」

頑張っている、には恐縮。だが、しかし問題児という言には少なからずの反発心を持つ。
そんな自分の内心を意外にも思わないまま、あえて大人しく、――――のトレーナーはスピカのトレーナーの話を続けるのを待った。
先輩は、言う。

「エルコンドルパサー、あれはまあいい。アレ程の素質を持ったウマ娘をお前さんがかっさらっちまったのは良くはないが、まあアレは優等生だから、そんなに面倒はないだろう」
「そうですね……エルは、まあ気を使ってくれますし、助かります」
「……ったって、ウマ娘一人分を抱えた際の仕事量ってのはルーキーにはバカになんないがな」
「はは……それは、担当してからよく理解できました」

笑っているが、実は笑えない。
ウマ娘のトレーナー、という仕事は今までの学びの時間と比べ物にならないくらいに真剣の連続である。
何しろ、自分以外の夢、それを叶えるためのものだから。暗中模索の中で、しかし彼女らのためにも失敗だけは出来なかった。
間違いなく、ただウマ娘の側でその輝かしさを磨く仕事だと勘違いしていた学生の頃の自分を殴りたくなるくらいには、トレーナーという仕事は辛いものである。

だが、まあそれでも笑えるだけマシなのだ。
もっと、大変は別にあるのだから。《《いつもの》》を飲み干し、続けて、先輩は話す。

「で、だ。問題は――――。あのウマ娘だな」

その名を聞いて、思わずトレーナーはごくりとつばを飲み込む。
知らず、スピカのトレーナーは続けた。

「正直、肉体的な素質は見てわかるレベルでピカイチだろう。練習だってひと一倍こなしているようだが、それでどこか悪くしたとかもないんだからまあ、身体は本当に強いんだろうな……いつも触る前に勘付かれるから、確かではないが」
「先輩……彼女らの脚を了承もなしに触って、よく捕まりませんね……というか、よくウマ娘の後ろに気軽に立てるなこの人。そして、どうして蹴られて平気でいられるんだろう?」
「全部、慣れだ」
「えぇ……」

慣れ。それだけで車を上回る速度を出すウマ娘の脚の裏、蹄鉄に強かに顔を殴られても平気という凄いね人体という耐久性に果たして成れるものなのだろうか。
やっぱり、この先輩はどこかおかしい。そんな感想を知らず、等の先輩は飴を口内でころりとしてからしれっと話を続けるのだった。

「話を戻そう。――――は、明らかにアスリートとしての肉体は類を見ないほどに優れている……だが、あの子はウマ娘としちゃあ弱い」
「……はい」
「強いのに弱い。それで、必死に強くなろうとしてるんだ。無理もするし、無茶なこともするだろうさ。……それこそ、おかしくなっちまってもなんら不思議じゃない」

トレーナーは思う。
必死。彼女を語るにおいてその言葉を用いることは決して、間違いない。
キラキラ輝く才能を多分に持っているのに、ウマ娘としての弱さだって多分に持っている少女。
そんな歪が果たして一等星になれるものだろうか。図案としての星は棘だらけの形象。なら或いは。

しかし、首を振って、スピカという一等星の名を背負う彼は言い切るのだった。

「あの嘶きは、異常だ。断末魔とどう違うってんだよ……俺は、あんなのは認めない」

トレーナーはウマ娘を愛するもの。そして、スピカトレーナーはその中でも極まって、彼女らの輝く未来に夢を見ていた。
だが、――――は何だ。あの、全てを燃やし尽くす蝋の炎の様は。必死とは死を覚悟に生きることで必ず死ぬ生き方をすることじゃないんだぞ。
あんな必死では、決まって、燃え尽きて真っ暗闇に堕ちるのが当たり前。そんなことは、一人のトレーナーとして、一人の人間として許しがたかった。
だから、彼は彼の肩にぽんと手を置いて、言う。

「現理事長になってから、チームに入らなくても、担当がいなくてもトゥインクルシリーズには出れるようになったんだ。別に無理にお前さんが担当としてあの子を背負っちまうことはないんだからな?」
「……僕に、彼女の担当を辞めろと言うんですか?」
「おう。それこそ、さっきの仕事みたいに最悪俺になげちまっても良いんだ。なあに、お前さんが安心できる程度の成績は保証してやるさ。面倒なことは、俺に任せちまえ!」

先輩に、任せろ。それしか言えない自分が申し訳なくもある。そうスピカトレーナーは思う。
できるなら、任せてやりたい。だが、不安なのだ。
この先輩から目をつけられがちな後輩の仕事を偶に手伝ってやってみて、痛感した。まだ、こいつは若い。才能に未来がさんさんと輝くようでもあるが、だがそれだけだ。
せいぜいが一人を抱えられる程度の実力、だが二人も抱えてしまった。それも、面倒な奴まで。
知っているさ。――――も、このトレーナーも良いやつだ。間違って、双方に取り返しのつかない傷を負わせてしまうのだけは認めたくない。そのために、今日この場を設けたのだが。

「いや……それじゃ、ダメなんです……それだけじゃ、嫌だ……」
「お前……」

泣いて、大人に成り立ての彼は嫌だと言った。
驚く先輩。しかし、涙すらもう、取り返しのつかない傷を負ってしまっているトレーナーにとっては、自然な反応だったのだった。
泣くほど心より、持っていかれたくない。それはどうしてか。

「僕が、あの子を最高の笑顔にしたいんです。僕が、彼女に。ああ……そう、僕は彼女に僕にだけの笑顔を向けて欲しいんだ……」

そんな、自分勝手な理由一つに尽きた。尽きて、終わってしまっていたのだ。
あっけにとられて、スピカトレーナーは零す。

「ひょっとして、お前さん……」
「ええ。きっと僕は、あの子に惚れています」

それは色恋か。そうかもしれないが、違うのかもしれなかった。
何しろ、自分は既にあの笑顔、その愛おしさを抱きしめてしまってるのだ。将来の夢のためではなく、あの日の彼女を救いたいがために。

でも、もしも万が一救えないなら、あの子が地獄に落ちてしまうのなら。

「僕は、絶対にあの子を手放しません」

担当だもの、一緒に地獄に落ちてあげようじゃないか。前にああは言ったけれど、キミを見捨てるなんて僕にはきっと無理だ。
大人になりきれない彼はそう、まるで泣いているような笑顔で言い切る。

「そう、か……」

そして、対する一人の大人は表情を変えずに。だが知らず、がり、と粒ほどに小さくなったキャンディを噛み砕いたのだった。

 

 

 

「くしゅん」
「ふふ――さんったら、可愛らしいくしゃみね」
「ん。誰かが私の噂してるのかも」
「それならいいのだけれど……風邪とかではない?」
「寒気もないしそれはない、かな」
「なら、良かったわ……なにせ、明日は貴方と私、二人のデビューレースが控えているのだから。用心として、身体を冷やす前に、今日は早く寝てしまいましょう?」
「そうだね……よいしょっと」
「わ、ちょっと。――さん、私のベッドに潜り込むのはダメよ!」
「ふふ……あったかいね、キングは。髪もふわっふわ」
「も、もうっ! はぁ。仕方ないわね……今日だけよ?」
「はーい」


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