アメリカ生まれのグラスワンダーというウマ娘にとって、日本というのは絵画の中の世界だった。
遠く、そしてどこか違う知らないところ。美しい、優れた誰かの筆致。
そんな国が大好きな母に寝物語の代わりに聞いた覚えを大切に、グラスワンダーは憧れに次第にその身を寄せていった。
淑やかこそ優雅であれば、慌てずに。芯の強さこそもののふであるならば、弱さに腐らず。
ただ、ウマ娘として、己を究めることに邁進していった。
お姉ちゃんたちは日本贔屓過ぎる。そんなことを言われても揺らがずただ笑むことこそ強かさと信じる彼女は、はじめて日本にやってきた時に、こう思ったものだった。
「うーん……どこか、違いますね」
狭い街中をゆるりと歩む人に人に、ウマ娘。それら全てに、信に己を律している様子は見えない。ただありのままに生きているばかり。
むしろ、自分が生まれた国よりどこか全体緩いような。グラスワンダーはそんな覚えに、まあそれはないだろうと首を振るのだった。
「期待、し過ぎていたのでしょうか?」
母国にて最早習い尽くしたレベルの上等な日本語にて、少女は独りごちた。
流石に、グラスワンダーが想像していたのは、テンプレートなイメージである忍者侍芸者のように、書画骨董の世界ではない。
とはいえ、彼女は理想の日本に己を寄せすぎて、ちょっと寄りかかりもしていたのかもしれなかった。
日本という異国にシンパシーを覚えてのめり込んでしまった自分は変わり者。でも、そんな変わり者も、自分を変えた日本という国に行けば普通になれるだろう。
そんな考えが甘いものだというのは、来日して直ぐのこの散歩で重々理解した。
「トレセン学園……とても優れたウマ娘達が、大勢いらっしゃいましたけれど……」
アメリカという遠くにてグラスワンダーが伝え聞くばかりの日本という存在に対して知らず期待していたのは、自分と同じもの、である。
そう、それこそ水墨画の筆のように迷いない一閃。自分が創るだろう道に拘る存在。そんな輩との切磋琢磨を望んでいた稀有な海外のウマ娘は。
「《《あの程度》》では、私がアメリカから渡ってきた意味がありません……」
酷く、がっかりとしていた。
勿論、素晴らしい強さと心を兼ね備えているだろうウマ娘も学園にはちらほら見てとれる。尊敬できる存在は、きっと探せば両手で足りないくらいには見つかるのだろう。
でも、それくらいの程度ならば、わざわざ国を出なくても良かったのだ。
むしろ、なんだかんだ母国に愛着を持つ彼女には、素敵なウマ娘の割合は向こうの方が多かったのではというような気すらしてしまうのだった。
「ふぅ……」
きゅっと、知らず少女はスカートの裾を掴んだ。数多の中で、疎外感。これを覚えるのは、一度ではなかった。
自分は少し、真面目過ぎる。そんなことは理解していた。でも、もっと、自分とぴたりと当て嵌まるような存在がそこら中に居るのではないか。
それを遠くに求めて、しかしなかった。別に、日本という国は理想郷でもないというのに。
風が、吹く。
強くも弱くもない、ただの涼でしかないそんな心地良いばかりのもの。これを嫌がる者など果たしているのか。
「ああ……」
そして、それを嫌うバ鹿。自分は恐らくソレなのだ。流される髪を気にしつつ、思わずグラスワンダーが自嘲しそうになった、そんな時。
「迷子?」
「……貴女は……」
おっきな瞳に悲しくなるくらいの真剣を孕んだ、そんなありきたりではないウマ娘がこちらを見つめていたことに、気づいたのだった。
「ふぅ……」
日本ウマ娘トレーニングセンター学園。府中にあるそのウマ娘のための学園は、中央とも呼ばれ、日本で一番にレベルの高い訓練校であるとされる。
主な目的としては、トゥインクル・シリーズに出場する良質なウマ娘を輩出することが挙げられるのだろうが、そもそも学園と銘打っているからには普通に学業もウマ娘たちは修めさせられる。
理社数国、まあありきたりのものばかりだが。そして、そんな学びの中にて、体育の時間も当然のようにあった。
身体を動かすことが得意なウマ娘に、何を教えるのかという疑問を一般の人は持つようだが、実際のところウマ娘たちは強力を持つ少女にすぎない。
むしろ、持ち前のパワーに振るわれないように、身体の動かし方や、身体のいたわり方を覚えることも大切なことだった。
「それにしても――。貴女はこういった時に強いのですね」
「まあ、ね。球技は得意な方だから」
「先生方より上手というのはどうかと思いますが……まあ、それを言うなら私もテニスは得意な方でして」
「グラスの場合はむしろ、苦手がないといった方が正しいのかも……ねっ!」
そして、レクリエーションとして、真剣に走る以外の楽しみを知ることもまた、この教科の目的の一つ。
その狙いに沿って、ラケットを持って対峙する二人のウマ娘は。
「がんばれー、――ちゃん! わっ、すっごーい! グラスちゃんの打ったボール、戻って来たよー!」
「……一人でダブルスって出来るのね……」
「グラスー! ラケットでボールを斬っちゃダメデース!」
やんややんやの観衆の視線の中、実力伯仲の超人テニスを披露していた。
相手が斬って二つになったボールを分身(実際は歩法によってそう見えるだけらしい)して打ち返す――――。
そして、四つのようになって返って来たボールを心眼で持って本物を見わけ、いつの間にかくっついていたテニスボールを力強く(人なら観客席に打ち上げられるレベルで)打ち返すグラスワンダー。
最早ウマ娘パワーで説明がつくレベルではない、ツッコミどころ満載の光景。
「うふふ」
しかし、これを作り上げている片割れ、グラスワンダーにとってはそれが楽しくもあった。
「っ!」
相手は必死である。それは分かっていた。いや、そもそも彼女は何時だって必死だ。
既に命がかかった勝負を終えて、それを今も続けているような、そんな真剣さを常に帯びている。
ハルウララ曰く、――ちゃんは笑顔がかっわいいんだよー。だが、そんな緩んだ――――など、グラスワンダーは見たこともない。
そして、別に見たくもなかった。だって。
大いに力を込めたボールを謎の跳ねない打球で返され、最早理解が追いつかなくなって点を示すばかりになった審判のウマ娘の少女により、後がなくなったことをグラスワンダーは知る。
あえて微笑んで、彼女は――――に向かって、言った。
「流石、――。それでこそ、私のライバルです」
「走りじゃ相手にもならないんだから、これくらいは……ねっ!」
そして、また始まるラリー。今度は大人しめ(速度は人界の最速を超えている)の打ち合いに、周りの少女たちも首を左右にして軌跡を見送るばかりになる。
また、小細工をしなくなれば、余裕が出てくるのは対戦者同士も。だが楽しく、ただ全力を打ち付け合う二人は、笑顔と渋面。ぱっかり綺麗に分かれていた。
そう、――――の言の通り、グラスワンダーは、ただのトレセン学園に受かることが出来た程度では話にならないレベルの怪物。
実際彼女たちが共に駆けてみたところで、並べたためしなんてない。せいぜいが、このような遊戯での互角がある程度。
そもそも、――――が、グラスワンダーの視界に入ったことこそ、奇跡。
「そんなこと、ありません!」
だが、グラスワンダーは、言い張る。その奇跡こそ運命なのだと、心から。
彼女は知っている。自分相手にむりーと負ける数多く。
自分は彼女たちより早くに道を見つけて邁進している。ならば、それは仕方ないと思っていた。でも、思うだけで、悲しかった。
誰か、もっと私を。そう思っていたところに。
「貴女は、だって一度も私に負けていないでしょう!」
「くっ!」
グラスワンダーは、本気をボールに篭めて――――にぶつける。途端に、ガットは受けきれずに、バラバラに千切れていく。
しかし、それでも。
「ほら」
ぽん、ぽん、とグラスワンダーの目の前に落ちる、黄色いテニスボール。
そう。負けまいと、――――は必死にラケットを振り切っていた。そのために、今回彼女はグラスワンダーから点を奪えた。
そして、それはこれまでずっと、同じこと。
――――は、認めていない。負けて負けて負けて負けても、それでも彼女は折れないのだ。
だって、少女は必死だから。
走らないと。私は私の軌跡で私の価値を証明しないと、死んでしまう。
間違っていると分かっていても、心から――――はそう錯誤していた。
歪んでいる。でもそれが、彼女のウマソウルの影響だとしても、いかにも真剣極まりない心根であるに違いはないのだ。
「はぁ……はぁ……」
少女の小さな顔に、玉の汗が、滴る。ぽたり、と運動靴に、染みが出来ていく。
舞台が異なるとはいえ真剣同士をぶつけ合い負けた。そのために足元に転がって《《返って》》きたボールにグラスワンダーは。
「うふふ」
酷く、心底満足そうに、笑むのだった。
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