――――は、関東、引いては東京の摩天楼に馴染んだウマ娘である。
たとえ旅行で色んなひなびたところへ行ったとしても、その土地土地の面白さより結局は自宅マンション周辺のコンビニやデパート、食事処が纏まった利便性の方を大事にしてしまう。
遠くの美味しいご飯より、近くのファストフードでしょ、と公言して憚らないくらい、少女は都会っ子だった。
すいすい人混みをすり抜けることに慣れきった彼女は、天然芝ぱくぱくをやらかしていた幼女の成長した姿とはまるで思えない。
変わっていないのは髪型とその丸い瞳に不相応な大きな夢を抱いたままだというところだけだろう。
「こうして、ここに来るのは何度目かしらね……」
さて、そんな東京という地元を駆けることばかりしていたウマ娘である――――であるが、しかし何時までもそれを続けてばかりもいられない。
なにしろ、ウマ娘が駆けるべきレース場は、地方を除いたとしても西に東に広く渡っている。ならば、東京レース場のみを走る場に選択するなんていうことは、流石の彼女も考えなかった。
とはいえ、遊びでなくデビューのために親友の担当である女性トレーナー(――――のトレーナーからすると先輩にあたる)が運転する車に長々乗っかって再びここに来るようになるとは。
歴史ある街並みをとうに通り過ぎたところで、振り向けば駐車場の石塊一つにも意味を覚えてしまう、そんな古都の趣。
この空気、小学の修学旅行以来だと感慨深げな――――の横で、少し陰った空を見上げながら、あえて同じ日にデビューレースを設定したキングヘイローが言葉を零す。
「京都、ね……それなりに車に揺られたけれど、――さんは、大丈夫かしら?」
「大丈夫よ。エルは車の中でずっと元気だったしいいとして……ん、トレーナーは?」
「トレーナーさんはあっちで、キングのトレーナーさんとお話してますよ……おっ、――ちゃんの足元に何かが……ってコレ、蹄鉄の欠片デース!」
「え? 私の……じゃないみたいね。錆びついてるし」
「だいぶ前に、誰かがこの場で欠けさせたのでしょうね……でもここで兵どもが夢の跡、って浸るのは、今の私たちにはそぐわないわね」
「あはは……過去を振り返るのも悪くはないけど、今日は流石に前向きな気持になっちゃうな」
「それはそうデスよー。何っていったって明日は二人のメイクデビュー、エルだって楽しみで仕方ありません!」
「ありがとう。ん。私も楽しみ」
せっかくの土日休みに、デビューレースを応援しに来てくれた担当を同じくしてくれるエルコンドルパサーの言葉ににこり、と頷く――――。
その心には、緊張もある。そして、ここまで頑張ってきて成長しきれなかった焦りもあった。
だがしかし、それ以上に言葉の通りに楽しみで仕方ないのである。
何しろ、競うこと、引いては走ること全てがウマソウルの影響の強い彼女にとっては酷く楽しいものだから。
何一つ曇りない笑顔を魅せ、隣り合う彼女をどきりとさせながら、――――は、拳を相手に向けて、言うのだった。
「キング。明日は必勝だね」
「っ、ええ。私たちが負けることなんて、ありえないわ!」
こつりと返答。似合わぬ強気を燃やす――――に、キングヘイローは少し驚きを覚えながらも、その笑みに感じ入る。
綺麗だ、愛らしい。出来ればぎゅっと抱きしめて、大事にしていたいものなのに、これはいつかは消えてしまうもの。
ああ、このままこの子がずっと曇らずにいてくれれば、いいのに。そんな小さな願いはきっと神様には届かないだろうけれども、優しい彼女は思ってしまう。
自分の勝利より、友の勝ちを願ってしまうのは、生まれて初めてのこと。でも、そんな願いは間違いなく本心で、ぎゅっとキングヘイローの握った拳に力が入るのだった。
「私は明日のレースもそうですが‥…友達とホテルで一泊……しかも一度は来てみたかった京都で、なんて嬉しいデス!」
「そうだね。時間があったら、ちょっと観光できたらいいな」
「私のトレーナーに聞いたところだと、今日この後一時間程度の自由時間はとってあるみたいだけれど?」
「それは嬉しいデス! 金閣寺に銀閣寺……サムライはグラスで間に合っていますから…‥忍者に芸者さん、よりどりみどりで楽しみデスねー」
「はは……流石に一時間じゃそれ全部は無理だろうけど、ちょっとは皆で楽しい思い出を作りたいね」
「ええっ!」
咲く、笑顔と笑顔。気づけば、ちょっと離れたところで、優しくトレーナーたちが見守ってくれている。そんな優しい全て。
こんな光景を果たして自分は守れるのだろうか。負ければ、終わり。そして、それは――――という名を掲げる私の死をも意味するのかもしれない。
明日は、一線を超えずとも勝てるかな。勿論、負けそうだったら使うけど。
「ふふ」
月は、すべてを等しく照らして青くただ輝く。
様々な思いを隠しながら――――は、必勝でなく、必死をも抱いて優しく微笑むのだった。
その日、京都レース場の空は、あいにくの雨曇り。滴る寸前まで暗ったくなったぼやけた空の下、しかし確たる結果は燦然と輝くものだった。
電光掲示板に輝く1着六枠の文字それこそ、愛すべき我らが王の勝利を示すものである。
ターフに脚を慣らしながら、感慨深く吐息を漏らし――――は、呟いた。
「ふぅ……キングは勝った、か……」
それは、素質を考えれば当然。だがしかし、それだけで語れるほど勝負の世界は甘くはない。
彼女は頑張った。当然、他の子だって必死に頑張っただろう。でも、それだってキングヘイローという少女の己を輝かせたいという意気には及ばなかったのだ。
1600メートル1:36:7というタイムは、まあ平均を逸脱するものではないかもしれない。それでも、彼女は1着にて走りきった。己の道の始まりを勝利で飾ったのだ。
「ん。なら、私も続かないとね」
――――という馬は、一度も勝てなかった。しかし、私は絶対に――――という名前を星で飾り付けるのだ。――――という名を振り返った時、哀よりも愛が勝るように。
それが、追悼、そして生きる意味。芝の一つ一つの雫に意味はなくとも、それが美しく輝くことに意味を感じてほしくって。
「あはっ」
やがて、少女は重い思いを懐きながらも楽しみに、破顔する。
なにせ、もうすぐ走れるのだ。この3歳新馬戦の1800メートルという距離をゼロにするために、私は走る。
今までこのために、多くを捨てて、そして余りあるものを拾えた。その結果が、これから出る。それは上等に記せた答案の結果が返ってくるような待ち遠しさがある。
「ふふ……ああ、ごめんね」
緊張の一瞬を待つその他大勢に、ぱかりと開いたその口元の締りのなさを睨まれながらも、少女は笑みながら、言い訳するように、言う。
「私、勝つのが、楽しみなんだ」
そして、少女は全てのライバルを敵にしたのだった。
そのウマ娘は、明らかに他のウマ娘たちを逸脱する完成度をしている。それが、パドックで彼女を観た観客たちの多くの感想だった。
まず、トモの具合が良い。また、歩みにブレるところがひとつもなく、更には気合も、調子も高そうだ。
まるで、シニア級の上位の存在が紛れ込んでしまったかのような、そんな何か凄いことをやらかすのではという雰囲気が、その6番のゼッケンを背負う少女には見て取れたのだった。あと、笑顔がいい。
だから、多くが彼女を支持した。そのため、人気は1番。そのことがまた、――――という少女の気を更によくしたのだろう。
「っ」
得意とは口が裂けても言えない、狭いゲートを出て、直ぐ。
両脇からの明らかに狙ったブロックじみた接近をするりと上手な体捌きにてよけて、端へ。
そして、そのまま気持ちよく、駆け出す。稍重の芝生上で、短距離でする拇指球にて素早く離着、それを繰り返してどんどんと少女は加速していった。
それこそ、傍から観れば、過ぎるくらいに。きっと彼女はかかっているのだと、多くが思っただろう。
「負ける、もんかっ!」
しかし、心と身体が整わないのなんて、――――というウマ娘においては通常運転。だから、明らか過ぎる逃げ具合は、予定調和ですらあった。
後ろに目がない彼女に、敵とどれだけのバ身離れたかなんて、分からない。気配としては、離れているとは感じることができるが、それくらいだ。
だから、走るのに集中できる。あくまで長距離向きなその身体で持って、最初からスパートをかけられるのだった。
相変わらず、重く蓋をされた空の下、少女はそのまま10のウマ娘を引き連れて逃げていく。
ドスドスという数多の蹄鉄が地をえぐる音が、地響きのように迫ってくる。怪物のような圧迫感が襲う中、しかし――――の走りは乱れない。
「このくらい、なら」
そう、怖くない。
私が練習してきた相手は、一人にて倍するほどの圧迫感を持って、私を超えていく。怪物どころではない、神鳥の羽ばたきに、何度心燃やしたものか。
それと比べたら、この足音の小粒なこと。乱れに乱れた、子供の走りを恐れる大人なんてない。
「でも……っ」
だが、勿論のこと、それだって自分を差しえるのだと――――は理解している。
どんだけ背伸びしたところで、普通一般、大したことのないウマ娘でしかないのは記録で見せつけられてきた。
今日は愛されたが、明日にはもう忘れ去られる。そんなことが普通にあり得るレベルだった。
きっと、観客たちもそろそろ理解しているだろう。想像よりもこのウマ娘は走らない、と。
そして、私は私の理想通りに――――を走らせてやれないことに、歯噛みする。
ぶらりぶらりと、目の前に、火種が吊るされている。もし、それを飲み込んだら、きっと。
私は誰からも忘れられない閃光になれるのだ。
ああ、なら。でも。
「ふざ、けるなっ」
そんな弱音を、ガチりと奥歯で噛み殺して、少女は攣りそうなくらいに力のこもった脚を更に自力で速めた。
淀の坂が、なんだ。これくらいの傾斜、心のみで踏み殺せる。そして。
わあ、という小ぶりの歓声が遠く聞こえる。そう、そろそろこの懊悩の旅も終りとなるのだ。
「後、少し!」
流石に、疲れている。
トレーナーに、ある意味君に向いた距離なんて最早ないのでは、といわれるほどの呆れるほどのスタミナお化けである――――であっても、この日調子は最高潮である彼女であっても京都のレース場で1800も全速力なのはくたびれるもの。
下り坂にて調子づいていた脚も、ホームストレッチにおいては見る影もない。
右に左に、上げるのが精一杯。拇指球どころかつま先を意識するので限界だ。これは、後々の課題となるだろうか。
そう、思わず逃避してしまいたくなるくらいに、足音は迫ってきている。憎き難き敵を食い破らんと、彼女らは必死だ。
「ははっ!」
だが、私はそんなものなんて気にならないくらいに、既に死んでいる。そして、生きようとしているのだ。
だから、明暗を分けるとしたら、きっとそこ。強いていうならば。
今日という日を誰よりも楽しんでいる、私が。
「――!」
「――ちゃん、頑張ってっ」
「――さん、勝って!」
「勝つっ!」
最後の一つを踏み込んで。
そしてはじめて、私はあっという間の一人旅を終えた。
「はぁ」
たやすく止まれないくらいに、苦しい。そして、別に今日の空は美しくないけれど。
電光掲示板に輝くは、6番の文字。だがそれを抜きにしたって。
ああ、走るのって、本当に楽しい。
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