間違い

モブウマ娘 それでも私は走る

「はぁ……はぁ……」

走る、走る。――――は、疲労に止まらず、ただひたすらにダートを駆け続けていた。
柔らかい土に、左右に揺れる足首。重心も、次第にぶれてきていた。それでも、前へ。
自分をいじめるとは、このことか。それはまるで、怪我をするために自らに負荷をかけ続けているようですらある。
こんなことを続けていれば、間違いなくダメになってしまう。勿論、そんなことは息も絶え絶え、苦しみの渦中にある――――が一番分かっているのだ。

「まだ……まだっ!」

でも、止まらない。それは、止まる理由がないから、だ。
ほとんど全てが寝静まった深い夜の中。夜な夜な栗東寮を抜け出すことばかり得意になっている彼女は、今だけが無理できる時間だと知っていた。
だって、こんなに自分を痛めつけていることを知られたら、いい子いい人ばかりのウマ娘達は、我が事のように止めにかかるに決まっているのだ。
だから、誰もが行わない、無駄無理無謀を、隠れて行う。そんな悪手が成長に繋がるわけないのに、他のウマ娘達がやらないレベルの努力だからこそ、あえて彼女はするのだった。

最早汗に濡れるどころではなく、溺れるように滴りは続く。駆けるを続けた脚は、最早歩くよりも遅くにしか前に出ない。
視界も明滅し、意識すら耐えられないほどに疲れ切っているようだ。

仰ぐ空は黒く、星も多くは見えない。スポットライトなんて、闇の中にどこにもなかった。

それでも。少女は夢想する。

私なんて壊れたって良いから。それでも私に名をくれた――――という存在を認めさせて。

そう、それが出来ないことばかりが、悔しい。

走ることに、拘るわけだ。ああ実のところ彼女は、誰からも忘れられた一頭の馬の命を心より背負ってしまっていたのだった。

 

「は?」

それを彼が見つけられたのは、たまたまのことだった。

新人として初めてウマ娘と契約できたことに浮かれ(しかもそのウマ娘は素晴らしい素質を持っていた!)、トレーナー寮にまで持ち帰った仕事の山。
それとたっぷり戯れて、げっそりしながらもあまりの疲労に何処かに行ってしまった眠気を取り戻すための散歩をつい先程に、彼ははじめた。

未だに夜風は随分と寒く、むしろ歩めば歩むほどにどんどんと目が冴えていく。
風に、身震い。これは、家の中で眠気が帰ってくるのを待っていたほうが良かったか。
中肉中背。しかし脚の長さにはそれなりの自信があった彼はストライドあえて狭めてピッチを早め、予定していた散歩ルートを切り替えて練習場を突っ切ることにした。

「はは……ちょっと、怖いな」

夜も遅く時計の短針が天辺を過ぎてしばらく。当然、練習場は、暗闇に覆われている。
昼に大いに使われた建物に、用具は今はがらんどう。見知ったそれらの人気の無さが、違和感である。
黒く、おおよそモノトーンに染まっている全ては、似て非なるもの、知己の違う表情のようであって彼の言の通りにどこか恐ろしげではあった。

だが、大学も卒業した彼はもう大人の男。正確にはスーツに着られた、少年の目を持つ大人ではあったが、それに違いはない。

オバケなんてないさ。そんなことは笑い飛ばせるくらいに、当然のように知っている。
いや、もしかしたら実はどこかに居るのかもしれないが、けれども自分の人生にそれは関係ないだろうという確信を彼は持っていた。

だから。

「は?」

何か、暗闇を走っている。ウマ娘にしては、遅い。けれどもそれは正しくウマ娘の影形をしていて。

彼は、オバケなんて信じていない。だから、直ぐに彼女が現のものであることに気づけて。

「キミ、大丈夫かっ!」

その無茶苦茶な走りに、彼女の具合の悪さを理解したのだった。
叱ることすら浮かばない程の心配に走り、彼は。

「……誰?」

闇に光り輝かない、少女を見つけた。

 

ウマ娘のトレーナー、というのはこの世で最も人気のある仕事である、そう彼は理解していた。
それはそうだろう。人々に希望を与え、輝かしい記録と記憶を世界に刻み付け続ける、そんな素晴らしい少女たちのためになれる仕事なのだ。
自分ならずとも、なりたいと思う人は数多。なら、気合を入れなければならないよな。
そんなように考え、誰よりもと言うには脇道にそれながら、しかし熱量はひたすらに高いままに、彼は頑張り続けた。
結果として得たトレーナーという肩書。慌ただしい日々に、緊張している暇もなく。先輩に、楽しいことばかりじゃないぞと脅されようとも、それでもウマ娘たちと関わる日々はとても楽しくって。

だから、こんな哀しみが存在するなんて、思いもしなかったのだった。

泣き声は、聞こえない。大きな少女の瞳は乾いている。けれども彼女は泣き濡れていた。
泣いている子が居たら、心配するのがいい大人というもの。
そして、この少女はずぶ濡れなのだ。なら、助けなければならないだろう。
そのために、彼は無遠慮に、無思慮に――――へと近寄り、緑のハンカチーフを手渡そうとして、ためらう。

「……ああ、どうしようもないな、ハンカチじゃあ……でも、こんなに寒い中で、そのままじゃあ……」
「今は……全身燃えるようですので、大丈夫です」
「全然大丈夫じゃないよね、それ!? ああ、どこかシャワーでも浴びれるところ……そうだ、僕の部屋へでも……」
「連れ込む気ですか……流石に、その手には乗りませんよ?」
「あ……そ、そうじゃないんだ。ちょっと、慌ててた。僕はほら。このライセンスを見れば分かるかな? トレーナーなんだ。君の寮はどっちだい? 送るよ」
「……それは、ちょっと」

送る、という言葉に少し、嫌そうな表情をする――――。このまま居残りたいという少女の思いが、彼、トレーナーには透けて見えるようだった。
しかし、どうみたって、疲労困憊の様子。これ以上走らせるのは少女のためにはならないと、彼は理解していた。
だから無理にでも連れて帰る、その前に。思わず彼は疑問を口にしていた。

「君は……どうして、こんな夜に走ってたんだ?」
「それは……私が……」
「私が?」
「……間違っているから、です」
「……どういうことかな?」

聞き入るためにも視線を合わせて、真っ直ぐに。そうすると、少女のまだ幼気な様子がますます見て取れる。
そんな彼女は自分が間違っている、と言った。

トレーナーには、言葉の意味が分からない。いや、確かに夜にこの様子では寮から抜け出して夜な夜な駆けたのだろうことは、過ちだ。
そういえば、先輩の一人が、誰かやんちゃな娘がいるみたいだな、と一見きれいにならしてある、実際一部は凸凹のコースを朝に見て言っていた。
間違ってしまって、夜に駆ける。それは、まあおかしくはない。

だが、彼女は自身が間違っていると言った。そんなに哀しいほどにおかしい言葉ははどうしてか。
思わず身を乗り出すトレーナーに、――――は。

「簡単ですよ。私は正しい皆から背を向けてでも、皆に私の大切を認めてもらうために、走りたい、だからです」

そんなことを口にする少女は、似合わないくらいにとても綺麗に、笑っていた。

 

「正解のトレーニング、はもうすべて試しました。でも、それではダメでした。ですから、今は間違いならどうかとこの体をもって試しているのです」

思わず押し黙るトレーナーを他所に――――は、独りごちる。
ぽたり、と顎から滴る汗に、もうジャージは濡れない。ただ、益々冷たくはあるだろうか。
ナニカのために一人でも頑張る、を選んだ少女はあまりに寂しい。そして、その努力がまた度を越していて、許し難かった。

「そんな私が、間違っているって知ってます。そんなだから、怒られて仕方ない。見捨てられたって、当然です。でも……」

でも。そこで彼女の言は渋みに止まる。続けるのは、走るよりよっぽど辛い。でも、本当のことだから。
とても真面目な――――は、続きを口にする。

「皆、いい子達だから、悲しんじゃうんです。間違っている私なんかのために」

それだけが嫌なのだ。そう考える少女は、あまりに身勝手で。

「だから……私なんて、苦しい方が良いんです」

どこまでも間違っているのだけれど、とても、優しかった。

「はぁ……困ったな」

ぽりぽり、とトレーナーは目を瞑って沙汰を待つ――――を前に、悩む。この子は目を閉じると、幼さが消えて相応に見えるな、と逃避気味に思いながら。

少女の青さ、脆さ、醜さ、綺麗さ。そんなものを見せつけられて、自分は果たしてどうすれば良い。
また、こんな弱々しいものを自分は崇めて目を背けていたなんて、悔しいなとも彼は考えるのだった。

勿論、そんな感傷さえ忘れれば、こんな少女の無理など言語道断だと言い切れる。
アスリートに自暴自棄なんて論外だ。言ってみれば、そもそもこの少女はウマ娘に向いていないのだろう。
だから、彼女には夢を諦めさせた方が、優しいのかもしれない。

でも。そんなのは、無理だ。だって僕はウマ娘のトレーナー。彼女たちの夢が叶う瞬間を、誰より近くで見ることを望んだものだから。

「……皆が悲しまなきゃ、良いんだね?」
「……え?」
「君は無理がしたい。そして、僕や皆は知らない間に君に無理をされたくない。それなら……」

この子が才能がないというのは、理解できる。
そして、自分が魔法をかけるシンデレラはもう、昨日決まっていた。
なら、本当ならばこの少女に構うべきではないかもしれない。信頼できる他のトレーナーに任せてみる方が、正しいのかもしれなかった。

でも。

「僕が、君に限界まで無理をさせよう。ああ、そうだ。……僕は君のトレーナーに、なるよ。ならせてくれ」

もし、この選択が間違っていたとしても。

「……はいっ!」

涙を零しながらも彼女が見せてくれた満面の笑みの愛らしさ、尊さは、間違いないものだったから。

 

「えっと、トレーナーさん?」
「……どうも、エル」
「どうして――ちゃんがエルのトレーナーさんの隣にいるのデース!」
「ふふっ、今日から私のトレーナーさんでもある、からかな?」
「なんデスとー!?」
「あはは……」

後日。
自分の側で嫌ににこやかにしている――――を見てむむむと、喜色を曇らす担当ウマ娘、エルコンドルパサーを前に、トレーナーは大層困るのだが、それもまあ仕方のないことなのだろう。


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