勝つ、ということは相手を負かすことである。
そして、何度も何度も蹄鉄の下にて踏みにじられた過去を知っている――――は、勝つことでしか認められないものがあることを重々知っている少女は、敗北の悔しさを過ぎるくらいに知ってた。
だから、負けないように、己が掲げている大切なものがこれ以上穢されないようにも、走り続ける。
次第にそれがその頑丈な身体であっても無理な程の量と質になってしまっても、鞍の上に載せていた彼彼女の代わりに働く頭が頑なに凝り固まってしまうくらいに、頑張り続けて。
そして今。
「暇ね……」
トレーナーに休養を言い渡された――――は、一人暇にぼうっとしていた。
彼女はせめてもの抵抗と今ライバル足りうる同期たちを見て取れるような堤の上の位置にて座しているが、それだけ。
立派なお尻ごとスカートをアスファルトの上に敷いて、栗色尻尾をふりふりしながら、ただ少女はつまらなさしか感じとれていなかった。
「もっともっと、速くならなきゃいけないのに……」
次第に――――は、焦燥感を思い出していく。可愛らしかった大きな瞳は、鋭く細くなっていった。
だが、それはしてはいけない。度々異常に上手に抜け出しよく汗だくで帰ってくることでキングヘイローにフジキセキ寮長を困らせていた彼女であったが、根は真面目。
待てと言われて待てなかったのは子供の頃だけな娘である。だから、彼女は待つ。いつかの勝ちを信じて。
「……ん」
しかし昨日、エルコンドルパサーと併走して、――ちゃん、それで本気ですかー? と呆れられた覚えが――――の心を灼く。
その後彼女が遅れ、しかしそれでもペースを崩さずに駆けきったことを見たエルコンドルパサーは評価を改めたようだったが、練習であっても負けは負け。
また、エルコンドルパサーという少女が持つ圧倒的なまでの天賦を覚えて、敗北感に歯を食いしばって耐えていた――――。
そんな彼女に、ストップウォッチを手にしたトレーナーは真剣な顔をして、告げたのだった。
「休まないと、一生追いつけないよ、かぁ……」
トレーナーの丁寧な説明を自分なりにそうかいつまんで理解し、思わず彼女は顔を地に向ける。
君の去年のベストタイムより、遅くなっている。
自分の遅さが見たくなくて自主練に時計の類を持ってきていなかった彼女は、言われてようやく気づくのだった。自分の足を引っ張る慢性的な疲労困憊に。
更に、やっぱり疲れてましたか、と隣で理解に頷く仮面ウマ娘というイロモノで本物でもある少女に、ベストの――ちゃんの走りが楽しみデース! とまで言われてしまえば選択肢は一つしかなかった。
「ん……次は……あの人の走りを見ようかな」
だが、トレセン学園に来てから休むことを忘れていた――――。故に、彼女はびっくりするほど休むのが下手になっていた。
普通なら、普段の行動から離れて、遊びのある行動にスイッチするのが当たり前。休みの日はゆっくり眠ったり、ショッピングを楽しんだり、趣味に埋没したって良い。
とりあえず、やるべきことから目を離してリフレッシュするということが大事。
しかし、そんなこと、今や未練に引っ張られることに慣れきっている彼女には、中々出来ないことのようだった。
「彼女の良いところは体幹かな? 踏み込み、というより体重移動もスゴい……でも、なんて名前だったっけ……」
「んー? あの娘の名前は確か、なんとか……エンペラーだったかな。うん、目の付け所は良いと思うよ? 中々怖い追い込みをしてきそうな娘だよねー」
「ナントカエンペラー……なるほど、覚えたわ……って、わっ!」
つらつらと隣から紡がれたナントカエンペラーという名前に――――は思う。なるほど変な名前だ。しかし自分の名前よりマシだろうし、むしろ覚えやすくて良いかもしれない。
それにしても、自分は学友の名前すらろくに覚えていないくらいに前のめりだったのか、と考えたところで声をかけられた隣を向き、彼女はびっくり。
なにせ、そこにはナントカエンペラーさんよりも一つ二つ強かに見える少女、セイウンスカイが知らない間に目を細めながら座していたのだから。
集中を解けて間抜け顔になった好ましい相手の様子に、セイウンスカイは微笑む。
ちなみに、ナントカエンペラーという名前で覚えられてしまった彼女は、その事実と故を、それでは次はナントカエンペラーさんお願いします、と現国の時間に――――から真顔で次の朗読者として名指しされた際に大ウケと怒りとともに知った。
そして、名前のボールドな部分を間違えられたことの逆恨みは後々ダービーで強かに返されるのだが、そんなことつゆ知らずに、左手にて膝上の猫をあやしながら、雲の少女はのんびり反対の手を上げて手のひらを見せた。
「お、今気づいたんだ。や、――。キミの憧れ、セイちゃんですよー。今日はどうしたの? こんなところから敵情視察?」
「そんな上等なものじゃないし……そもそも私は……まだあの娘達の敵じゃないわ」
「まだ、ね……うんうん。ガッツある言葉が出るようになったっていうことは、一歩前進したって感じかなー。ねえ、――にトレーナーがついたって本当?」
「まあ、そう。お情けで、だけれどね……」
喜ばしいことを、酷く悔しそうに思い出す、――――。自分の醜態をこそが認められる、というのは決して少女にとって喜ばしいことではなかったのだ。
彼女の歪んだ柳眉を見て、セイウンスカイはどうしてか僅かにぞくりと気持ちよくなった。だがそんな心地におっといけないと首を振り、セイウンスカイはあえてのんびりと続ける。
「いやー、ありがたいことだね。うんうん。世の情けが目に染みるよー。ま、私は、ゲート訓練を強制してくる悪魔たちとはあんまり仲良くなりたくないけどね」
「スカイは本当にゲート入りが苦手なのね……面白いわね、ウマソウルの影響かしら? まあ、私の優しい優しいトレーナーさんにかけられた最初の指示が休養、ということの方が笑えちゃうけど」
「ん? つまり……――、今日休みなの?」
「まあ、そう……わ」
休みか、そう。そんな流れを理解するよりも早く、膝上の猫がびっくりするほどの勢いでセイウンスカイは――――に詰め寄る。
――――も、なんとなくセイウンスカイが自分のことを気にしているとは分かっていた。でもしかし、これは。この目の本気具合は、そして近い。
慌てる少女を前に、もっと内心狂喜に慌てていた少女は、誤って、言った。
「デート、しようか」
「え」
面舵一杯精一杯。あの時はちょっと《《かかっちゃってた》》かな、と後でセイウンスカイは述懐するのだった。
女の子同士のお出かけ。それをデートと呼ぶのはちょっと変わっているなと思えども、まあ他にしたいこともないしと諾々とセイウンスカイに付いて行く――――。
約束して別れ際に動きやすい格好に着替えてきてね、と言われたのでジャージを着てきた彼女。
おっきな太ももが隠れている今、動きやすくまとめた栗色お下げが二つぴょこんとしていてぴっちりジャージを着た幼い顔立ちの――――は、どこかの運動部のマネージャーのようにも見えた。いかにも、懸命に働いてくれそうである。
セイちゃん的には、可愛いの一言。まあそれはそれで悪くないが、おしゃれしてきたセイウンスカイは、普段着なのが酷く残念だと文句を言いながら、とことこ先導。
しばらく歩んだ二人は、釣り好き少女のいきつけにたどり着いた。つまりそこは。
「それで、デートで釣り堀、ねぇ……」
「あははー。ちょっと渋かったかな? ――は、やったことある?」
「ザリガニ釣りなら、少々」
「未経験ってことだね! なら手取り足取り、教えちゃうぞー!」
「わ」
あまり乗り気ではない――――に対し、手をわきわきさせながら、やる気満々のセイウンスカイ。
ふざけてくすぐりでもするのではないかと、最初接触に恐る恐るとしていた――――。しかし、存外セイウンスカイは真面目に教えてくれた。
30分も経てば、飲み込みの早い――――に教えることもなくなり、のんびり竿を構えながら、セイウンスカイは言う。
「どう――? のんびり出来てる?」
「あんまり、っと」
「あー……また――の方にかかったのかー……どれどれ」
「ん。もう大丈夫。魚を釣り上げるのも、かえしてあげるのも慣れた」
「……いや、さすが――クラス委員。そつがないねー」
「ただ、慣れるのが得意なだけ。そう上手には……いかないわ」
「はは……そんなことを言いながら、また釣り上げてるんだからこの子はもう……というか、おかしいな……セイちゃんの目には――の元に生け簀中の魚がまだかまだかとキミのもとに顔を出しているように見えるんだけれど……」
「そういえば、おばあちゃんのところでやったザリガニ釣りの時もこんな感じだったわね……思い出すわ。ハサミを上げて喝采しながら釣れられるために幼い私を囲む赤の群れを……普通にトラウマになったわ」
「あははー……――は、動物に好かれる性質なんだねー……」
嫌な思い出に顔を暗くしている――――にオレを釣れオレを釣れと、飛沫をぶつけるくらいに暴れまわる大量の魚たちを他所に、セイウンスカイ的にはそういうことになったようだ。
ドン引きする少女の足元で、一匹の子猫が顔を洗いながら、代わりににゃんと突っ込んであげるのだった。
食らいつく(少女の元へ近寄る)ために顔を懸命に水面から出す淡水魚の群れにもうこれでいいやと何も付いていない針を投じて、当たり前のように食いついてきた嬉しそうに暴れる彼らを引き上げリリースをする。
そんなルーチンを飽きるほど繰り返してその内悟りでも拓けそうな心地になってきた――――。
あまりに様子のおかしな魚と戯れることで何やら表情薄くなってきた少女に、こんなはずではと反応薄い彼女を引っ張りながら、セイウンスカイはその場を辞してく。
余談だが、そんな一連の様子をおののきながら認めていた常連客の話から、しばらく釣り堀では仏様クラスの太公望のウマ娘がやってきたと、話題になったらしい。
彼女はまるで罪人に戯れに救いの糸を投じるお釈迦様のようだった、そんな尾っぽがついて噂は下手したら――――の脚よりも早く釣り人の間を駆け抜けていったそうである。
そして、その後。
忙しなくて何だかんだいい運動になってしまった釣り(?)を終え、のんびりと――――とセイウンスカイは旧めの珈琲店に腰を据える。
上を向いて、珍妙なほどにくねったガラスで覆われた照明を、更には焦げ茶色の天板を覗きながら、――――は背中を久方ぶりに椅子にもたれさせた。少女は、呟く。
「あー、意外と釣りも疲れるものだったから、珈琲飲んでゆっくり、というのも救いに感じるわね」
「アレは釣りというよりナニか別の行為だったような……いや、まあそれはいいとしても、まあカフェでくつろいで貰っているようで良かったよ。実はここ、結構来てるところなんだ」
「練習サボったときに?」
「うん。練習に迷った時に、ね」
「そっか……貴女も、迷うのね」
「そりゃもちろん、セイちゃんだって、ステップを右から踏むか、左足を差し出すか、迷うときだってありますよ。――と違って」
「そう、ね……」
言葉に少し、考える――――。だがしかし、それはただのふりだ。彼女は何度だって、決めた弱い右足の方から恐れず踊り始めるだろう。そんな彼女を、セイウンスカイは悲しく見つめる。
セイウンスカイは、――――のことをとても気に入っている。それは、前に憧れたロマンからはじまるものだったが、しかし再び関わりを持ってからはその面白みと、また悲しさに魅了されていた。
この栗毛の少女は、自分というものを見ていない。いや、そもそもこの子は《《自分の名前》》を本当に理解しているのだろうか。まるで、――――という名を負う少女には、自分が尊ばれる命であることに実感がないようだった。
ある時は、私なんて、と言った。そして、違う時は、どうしてそんな顔をするのと真顔で聞いてくる。やがて、彼女は周囲の反応を恐れたのか、次第に隠れて走り出すようになった。
確かに――――は、自分が無理すると人が悲しむことが、悲しいのだろう。
だが、この子は本当のところを分かっていない。
「ねえ、――は痛くない? やめちゃいたくない? 実はそういうの、結構私にはあるんだけれど……」
「ん……痛くても、止めたくはないわね」
「……どうして?」
「だって、それが生きることでしょ?」
真顔で、彼女は言った。何を言っているんだ。そんな想いが真っ直ぐぶつかり跳ね返る。そして通じ合わない。
痛みこそが実感で、悼みこそが意味ならば。それは最早。
「それで後は、ただ空が青かったらいいかな」
くすり。笑顔すらも、どこか儚い。
遠くの空の青さばかりを望むということは、暗に自分が空に敷かれていることを認めることだ。そう、つまり彼女は世界の綺麗に、自分がないことをこそ楽しんでいる。
「っ」
あの日の彼女はそんな性根ではなかったはずなのに、どうしてこうなったのか。そんなに、この少女が背負った前世というのは重かったのか。
分からない。推し量れない。何しろ、自分はこれから先にあるはずの栄光を信じているから。自分の価値を理解しているから。
でも。
「後は、自分が減点でなくなれば、満点」
ああ、この子は自分を――――という名前に隠れたノイズ程度にしか思っていないのだ。
「そんなこと、言わないでよ……」
綺麗に、――――は、笑顔を作った。
思わず項垂れる、セイウンスカイ。
あの日の笑みは、未だ遠い。
だから。
「私は、そんなキミが好きなんだから」
ありったけを伝えたけど。
「あはは……うん。ありがとう」
本音ですら彼女の前では優しい嘘にしか聞こえないみたいで。
「私もスカイのこと、大好きだよ」
だから、彼女の本音で胸が苦しいことが、悲しい。
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