「ふぅ……」
一人ぼっちには、ため息が似合う。
だがキングの私がするようなことではないのに、と思いながらも止められなかったことが少女の疲れの証。
本日はレース後の休養に充てられた日。平素はそこそこドライな自身のトレーナーにかけられた、今はまず身体を大事にゆっくりね、という言葉が彼女の頭の中でリフレインする。
「ゆっくりして……私は果たして勝てるのかしら?」
呟き、そこに過日に失意の中でかけられた貴女ではもう彼女に勝てないという、母の言葉が重なりキングヘイローという少女を苛む。
そんなに辛いのなら走るのなんてもう止めなさいと、本心をむき出しに心配してきたあの人に、そういえば私はどう返したのかと、彼女はふと思う。
ぐちゃぐちゃな心地の中ではろくな返事も出来なかったには違いない。
けれども大切な者たちに勝てずに負けて、あまつさえ《《謝らせ》》てしまった経験を咀嚼した今なら、言えることが確かにあった。
キングヘイローは、ベッドの上に乗っかった暗い画面の携帯端末に向けて、今更にこう返すのである。
「お母様。こんなにも辛いからこそ、キングは走るのよ」
通じていない電話先から返事は勿論なく、そこにはただあの人からの通知ばかりが積もっているだけ。
苦しいくらいに、それこそ束縛染みた抱きをしてくる母を、しかしキングヘイローは口ほど嫌ってはいない。
もっとも、それは当たり前のことか。偉大なる先人で、それ以上に嫌になる程には愛おしい人だ。
キングヘイローは、何となくセットしきった髪に触れてから、立ち上がる。
「さて……直ぐに、仲直りなんてしないといけないわね」
その顔にもう憂いはない。どんなに辛くても、彼女は彼女と競い合ってその結果ずっと一緒に居るのだといま再び決めたのだから。
そう、負けたキングはでも彼女だからこそ、既に嘆きを吹っ切っり顔を上げていたのだった。
「皆、駆けているわね……」
呟き彼女は昨日競った心が今や、遠景であることに気づく。
あの日のアキアカネも遥か遠く、だから少女の一歩一歩は中々前に進めないのかもしれない。
近づけなく、熱に触れ得ないまま空を掻く少女の指先がガラス窓に触れ、去った。
遠出の先に仲違いをしたらその後に地獄のような帰宅時間が待っているのだと、キングヘイローは神戸新聞杯のあった日曜に思い知った。
そして、もうそれを二度と味わうものかと思う彼女は、朝に起きて一番に笑顔で和解を表そうとする。
だが、相手――――はその場に姿なく、既に身支度済みで登校済みというのだから困ったもの。
そして、その後レースの後で間違っても走ってはいないかと気になり追いかけるようにトレセン学園へと向かえば、そこにも姿中々が見えず。
気を揉むキングヘイローが彼女を発見したのはチャイムが鳴る寸前。
何故か――――は、セイウンスカイとスペシャルウィーク相手に両手に花というか明らかに確保された様子で現れたのだった。
また何時ものかと白けて視線を戻す周囲に隠れてキングヘイローが耳を立てていると、聞こえたのは、どうしてそんなに身体をいじめたがるかねこの娘は、というセイウンスカイの言葉。
なるほどやはり――――という少女はこっそりレース翌日に駆けようとしていて、それはつまりキングとの競走だけでは足りなかったということで。
知らずに噛み締め、ぎりと、鳴った奥歯の音が、彼女にはとても不快だった。
さて、そんな乙女心と秋の空。
放課後自室に戻ってからすっかり前を向き直した諦めがひょっとしたら――――よりも悪いのかもしれないキングヘイローは廊下を歩む。
楽しげなウマ娘たちのざわめき、外からアップの際の謎の掛け声が響くが、それらに耳を澄ませている暇はない。
もとよりどう見ても安心じゃない笹針師や光るトレーナーやゴールドシップ等の賑やかしが尽きることのないトレセン学園にしては、今日はまだまだ静かな方。
「あ、いたいた!」
「キング、探したよー」
ならば、目移りなどせずあの子を探せるとキングヘイローが意気込んだその時、見覚えのある子の姿が二つ。
それが、随分前に誰かさんと一緒に一時世話した覚えがあるネコ目とボブヘアのウマ娘だと気づいた彼女に、二人は笑顔でこう告げる。
「ねえ、キング。――ちゃん、あっち行ったよー」
「私達、あの人なんかうずうずしてたららこんなとこで走るんじゃないかって気になって見てたけど、大丈夫そう!」
「そう……お二人共、どうもありがとう」
「いいってー」
「仲良くしてよね!」
「ふふ……分かったわ」
「いいよ。私達キング達のファンだしー」
「推しには優しくだよねっ」
「……よく分からないわ」
そっと背中に手を当てられ彼女らに言われるがまま、キングは真っ直ぐ進まざるを得ない。
きっと自由な手を振って今も応援してくれているのが振り返らずとも分かる優しい彼女らには、どうにもされるがままになってしまうのがこの所の王の悩みだ。
そう、このようにキングヘイローと――――には、ファンが居る。よく分からないが、推しというのが彼女らの口癖。
むしろ、今私は彼女に背中を押されているのだけれど、と考えるキングはファン二人の熱量の高さをあまり知らない。
「いってらっしゃーい!」
「と」
「あ、キング」
そして、そんな彼女らの推し心に強く押されて、よろけながら彼女は彼女の前に。
「っ」
昨日ぶりの――――の正面顔にキングヘイローは少し照れる。
見慣れた、しかし期待以上に柔和なその表情。この子も思い悩んでいなくて良かったと考える彼女に――――は。
「ごめんね、キング。朝から避けちゃって」
昨日のやり直しのように、改めて頭を下げて真っ直ぐ謝ったのだった。
途端、ふんわりと感じる自分と同じ一流の香り。しかし、香料同じとは言えこの子から感じると途端に蠱惑的に覚えるから不思議だと、キングヘイローは苦笑した。
「やはり、そうなのね……」
「うん。私はキングが私を見限ってしまうことが怖くて逃げてたよ……よく考えたら、そんなことあり得ないのにね」
そして、キングヘイローと鏡写し。当たり前のように――――だって悩んでいたと言う。
でも、その悩みがまた途方もなく的外れであるからこれまた失笑ものだ。私が貴女を諦めるわけないでしょうにと、キングはこう悪口を呟く。
「それはそうよ……この、へっぽこさん」
「ふふ。久しぶりに、聞いたね、その表現」
「そうかしら? まあ、確かに最初はよく口にしていたかもしれないわ……」
言い、そして以前の口癖一流やへっぽこみたいな言葉だけで相手が測れないと気づいたのは何時だったかと、キングヘイローは考える。
それは果たして――――と初対面の頃からかもしれないし、彼女と共にあることを決めたあの日からだったかもしれなかった。
だがしかし、やっぱり測りきれない彼女はやっぱりどこかへっぽこで、私のことを信じきれていない。
それが悔しくて、思わずきっと睨んでしまうキングヘイロー。
――――しかしあくまで柔和に、こう続けた。
「ちょっと時間はあった。だから、私は私なりに色々考えたよ。それで、一つだけ理解した」
「……それって?」
一人ぼっちの懊悩が、正しい答えを導くのはそう簡単なことではない。
そうでなくても先の発言から続く唐変木な言葉を恐れつつ、キングヘイローは耳を立たせる。
しかし、今回ばかりは誤っていなかった彼女はしかし過ちから謝ることさえ出来ず、ただ申し訳無さそうに目を伏せながらこう呟く。
「私達は、何も間違っていない。だからこそ、私は謝っちゃ駄目だったんだ」
「っ!」
キングヘイローも言語化出来ていなかった心のモヤ。
それを熱心に過ぎてあまり人の機微や心が分からない――――が言い当てるとは。
ということは、これまでこの子はずっとその題目について考えていたに違いなく、つまりそれはあの人達にべたべたされながらもある種私にぞっこんであったということ。
「……それで」
「うん」
つい、笑顔になりそうになったキングヘイローはしかし弱さを直ぐに克己し、真っ直ぐに彼女を見つめ返す。
云と零す――――の瞳は溢れんばかりの大粒の栗色を湛えながら、ろくに瞬くこともなく。
唇を噛んでから、彼女は彼女にこう言った。
「私はまたやり直したい……もう、私のための貴女じゃない。貴女のための私になりたい」
「それは……一緒の意味じゃなくて?」
「私には違うんだけれど……キング?」
「ふ、うふふふ……おかしいわ。――さんたら、本当に……」
思わず、キングヘイローは声を上げて笑う。
勿論、聡明な彼女はニュアンスと主体の違いによって前後入れ替えで言葉の意味合いを変えたつもりで言ったのだとは理解している。
――――は明らかに、それを真面目に語っていたようで、だから吹き出したキングに恨めしそうな目を向けすらした。
でも、改めてキングヘイローにとって、その言葉は一笑に付すべきものでしかない。
わたしとあなた。そんなものどうでもいい。
むしろ、一緒くたでごめんねと別れるものでは決してなければ、比翼の鳥程依存しきった関係ではなく。
つまり、私達は。たとえようもなく私達なのだ。
「ふふ……だってそんなのもう、当たり前のことじゃない」
あまりに面白くて涙した眦の輝きを、キングヘイローは指先でさらう。
私達は私達でいい。そんなこと、誰に決められるものでなければ我々が自らの心で望んだことだった。
「はい」
「キング……いいの?」
「もちろんよ!」
これからも一緒に負けて勝とう。つまり、私達は差し引きゼロ。
手を差し出したところで、なんでか思い違いしながら目を伏せる彼女と私は一蓮托生、ライバルには決してなれない無二の友だから。
「貴女には、これからも私と一緒に立ち続ける、権利をあげるわ!」
そんな精一杯の告白を、キングヘイローは顔を真赤にはにかんで行ったのだった。
「うわあ……これは推しからの過剰供給ってヤツ?」
「うーん……キング達、ここがトレセン学園で皆が通る廊下だってこと忘れてるよねー」
仲直りした彼女らのとても幸せな光景。
だがその周囲、ネコ目とボブヘアのウマ娘は供給過多にて崩れ落ちていた。
また、光景を非常に尊いものと受けた多くのウマ娘たちはそれこそキングに負けないほど真っ赤にして手を重ねた二人を見つめている。
「ふふ」
「うふふ」
空気は桃色に停止し。それは、キングヘイローが正気を取り戻し休養を忘れて本気で逃げ出すまで続いたのだった。
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