おはよう

ノイズちゃん走る それでも私は走る

開始記号はさり気なく。
歓声に紛れた合図。それを敏に察せたのは、誰よりそれを待ち望んでいたからか。
連符の付いた彼女の耳は、響きを感じて全身を発奮させる。

「っ!」

つまり開いたゲートをドンピシャで察した――――。青の空の下、踏み出した彼女の一歩が爆ぜた。

クラウチングスタートというものは、スタートダッシュの損なんて瞬く間に取り戻せるウマ娘達にとって取り入れる価値の殆どないものだ。
また元々人間用の技術であり、それを完全にものにするのは難易度が非常に高い。殆ど無意味に近い姿勢移動を極めるよりも、全盛短い彼女らの修めるべきものは沢山有るのだ。
そして、何よりよーいどんの際にそんなことをしたら、端から逃げようとしているのが誰にだって分かってしまう。戦法の駆け引きの大事だって若くとも知っている少女らに、それは明らかに損に思えた。

「速いっ!」

それは、誰の悲鳴か。だが、ぐいぐいととんでもない初速を叩き出して遠ざかる――――の背中を見てしまえば、そんな常識が愚かしくすら思えてしまう。
アレは、最短における理想的な走り。それこそ、人と同じく百だか五十だかの距離であれば、――――という少女に追いつくのは短距離を得意とする極まったウマ娘達にだって難しいかもしれない。
走る軌跡が、飛び散る芝に土が桁外れの力みを察させた。そしてあっという間に他を置いて、これはまるで一人だけ抜けて、飛んでいるよう。観た者にそう感じさせるくらい、少女は風に乗っていた。

「っ」

だが勿論、そんなはじめの爆発のような全力は並々ならぬ負担を、ただのウマ娘でしかない――――に覚えさせる。
骨が、肉が軋む。急動に補給追い付かない心臓は今にも破裂しそうだ。こんな無理なんて、続くわけもない。そんなの、短距離走のランを長距離で続けられる人間が居ないのと同じ当たり前で。

「このっ!」

だが、それでも尚彼女は緩めない。いや、そもそも力の無さから勝手に速度なんて落ちるもの。
なら、この風を誰が逃すものか。そして、絶好の勝利へのライン(グリーンベルト)を決して踏み外さずに抜かされず。

「勝つんだ!」

私は勝利を歌おう。

 

「出遅れ……っ」

スペシャルウィークは、おおよそ考えられない速度で遠ざかっていく最愛の友の尾っぽを見つめながら、そう零す。
――――という少女は逃げが得意。彼女はそれしか出来ないのだと零す自信以上の適性を持っているのは明らかだった。
それこそ、近頃はその逃げの巧みさやサイレンススズカからの可愛がられっぷりからも、彼女の後を継ぐものとして陰日向から実のところ期待されて羨望されてすらいる。
そして外枠に配置されたスペシャルウィークと違い1枠2番となった彼女が、逃げて狙わない筈がないのだった。
そう、この皐月賞のために仮柵が退かされた結果出来た、あまり踏まれず凹凸の少ない全力を出すのに絶好の芝、俗に言うグリーンベルトを進むことを。

「遠い!」

万能型に近くともそもそもスペシャルウィークは今のところ差しを得意とするウマ娘。
故に、最初は――――に逃げられるのは想定の範囲内である。グリーンベルトの優位性なんて、気にすることはないと強がれる実力ではあった。

「いやっ」

だが、そんな自惚れがどうしたというのだ。愛する彼女は、自分の本気の為に命までかけるとまで言ってくれた――――はあんなにも遠くにそっぽを向いて。
手が届かない。もはや悲鳴すら彼女の心を揺さぶれないだろう。それほどに、少女は走ること、そして自分たちとの勝負に専心していて。

「嫌だ、よぅっ!」

そんなそんな、真心にどうして自分は応えきれない。こんなに全体が好調で、身体も羽根が付いているかのように軽いというのに、どうしてわざとではなくどうしようもなく皆の後塵を拝す。
それが、G1という優駿が集まる最高に過ぎる舞台であるがためという事実を、飲み込めずに少女はいやいやをした。

思い返すは、トレセン学園に来てから美味しいご飯ばかり出てきて嬉しいと書かれた便箋を受け取ったお母ちゃんからの返事。
そんな食べてたら太ったんじゃないかいという文句に、恐る恐る踏んだ体重計の数字はこれまでとさほど変わるものではなかった。
それは、でも当然なのだ。雛鳥のようにスペシャルウィークは――――という努めてばかりの子の後をついて回り、そしてトレーナーにストップを掛けられたところでその猛練習ぶりの真似をしていた。
そんなことを続けていたら、いくら食べても肥える暇などない。女の子としても競技者としても、それはありがたいことだ。
そんな小さな感謝も含めて、だからこそ彼女のためにこの絶好調は使うべきであると、スペシャルウィークも思う。

「でも……これくらいじゃ」

しかし、皆が内へ内へと進みたがる中、凸凹とした土を踏み続ける彼女は今ひとつ踏ん切りが付かない。
何せ、自分は、私は、スペシャルウィークは恋に似ているくらいに愛していて。そして、それをぶつけるのを躊躇してしまうくらいに生優しくて、弱い。

「こんなんじゃ……」

ふらりと、身体が誰かの蹄鉄から剥がれ舞い上がった土を避ける。それは、何時かに努めた得意だった。
ただ速いだけの、夢を見ているばかりの子供。そんな自分をスペシャルウィークは最近嫌いはじめていた。だが、その何が間違いかと言わんばかりに、――――は許す。
むしろ、彼女はスペシャルウィークの速さに心を認めて、そして望んでいるようだった。

「約束、したんだ」

そしてストレートを酷にする坂に及んで落ちてきた他ウマ娘達に手本を見せるかのようにピッチ走法を持って最後尾からスペシャルウィークは順位を上げる。
本気になって。彼女のそんな言葉に上手に云とは出来なかったけれども、しかしそれは確かな約束。
そのせいでこれまで錠前が付けられたかのように苦しかったのに、どうして今更になって心地いい。

ああ、だってその緊縛は――――という少女の、スペシャルウィークというウマ娘に対するこの上ない期待だったから。
勝って、当たり前じゃない。そんなことを教えてくれたあの子に望まれて、そして自分は今何をしている。
走っているなんて嘘だ。こんな足踏み、している場合か。

「このままじゃ私、――――ちゃんの、隣に立てないっ!」

叫び、そして世界は塗り替わる。
瞳に火を灯して、スペシャルウィークは爆発した。

 

―――――――――

「ここで、来るかぁっ」

セイウンスカイがその音を聞いたのは、偶然ではない。
それはむしろ当然だろう。何しろ、彼女はその高音を発している愛したい少女の後ろに必死になって付いていっている最中なのだから。
以前より数段整ったその音色。それが、あの子の果肉より魅力的なあの口元から発されているのは、果たして望ましいばかりなのだろうか。

いや、いくらそれが感動的な音だろうと、そんなことはあり得ない。
今までのすべてが休憩であったかのように1つ目のコーナー出口で加速した――――。去っていく栗毛に臍を噛みながら、セイウンスカイは逃すまいと足に更に力を込める。

「だろう、ねえ!」

最速を決めるという建前があるとはいえ、このペースはあまりに速いが過ぎた。こんなの、かかっているに決まっていると、観衆の誰もが確信するだろう。
なるほど、ウマソウルの暴走状態で、後半息を切らすものは後を絶たない。そんな数多の類例を見るまでもなく、――――の一歩一歩はあまりに全力。
そう、それはまるでこのまま消えていってしまっても良いと言わんばかりの、末期の痕跡を必死に付けているかのようで。

――――――――――

そんなまま、自分に見向きもせずに、いってしまう気か。一度も私に目もくれず、星のまま消えていくなんて、そんなこと。

「ああ、もうっ!」

思い切り、頭を振る。何時しか冠のように載っていた芝の一葉がそのために落ちていく。
セイウンスカイはだからこそこの自分のペースを狂わすウマ娘が好きで、苦手でもあった。
自分と違って心のままに生きて、何もないのに命を輝かして自分の眼前を駆けていく。そんな、考えなし。

自分はああなりたいけど、成れない。そんなこと、知っている。だって、あんなのとても賢くなくって、間違ってさえいた。
例えるなら、ばってん。でも、そのクロスに願いをかけて、星と信じたのは果たして誰か。

そんなバカをしてしまったウマ娘は、恋しいが故に――――に思い切り手を伸ばす。

「こんなところで、隠し玉出す羽目になるなんてねっ」

一つ目を瞑り、そして開く。それだけでスイッチは入った。そして、電源を入れれば明かりが煌々と瞬くのは最早運命。
最愛の輝きにも負けず、ロッドしならせ狙いを定める狩人たるセイウンスカイは、レース会場を独壇場とする。

「いくよっ!」

その一歩は逃走か。いや違う、まだまだこんなの先を行くのに急いでいるばかり。そして、――――という少女が悲鳴を上げながら行っている無様なんて以ての外。
もっと上手を得意を持っている、世界最高峰の実力を持って長い一歩を重ねて重ねて。それだけで、下手な一筆に正解続けて駆け抜けられる。

――――――――――――――――

「ここ!」

彼女はややカーブを苦手にしている。そしてそんな情報だけではなく、呼吸の癖、足運びのタイミング。そんなこんなまでセイウンスカイはまるっと識りきっていた。
そんな全ては今日この日のため。まるで夢想するかのように、リアリストである筈の彼女は――――と何時かこうして競い合うことを信じきっていたから。

だから、当たり前のようにセイウンスカイは己の入ったゾーンの集中を基に好機を見出し、そして並ぼうとして。

「捉え……え?」

――――――――――――――――――――――――――――♪

その音色の本質を聞いた。

 

「……好機ねっ!」

キングヘイローは現在好調とはいえない。
それこそ、ゾーンと呼ばれる超集中を発揮する程ではなかった。
だが、そんなくらいで彼女の優れた素質は軽々と負けを許すことはない。

威圧感、いや重力のようなあまりの熱量を出して誰彼の距離を詰めたセイウンスカイ。その速さになんとか追いすがり、――――の背後まで彼女はやってこれたのだ。
驚きに速度緩めたセイウンスカイと違い、泥も避けずに真っ直ぐ内を駆けながら赫々と瞳燃やすキングヘイローは、真剣そのもの。
それも当然だろうか。彼女は勝ちきれない泥の苦味を知っている。そして、何より未だ遠いあの子の温もりの大切さを誰より想っていた。

かけがえのない、友達。そんな彼女を王道に走るノイズだと揶揄したものも居た。それが悔しくって、貴女の負けだって負うとまで言ったのは、果たして過ちだったろうか。
勿論、キングヘイローはそんなことは思えない。だが。

「まさか、私がこうも必死に――さんの背を追いかけることになるなんて、ね……」

そう、どちらが果たして格上だったのだろう。素質だけなら、間違いなくキングヘイローに軍配が上がる。だが、それを知っていても尚、すべてを預けなかったこの子はやはり。

―――――♪

「強い!」

ウマソウルの加護の多寡を比べることなど何の意味があったのか。蹄鉄で踏み抜くその一歩はあまりに鋭く地を穿ち、そしてその口からは何より綺麗な歌が流れている。
それは果たして、凱歌か否か。何にせよ、そこに自分の哀の入る余地などないのだ。

――♪

「っ」

もう、憐れむものか。これは、王の膝すら付かせかねない、怪物そのもの。世界レコードを想起させるスピードで持って、更に加速しようとする、バケモノだ。
こんなの、追いつくのは並では不可能で、王ですらも難しく、愛すら寒々しいくらいに離れていてならば、どうやって。
分からない。でも、それでも止まれないから。

ああ、汗が邪魔だ、熱が邪魔だ、私も邪魔だ。そして何よりも。

「……ここで、来るのねっ!」

先からどんどんうるさくなる二対の足音が、嫌だった。
敵わない、叶わない。そんなこと、知りたくもなくて。でも、努めても手は空を空振るばかり。

「ああっ!」

王は、未だ成らずに。

「――――♪」

「っああああ!」
「うふふ」

迅風一閃。そして順位は入れ替わる。

 

グラスワンダーは、ぐちゃぐちゃだった。嬉しさばかりで、心は沸き立ってばかり。止まらない興奮は、或いはゾーンを引き出すタイミングを失しさせる可能性すらあった。
だが、現実として、この上なく良いタイミングで、彼女は全力を引き出し疾風と化す。
そして、それは予想外を引き連れて、怒涛となった。

「あああああっ!」
「うふふ」

そう、――――の元へ向かう同行相手は以前本気じゃないと指差して見下した、スペシャルウィーク。
今彼女は気炎を上げ、それこそ火の塊のような熱量を上げながら、疾走している。その速度といったらない。グラスワンダーがこれは自分と同じ域に至っていると理解できるのも当然だろう。

「ふふ」

だが、それを涼しい顔で制し、彼女は最後の直線をぐんぐんと進んでいく。
怪物二世。グラスワンダーがそう称されてからしばらく経つ。そう、鋒から彼女はどうしようもなく頭抜けていて、それが挫けることなく研鑽を重ねたのだ。
たとえ世代最強だろうがなんだろうが、この末脚には及ばない。それは、喜色に塗れたこの心地の中であろうとも、確信できた。

「あら」

だが少女はウマ娘の限界速度と言われる域を越えて、脚どころか全身に軋みを覚える。
素晴らしい駆動をしても、負担はどうしようもないもの。このまま駆け抜けることにすらに支障が出かねないくらいに、身体の緊張は度を越していた。

「えいっ♪」
「あ」

だが、それを識ったからこそ、むしろ更に奥のバケモノをグラスワンダーは引き出していく。五体バラバラになりそうな痛苦なんてなんのその、明日をすら焚べて、少女は駆ける。
その無茶苦茶さに、スペシャルウィークですら絶句をするのだった。

「そんな……」

もう無理で、死力を尽くして壊れそうになったその先を、このウマ娘は軽々踏破するのか。体感するのは絶望すら覚える程の、段違い。
何時かそこに届く可能性はあっても、今は無理。だが、更にその先を行っている――――という少女の無謀を思い残りスペシャルウィークは更に足に力を込めようとして。

「やっと捕まえました――――……あら?」

先にとうとう――――に並んだグラスワンダーは。

――♪

鈍い音とともに、少女の鎮魂歌を聞いた。

 

――――

明滅する。
黒は苦心の蠢きの末路か、白は純粋なる想いの爆発か。そんな深意すら、彼女は分からず羽織った。そして、駆けている。

――――――――

コースに響くは己に対するレクイエム。
少女は思う。ああ、確かあの子はこんなとても素敵な陽気の日に処分されて、その魂を持った私も春の頃に生まれた。ならば。

――――――――――――――――

私の終わりもこんな、春麗らで良い。

あと、一つ。

(何位になろうとどうなろうと、僕は最後まで――――、君を愛しているからね)

ああ、でも。いくら月がきれいでも、死んで良いものだったけ?

――――――――――――――――――――――――――――――――♪……

「――っ!」

終止記号は奇しくも、ゴール板の一歩前。

でも、彼女は届かないに、決まっていた。

勝利のために駆け抜ける大切な皆を前に、少女は何より綺麗な空を見ない。幾陣もの風が、少女の心までも撫で付け去っていく。

「ごめんね」

停まった――――は頭を下げて皆に謝る。
そう、苦痛を契機に少女は踏みとどまったのだ。寸前に壊れた彼女の足は、ガラスのように砕けきる前に安堵される。

此度の彼女の必死のその結果は、怪我にて競走中止というもの。
ただ一曲歌いきったばかりで、少女の勝利は蜃気楼のごとくに目の前でかき消えた。

「――!」
「トレーナー……」

だが歓声が困惑に変わる中、――――は駆け寄る彼を見つけて。

「――! いい、走りだった!」
「……あり、がとう」

そう返すや否や、疲労に倒れ伏すのだった。

 

これは夢である。草原楽しそうに駆ける、栗毛の一頭。輝かんばかりの全身を遊ばせ、生を性を謳歌して、跳ねて回る、そんな光景が少女の眼前に広がっていた。
だが、こんな飛べないサラブレッドである彼の楽しさも過去であり、今ではない。だって、この後に彼の命は人の手により終わらさせられ、消えていったのだから。
でも、それでも何時かの彼の生命の様を、何時までも――――は、愛したかったのだ。

優しき少女がその魂が描いた軌跡を、忘れ去られた一筆を、無意味としたい筈がない。だから、頑張って頑張って全てを使ってその名をあげようとしたのだけれども。
でも、そんな全てだって夢だったのかもしれない。そして夢幻は失われるのが然り。

そう。だって、私にはもう、何もないから。

ああ、いくら見回してもどうしようとも。もう、どこにもあの子は居ない。

 

「……うう、ん……」

少女は名もなきモブウマ娘。――――は、何にもなれなかった。もともと、何でもなかったから。

でも、彼女だって懸命だったから、なにも変えられない、なんていうことはなかったのだ。

「――ちゃん!」
「――!」
「――さん!」
「――っ」
「――ちゃん……」

眠りから起き抜けに次々に投げられるは涙と感情の籠もったその名を呼ぶ声。そんなもの価値を改めて知った彼女は。

「おはよう、皆」

笑顔で、挨拶。そこにもう、陰りなんてどこにもなく。

夢は消え、こうしてようやく――――という名の少女は、目を覚ませたのかもしれなかった。


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