比翼の鳥

イラストです。 それでも私は走る

風はどこか冷たさを帯びていながら、日差しは熱そのもの。
そんなこの頃の秋の天気のもとに、優駿ばかりがくつわではなく肩を並べて競い合う。
炎天に長く伸びすぎたため刈られて整ったばかりの街路樹が風に撫でられざわめいた。

良バ場で行われる9月20日、日曜日の神戸新聞杯。
グレードⅡの格のある本日の競走にてこと人気のあるウマ娘は二人。
再びの歌を、大器の片鱗を。それを望むファンの視線は殊更熱い。
やがて彼女らが殆ど一緒に並んで姿を現したことに、観客から多くの歓声が沸いた。

「ん。ここで走るのははじめてだけれど、お客さんいっぱい来てくれてるね」
「そうね……これまでは緊張であまり意識していなかったけれど、こうして見回すと凄い人……」
「ありがたいことだね」
「ええっ!」

心縛る本番の心地を忘れ何かを確かめるように、少女たちは周囲を見回す。
緊張に下を向く者ばかりが目立つ中、手を振る二人は笑顔であってそれが更に周囲に期待を伝播させる。

栗毛と鹿毛をたなびかせて並ぶは――――とキングヘイロー。
栗東寮にて同部屋の二人は今のところ仲睦まじく共に歩むのを良しとしていた。

甲子園球場のナイター前に向かえる場所と時間故か特に――――のその優れた耳にはかっとばしてけよー、とか完封や、とか野球色の言葉も多く聞こえてきたが、どちらにせよ多くが快い声かけとなり彼女のやる気を誘う。
ただ同じ笑顔の王様を横目で見たことでつい、愚問を口にしてしまった。

「キングは勝ちたい?」
「勿論。――、貴女だってそうでしょう?」
「そうだね……うん。でもだからってキング相手に喧嘩を売るってのも私らしくないかな」
「そうね。私達にはそんなものなんて必要ないわ」

煩さは洪水のようで、耳を閉じたくなるような心地の中しかし二人は向かい合い一言一句を己に刻み込まんとするのを止めない。
それは、きっとこの会話が走り出したくなるウマ娘としての本能よりもずっと大事なものと分かっているからだろう。
互いが互いを好んでいることなんて、彼女らには分かりきったこと。

心を共にするという誓いのような文句を交わした過去すら、今は余分。
競争ではなく協奏曲。心よりそれを奏でたいばかりの二人は、しかし順位を付けるための走る行為にすら、意味を感じてしまう。

「だって――――《《私達》》は、勝つから」

隣り合う音は和音にならない。そんなこと知ったことかとキングヘイローは――――にそう告げる。
不協和音を鳴らすぐらいなら、そもそも競わない。そんな選択だってあったというのに、彼女らは駆けるのを止めなかった。

故に今日、歪なライバルとしてこの場に集う。
どっちが勝ちたいのか勝たせたいのか、私か貴女かなんて決めもせずに。
まるでその様は勝負の結果をすら相手に預けているようである。これは全般的に性格のよいウマ娘としてもあり得ないほどの、友愛。

勝ち負けが全ての世界にこんな優柔不断で青臭く、そしてどこか尊さすらあるものを持ち込むとはと、彼女は思った。
以前国語の授業にて名前間違いとはいえバカにされた覚えから多く文学に親しむようになった、負けん気の強い少女はハナの差も作らずに認め合っている二人を見てこう呟く。

「天に在らば比翼の鳥地に在らば連理の枝……ね」
「……《《ボールドエンペラー》》さん?」

互いしか見つめていなかった二人の前に現れたのは、ごうごうと燃え盛るものを瞳の奥に持つ黒鹿毛。
ボールドエンペラー。そう、彼女こそあの稀に見るハイレベルと言われた第65回東京優駿における3着バ。
歓声すら癇に障るのか耳をおろし苛立っている様子のボールドエンペラーに、しかしマイペースにも――――はこう返した。

「比翼連理? 私達は女の子同士だよ?」
「ふん。アタシにはそんなのどーでもいい」

比翼の鳥とは中国の伝説にある雄雌を持って一つと成す鳥のこと。
それになぞらえるに、むしろ私達は同じすぎるのではと首を傾げる――――。
だが、そんな半端な混ぜっ返しなんかにボールドエンペラーは小揺るぎもしなかった。
奇跡の番狂わせを王道のみによって起こした彼女は一つの事実としてこんな言葉を返すのだ。

「自分一人じゃ飛べもしない鳥なんて、ただ哀れでしかない」

それは、より掛かりあうことではじめて飛翔を成す二羽に対するかねてからの感想。
一人では立てず、愛する他にない。ああ、あれらはなんて可哀想なのだ。
ライバルすら要らないと何もかもを敵にしてきた勇敢に過ぎる皇帝は、深すぎる愛を下に見る。

――――はむしろ、それに感動したかのように、言った。

「貴女は、優しいんだね」
「……違う」

本気の侮蔑に本気の親愛を返されたボールドエンペラーは、慌てる様子もなく首を振る。
とはいえ、彼女の長い一つお下げはそれに合わせて揺らいでいた。
ターフにて瞳に緑の瞳に赤い炎を燃やす皇帝は、真っ直ぐ二人の間を指差して。

「アタシはこれから《《また》》あんた達を負かすんだから!」

知らず手のひらで繋がっていた二人を再び下す宣言をするのだった。

 

「ふぅ」
「はぁ……」

日々の殆どを一緒にしていて、今回の競走でも同枠といえども、吐息までもがぴったり重なる訳もない。
そして、その結果も同じく。どうしたって白黒ついてしまう勝負の前に、歓声よりも己の鼓動ばかりが煩い。

東京優駿に神戸新聞杯。その場所は違えども、距離は同じ2400。
日本ダービーに競い合うこと叶わなかったキングヘイローと――――が今回の神戸新聞杯への出走を選んだのは、ただ菊花賞への優先出走権を得るためでは勿論ない。
あの日叶わなかった、2400という距離にて二人で共に勝利を競い合いたいという願いの焼き直し。

それが応援に完全に飲み込まれているスターターの音色とともに、高らかにも繰り広げられる。

「っ」
「今!」

一歩。それが速いのはやはり――――だった。あっという間に前に行かれてしまったことに、キングヘイローは臍を噛む。
ボールドエンペラーは、比翼の鳥と称したところで二人に違いは勿論たっぷりとある。
脚質に得意距離、それだけでなく真剣に顔を下げる――――と本気に顔を下げないキングヘイローは違いすぎた。

「逃げる、気ねっ」

走り出せばもう、音も熱も全てが余計と消える。
灼熱の身体を持って、彼女らは最適なペースを刻んでいく。
だが行き急ぐように小刻みに過ぎる――――や深く沈み込むように控えるボールドエンペラーと比べ、キングヘイローのそれはあまりに中途半端だ。
芝生のクッションに跳ねるように駆ける彼女は急げないし、待てない。

「大丈夫……」

故に、キングヘイローは先行という選択を取る。
今届かなくてもと、彼女の勇姿から目を離さないためにも胸を張りながら駆け続けるのだ。
望むのは、スタミナ尽きたところで差すような展開。それは流石の彼女とて、もうこの距離を全力全開ではいかないだろうというある種の信頼があるからに違いなかった。

「ふぅ……」

そして、その予想は的中している。
逃げる――――からは歌どころか呟きすら漏れていないし、後ろの気配を察しながら息を整える余裕すらあった。
ただ本気を出し続けるばかりが彼女の能ではない。この夏サイレンススズカの尾っぽを追いかけながら注力した変化走の練習にて培ったものは、間違いなく今の――――のためになっていた。

「まだ、大丈夫よ……」

距離は空け過ぎず、しかし決してなくさず。
逃げる者にとって何より必要なそんなペースチェンジを異次元の先輩から写し取った――――はかなりの巧者である。
そしてまるで《《重しを取っ払った》》かのようなこれまでと違う走りの軽やかさも含め、全てが天賦の才を地道な努力で整え続けているばかりのキングヘイローには眩しく映った。

「あの子の前では、誰よりも速く駆け抜けてあげたかったのだけれどね……」

何時か、そんな夢を語った覚えが彼女にもあった。だが、つれない――――はもう振り返ることすらなく、こちらに尻尾を向けて逃げるばかり。
これではどちらが王で、どちらが挑戦者なのか。確かに――――というウマ娘はなるほどもう哀れめないくらいには強い。だが私はキングヘイローで。

「ああっ!」
「っ!」

そして、彼女は懊悩の末に小利口な思考を捨てた。
掛かる。端から制御できていなかった心が加速し、それに身体が追いすがっていく。
なるほど――――は今私達をその敏感な耳などで感じているのだろう。恐れて、逃げている。
だが、そんなことはどうでもよく、私を見ろとキングヘイローは駆けた。

「ああああああ!」

前だけを見つめて形なんて気にも留めないそれが無様なのは、この際どうでもいい。だが彼女はこの走りに懸けた。
トレーナーとの作戦と異なり随分と早いタイミングでの仕掛けになったが、それでももう比翼の影すら踏めないことを許せない哀れな一羽は己の瞳に燃え盛る炎の色をすら知らない。

「ぐ……っ」

そして、追い立てられる――――はもう完全に歌うタイミングすら失し、ただ歯を食いしばり踏み込みに力を入れて最速に切り替える。
途端に弾ける地面。刻まれる蹄鉄の深度は急激に増して、痛めた足の不揃いをここで痛感させた。

「負け、ない……」
「私、だって……!」

結果緩みはせずとも、加速は足りずに栗毛と鹿毛はここで並ぶ。
その後は一進一退。GIでしのぎを削った覚えのある出走者達の殆どすらも置いてきぼりにして、彼女らは正しく比翼のごとく付かず離れずただ意地のみを戦わせることとなった。
互いにコーナーに膨らまず直線に同じくたどり着いた時に、地鳴りのように響き出した声援。
人気バ二人が一歩を競い合っているその光景に多くが興奮の声を上げて、更には。

「らあああああ!」
「っ」

その真後ろに見事な追い込みを見せるボールドエンペラーの姿まであったのだから、たまらない。
差して勝つ。それだけの思いのみを焚べて瞳に宿す彼女は迷いないからこそ恐ろしい。

「アタシは勝つ、勝つ、勝つんだあっ!」

彼女は友情などの余計なものを捨てたその痩身を持って、勝利への飢えに真っ赤に燃えた。
これは、好きとか嫌いとかそんな吹けば飛ぶような感傷とは異なる内から湧き出る激情。

「っああっ!」

勝利で己を示すということ。それのみがウマ娘の欲するところであるならば、もはや彼女には上手く走ることすら意味のないものだった。
故に、拙くとも勝つ。それが絶対だからこそ皇帝だと信じたくて、ボールドエンペラーは勝利へと寸前まで手を伸ばして。

「ごめん」
「え?」

だから彼女はそんな、彼女達の間にて決定的となる言葉を聞いてしまったのだった。

 

此度のレース。彼女らの勝敗を分けたのは、単純に言ってしまえば距離適性。
中長距離が得意な――――は、最後まで一歩を残せていて、その違いによって最後に二人を置いてきぼりにした。

「か、った……ふぅ」

一着5番――――。それが電光掲示板にはっきりと表示され時、今日一番の歓声が巻き起こり、肌で感じる振動は少女の痛みをすら忘れさせた。
走り、しかしそれも続けられずに次第に彼女も止まる。息を吸って、吐いてそして。

「キング?」

やがて振り返った時に、どこにも彼女は居ない。
いや、ずっと後ろ。勝負を決めたラインの直ぐ側にてキングヘイローはうずくまっていて。

伸ばそうとした手が届く前。近寄ってきた一翼相手に顔を伏せることさえせずに彼女は、こう叫ぶのだった。

「――――どうして、どうしてよっ!」

分からない。どうして私はこんなに狂乱している。
それが分からずとも、しかしキングヘイローは心の悲鳴をこう形にした。

「どうして貴女は私に謝ってしまったの!」

三着のキングヘイローは、はじめて――――を下から見上げて睨みつける。

ああ、痛い。涙は乾いた瞳が流すものではなく、嘆く心が叫ぶものなのだろうか。
そんな風に、今キングヘイローは痛感した。

「ああ……」

後悔は、何時だって先に立たず。
この世にもし比翼の鳥があったとしても、二つに分けられる一人の勝利などなく。

「……っう」

また、勝者が敗者にかける言葉なんてない。

だから沈黙のまま、少女たちの心は白と黒の冷たい現実に、別れるのだった。

「だから、アタシは哀れと言ったんだよ……」

二人を下しきって《《やれなかった》》彼女のそんな小さな響きも、勝者を称える大勢の声によって、かき消される。


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