それでも、私は走る

モブウマ娘 それでも私は走る

「全治、二ヶ月か……何、してようかな」

若葉色の一重の患者着に身を包みながら、少女は先に聞いた医者の言葉を繰り返す。
随分と長く気絶していたらしい合間にがっしりと巻かれたギプスを装置で釣り上げられた、そんな身動きろくに取れない大げさな眼前の光景に――――はぼうっと夢の終わりすら感じるのだった。

「挑めずに、ダービーはおしまい、か……まあ、まだ走れるみたいだから……ん。頑張ろ」

独り言ち、お下げ解かれた栗色した髪の長さを――――は頬に感じる。頑張り続けて伸びるに任せたこれも、最早今は長すぎた。
後で看護師さんに髪を切る相談でもしようと、彼女は決心する。
そして、少女の視線は再び白さをメッセージにて大分失った様子であるカラフルギプスに向いた。

「大体はクラスの皆で……皐月賞で一緒に走った子たちもお見舞いしてくれたんだね。あ……ゴルシちゃんもこっそり書いてくれてる。『早く治して一緒に行こうぜ』って、水道職人さんの割引チケットが貼ってあるけど……ふふ。うどんの世話のお誘いなんてあの娘らしいな」

少し眩しいくらいの淡い色した文字ばかりで書かれていたのは頑張れ、ファイト等の激励にまた一緒に走ろう、次は最後まで、等の文言。
ゴールドシップの残したもの以外のそれらは全て――――というウマ娘に対した期待を籠めた優しさ。決して、少女らは幻の皐月賞勝者の再起を疑ってはいない様子だった。

「頑張れる……かな?」

しかし、当の本人はそれが出来ると確信することが出来ない。
何しろ、今まで胸元をかっかと燃していた理由が綺麗さっぱりどこにも見当たらないものだから。

「加護だけはまだあるけれど……あの子は、――――という一頭は私にはもう見えない」

自分の耳は変わらずてっぺんに。そして力めばきっと鉄柵をすら曲げられるほどの自力は覚えられた。
私はまだウマ娘をやれていて、ならきっとあの子は側にあるのだとは――――も思える。
だが、それ以外の貰った殆ど全てを燃してしまって、あれだけ強く感じていたウマソウルとの繋がりすらも最早少女には感じられなかった。

そんな中。ろくに自認すら出来ないどこかの獣の名前を世に広める行為を続けるのは、果たして健全とは言えないだろう。
無理に無理は重ねてきた。挫けてしまえば諦めるのは当然で、そもそも同じ努力を続けられるのかどうかすら分からない。

「治る、とは言っていたけれど……」

脛骨骨折。あまりの力みに耐えられなかった太い骨は、しかしそこで止まったことで皮膚突き破ることさえなく皮下骨折に留まった。
距骨にも罅が入っていたしもう少し駆けてたら選手生命どころか命も危なかったよ、とは金髪の女医の弁。

殆ど白い個室にて、痛かったねと泣いていた母と頑張ったなと撫でてくれた父の表情が――――には忘れられない。
そして、トレーナーに仲間のウマ娘達の心よりの言葉たちを聞いた後で今更私は大切な全てを投げ出せるのか、――――は己に問う。

きっと治るまでの二ヶ月もの時に、優れた彼女たちはもう自分なんかの手の届かないところまで駆け抜けていることだろうと――――は理解している。
リハビリをどれだけ頑張ろうとも、その差はきっとろくに埋まるまい。それどころか、あの日の全力をまた出せるまでに己は戻れるのか。
分からないことばかりで、あの子も居ない未来は真っ黒。身体すくむ思いで壊れた脚が痛むけれども。

「……それでも、私は走る」

悩んだ末に出たのはそんな、一言。彼女というウマ娘の物語のタイトルのような、呪いの言葉。だがそれこそが彼女の何よりやりたいことで。

「私はまだ、走れるのだから」

走ることに命を賭せなかった――――という競走馬に対する鎮魂曲の続きだったのかもしれない。

 

走って、止まり、走って、止まる。
半ば急ぎ過ぎとも捉えられるそんな生に、一時の間。
健康優良児だった故に目新しかった朝昼の番組に飽いてから、少女がはじめたのは読書。
クラスメイト達が持ってくる様々な見舞い品の中に紛れていた、子供向けミステリシリーズ物のはじめの数冊。
戯れに手を取ったそれの面白さを識っていた子たちと感想を共有したところ、黙っていた同室の王様から贈られたのは彼女が所蔵するお気に入りから厳選された小説数十冊。
これで足りなかったら私に催促なさい、と言う気風の良すぎるキングヘイローに、――――は苦笑交じりにありがとうと答えたものだった。

「ん……キングの本は少し難しいけど、オチがどれもいいね。感動的」

一際厚めの三冊目を読み切って、伸びを一つ。
そろそろこの作者さんのことも気に入り始めたなと感じる――――。恐らくは退院したらまず真っ直ぐ本屋に向かうであろうことが少女には想像できてしまう。
だが遠くの地平線よりも、間近の文字一つ一つに気色を覚えるようになるとは、短い間に自分も変わったものだとウマ娘の少女は思うのだった。

「それにしても、愛、かあ……」

本を閉じ、しかしその内容の熱さは胸にあの日よりずっと血色が戻ってきた蕾の唇を動かし――――は呟く。
彼女としてはこれまでずっと普通一般のつもりだった。だがこの頃知らず劣等感に苛まれ続け、一つの愛のために駆け続けていたのであれば、心は平凡ではいられない。
想うのは、恋ではなく愛。熱を与えても与えても減らない温かな心。そんなものがこの世の中にあるなんて少女は知らなかったのだけれども。

「なら、私は確かにあの子を愛せていたんだ」

勝ちたい。勝ってこの子の名前を。そんなこれまでの火炎のような想いの全てが愛だとするならば、果たして私はあの子の死後の報いになっていただろうか。
それはもう、分からない。
ずっと側に、今も隣にあるはずの魂との繋がり感じることなく――――はただぎゅっと、自らの手を握り込む。
今も何も掴めなかった彼女のその小さな手のひらは、でも決して無力ではない。

――――は数少ない、ウマソウルを感じ取れるウマ娘。いや、それどころか彼女は前世としてこれからの己が辿るだろう運命を識っていた。
本来勝てない、筈である。そもそも一度たりとて前世では勝てなかった。なら、今回もだめだ。私は、ダメだった。

「そんなこと、なかったよ」

そう思い停まってしまいそうな弱い弱い魂を愛によって温めた者こそ――――という少女だった。
私を走らせてくれたあなたがダメなんて、そんなのたとえ女神が決めたことですら許しがたいと、発奮。

そして、夢の舞台まで駆け上がった。もっともあまりに勢いづいて落っこちてしまったけれども、それでも私達は。

「怖くても、走って良かった……」

そう――――というウマ娘/馬にとってそればかりは過つことのない結論だったのかもしれない。

「っ!」

だが万感を籠めたその言葉は、クラシックな装丁に目を置いていた彼女の予想以上に響いた。
それこそ、毎日何か縋るように《《乞い》》するように、誰より速く見舞いにやって来る彼女の優れた耳元に届いて、もう離れないくらいには。

彼女は走る機能に愛されたウマ娘である。先頭の光景に魅せられ、ゴールテープまでずっと。
グレードワンの競走を駆ける他の乙女たちにだって最初から最後までずっとそっぽを向き続ける彼女はどこまでも優れていて。

「――ちゃんは、怪我をしてもそう言っちゃうんだね」
「スズカさん……」

だが蹄鉄を敷かない少女の細い脚が、これっぽっちも力強くない一歩をここに生む。
リノリウムの床はやけに硬質な足音を立てるが彼女、サイレンススズカの耳は垂れきって弱々しいままだ。
髪の長きは七難隠すといえども項垂れた首に彼女の長髪は少し野暮ったくもある。
コンビニで買ってきた二つのいちご大福を容れたビニール袋を背中に隠し、サイレンススズカは力のない二歩目で寄って――――に語った。

「私は――ちゃんが怪我するまで走るのは、嫌。本当はもう、一歩も動かないでいて欲しいくらいにあの日の貴女の姿は辛かった」
「そう、ですか……」
「でも、そんなのは勝手よね」
「えっと……私は、そんなスズカさんも好きですけど」
「ふふ……優しいのね――ちゃんは」

昏い想い、私が辛いから独り占めにしたいという恋に似たような心を受けて、しかし純心少女は好きと返す。
どくんと痛く胸は鳴る。だが大粒の彼女の瞳が歪まず自分を映すのが、サイレンススズカにとっては少し辛い。
しかしそれでも目を逸らすことなど出来ずに、誤ったペケの彼女に魅入られ続ける。

「……お土産。美味しいから、後で食べてね」
「わ。……ありがとうございます」

少し経ち、――――の睫毛の一本も伺える距離にいつの間にか寄っていたことに気づいたサイレンススズカは、身体で隠していたビニール袋をサイドテーブルの上に載せた。
白の中に薄く、品物が二個あるだろうことに目敏く気づく――――だったが、しかし問いまではしない。
何時もならお菓子を隣で一緒に食べるなど平気でするだろうから、つまり何か心変わりがあったのだろう。
それを察している――――は、辛抱強く彼女が告白するのを待った。

迷い続けているサイレンススズカは視線も彷徨い続ける。
まず彼女は目印としていたバツの彼女の周囲の物、歪に重なった本や数本のカラーペンに休符のデザインの付いた一組の緑のヘアゴムを見て取った。
そして、でも留まれずに心ここには置けなく、今にも走って逃げたくなる心地を抑えながら、それでも優しく年下のこの娘は私をずっと認めてくれていて。

瑪瑙の瞬き。サイレンススズカは、耐えきれずに言った。

「……私はずっと前の私の走りを、貴女が怪我した時に見たの」
「それは……」

――――は鈍感ではあるがバカでもない。故に、サイレンススズカが調子をおかしくしたのが自分の怪我に因していることくらいは察せていた。
だが、それにしたってまさかこの人もウマソウルを辿って前世を見れたとは考えていなかった。
いや、この場合は見てしまったと言った方が良いのかもしれない。それくらいに、細いその手を救いのように逆手でぎゅうと握り込んだ彼女の頬は白い。

サイレンススズカが思い返すは、《《サイレンススズカ号》》が観た先頭の光景。
前にならわず私はどうだとふんぞり返っても良い一番。全てが線となって端に消えていくそんな最速を持ってして彼は駆けていた。

「速かった……きっとあの日の――ちゃんにだって負けないくらいに、速く走れていたと思うのだけれど」

だが、彼は知らず命まで賭けてすらいたのかもしれない。
最高速を止めたのは鈍い音。それは思い出してしまったサイレンススズカの心をすら折った。
でも、あの子はお利口さんにも背中に載せていた大切な彼だけは落とすまいと踏ん張ってしまい。

「でもね。そのせいで、私だったあの子は壊れちゃったの」

あの走る芸術品は壊れてもう、どうしようもなくなってしまった。必死に助けの手でも施せずに、皆があげられたのは安らかな死のみ。

ああ、彼だって私のように楽しく駆けていたばかりで、私のように先頭の光景に魅せられていただけで、そして彼は私でならば私は。
耐えきれずに、サイレンススズカは目を瞑った。

「これ以上走ったら……私、死んじゃうのかもしれない」

未来は分からない。だが、過去は確かにサイレンススズカの後ろに悲劇的にまで燦然と輝いていた。
なら、そんなお手本を彼女が踏襲せずにいられるだろうか。
知らずサイレンススズカ号物語の終わりの手前にまで来て、ここに彼女は振り返ってしまい震えて怖じる。

「私は……私達は、壊れるために走っていた訳じゃないのにっ!」

そんな悲鳴のような言葉が彼女の本音。
叫んだことで視界は歪んで心は決壊した。

果たしてその止まらない涙は誰のためか。それはきっと走り抜けられなかった彼のため。
無念、悔しさ、そして僅かの誇らしさ。そんなものをサイレンススズカはウマソウルから感じてしまい、心散り散りに乱れた。

「うっ……うぅ……」
「スズカさん」
「ごめん、なさい……」

温く、息すらし辛い。そんな、風に強く強く縋り付かれながら、遠慮がちに――――はその背を撫でる。
最初に感じたのはその華奢さ。あまり肉付きの良くないこの先輩は、元々どこか儚さを帯びていた。
だが、実のところその機能美の根源はずっと前の命から繋がっていて、そしてきっとその結末も後少しなのだろう。

「大丈夫、です」
「っ」

死。命がけで走っていた――――とて、これまでそれを感じたことはない。
ただ、それがとても真っ暗で寂しいものであるというのは察せたから、強い抱擁を更に包むように抱き返してこう伝える。

「英雄物語を恐怖が殺してしまうのだって、あっていい……と私は思います」
「それって……」
「ええ。きっと、スズカさんは走らなくてもいい」

それは、間違いのないこと。前世に縛られようとも、生けるものは本質的に自由である。
命を得意に燃やさなくてもいいし、無理に止まったって構わない。

そして、何よりウマソウルが物語る前世が確実なものでないというのは――――という少女が体現している。
勝てなかったけれど、もう彼女は既に勝っていて、皐月の冠にも手を伸ばしたほど。きっと、運命というものはそんなに強く縛ってきてはいないのだ。

「なら……うっ、私は、どうしたら、いいの?」
「それは……」

だから、怖がらなくていいよと本来は伝えるべきなのだろう。――――も、少しだけ悩んだ。
しかし、そんな本音から外れた言葉できっとこの人を慰めきることは出来ない。
だから。痛む脚を少しズラして身を投げ出すようにして口元をサイレンススズカの耳元まで移してから――――は。

「こうしていれば、いいんですよ」
「え?」
「泣いて苦しんで、悲しんでそんなの私に投げ出してしまえばいいんです」
「そ、そんなの……――ちゃんが大変で……」
「でも、貴女が止まってしまっても、それでも……私は走ります」
「あ……」
「たとえつまらなくたって、それがひどい苦しみであっても……或いはそれが死に繋がるとしても、私は走りたい」

己の心の内。誰が聞いても間違っていて、悲しくも虚しいそんな決意を語る。
途端にサイレンススズカが感じたのは胸元の彼女から沸き起こるマグマのような熱量。

なるほど、これだけ燃え盛った命であったのだからあれ程の走りで忘れていた死を思い起こさせる程の衝撃を与えたのだと彼女は理解する。

「スズカさんの理想から見て、きっと間違いようもないくらいにバツの形をしている私です」

そしてサイレンススズカは潤んだ瞳でそんな悲しいことを言うなと眼前で黙って首を振ってみたのだけれども。

「そっちから逃げてさえいてくれたら、サイレンススズカ、貴女は貴女達をきっと亡くすことだけはないでしょう」

――――はそう言って、優しく微笑むばかりなのだった。


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