「はっ!」
透過する、薄青に紅。朝霧に乗せた人魚の歌声響く中、霧の湖の畔にて、踊るものが一人。いや、それは舞にしては武骨であっただろうか。美しくも鋭い、それは演武となって霧を裂いていく。
優れた形の移り変わりはあまりに素早い。そこそこな長駆を伸縮させて、蹴打が描くは数多の図案。様々な敵手への囲いを、痛撃を彼女は演出する。
見に包む丈の長い中華服は、武の過渡を大いに彩り、はためきすら鋭く綺麗な音色となった。やがて、緑の流動は次第に速度を早めていく。
「やっ、ほっ!」
ギアは、一段、二段とどんどんと上がっていった。そして、出来上がるは曲芸を越えた、人の目に留まることすらない武威の疾風。
武人に、妖怪、果ては武神。想起される様々な仮想敵はしかし少女の空手に倒される。それが、彼女の拳が起こしてきた軌跡であることを誰が知るだろう。やがて、巧みは重なり続けて、次第に円と化していく。
「ふっ……はぁ。こんなところかしら」
そして緑の軌跡は空を切り裂き、地をえぐり、球の嵐となったところで、唐突に止んだ。何時の間にか落ちていた帽子を拾い上げて、彼女は零す。
「朝の運動、これでお終い! あはは。疲れたー」
そして、妖怪は空に輝くものに等しい笑顔を作る。闇より暗いはずの妖怪の心の底から湧き上がってくる、その歪みはしかし天然自然の何より美しい。
その美を大いに飾る髪の紅をなびかせ、女性は伸びをする。途端に現れる豊かな曲線は、幻想少女相手でも他の追随を許さない。数多の羨望と欲望を集めるだろうそれらに、武人たる彼女は、邪魔なものだと価値を見出さないのが困ったところ。
娘を自認する魔理沙が母のその身に宿る美麗を隠れて用意した数多の衣装にて輝かそうと画策するのも、自然なことだろう。
そんな娘の暗躍を知りもしない彼女は、青に変わっても変わらず空は美しい朝の霧中、人魚の次の一曲に聞き入るために、どっかりその場に座りだした。
「遊びに来たわよー!」
「お、お邪魔します……」
「いらっしゃい。チルノに大妖精ちゃん。昨日ぶりね」
そこに、やって来たのは、草色と氷色の二匹。美人の動と静の優しげな片一方しか知らぬ彼女等は、安心して女性に近づく。
そして、氷精チルノは大人しげな大妖精の隣で元気にこれからを楽しみにざわめいた。
「何して遊ぶー?」
「そうねえ……あ、止んじゃった」
途端に、風が一つ。帽子に手を当てながら、その一拍前に曲の終わりに止んだ歌声を、彼女は寂しがる。僅かな憂いに気づいた大妖精も、その影すら綺麗と思う。
「疲れたのかしら。まあ仕方ないわね。じゃあ、私達もわかさぎ姫のように歌いましょうか」
「いい考えね! ひょっとしたらこれは、大ちゃんの綺麗な声が世に知れ渡る、チャンスかしら!」
「え、私も歌うの? えっと……」
「ほら、恥ずかしがらずに。えっと、さっきの歌の始まりはうさぎおいしい、だったけ?」
「それは……」
「美鈴違うわ! 追いし、よ!」
「あははー……しっかり習得出来たと思ったのだけど、やっぱりちょっと日本語は不慣れね。練習あるのみ。三人で歌いましょうか!」
「えへん。あたい達が外から来た美鈴に日本語を教えてあげるわ! 大ちゃん、行くよー」
「う、うん」
しかしそんなつまらなさなんて直ぐに跳ね除け、霧の下で彼女は再び太陽になる。その満面の笑みの直ぐ側で、妖精たちも綻んだ。
中心にあるのは日向が一等似合う妖怪。そう、彼女は紅美鈴だった。
美鈴は次第に集まってくる妖精たちを、お歌にお散歩、鬼ごっこに隠れんぼ、そしておままごとにてあやす。
大人なら下らないと断じてしまいそうな、そんな子供の遊戯に楽しみを見つけて、妖精等の稚気を可愛がる。五行の綺麗に囲まれて、日輪の彼女はずっと幸せそうだった。
やがて食を忘れた彼女らがお昼を過ぎた時間になって、美鈴は遊びの片が付いた頃合いを見計らってから、妖精を纏めて自らの家へと連れて行く。
その、多少赤くはあれども館とはとても大げさ過ぎる、二部屋ばかりの小さな家にて、美鈴は奥から甘い香りが漂うものを取り出した。
そう、それは三時のおやつ。こんもりと大皿に盛られたお団子の山に、どうぞという言葉に応じてがっつき出し、手と口元を汚す妖精たちに、美鈴は笑いかける。
「美味しい?」
「はい、とっても!」
「やっぱり、美鈴の作ったお団子は最高ね!」
「団子屋のアルバイトで貰った米粉を捏ねてきな粉に砂糖をまぶしただけの簡単なものだけれど。まあ頑張って作ったし、それでこうも喜んでもらえると、嬉しいわ」
遊びの後、都度提供するため、それが目当ての妖精すら居るくらいに、美鈴の作った団子は人気がある。それはバイト先のお婆さん等から好意により頂いて、遊ばせている糧から出したもの。
自然の中ではあまり頂けないその甘味に、妖精たちは羽をぱたぱた大喜び。彼女らは大いに美鈴の隣で騒いだ。
そしてしばし時は経ち、これで散会となることを知っている妖精等のお礼を頂きながら、美鈴は撫でたり頬のおべんとうを拭ってあげたりして、笑顔で別れる。
「ほら、ほっぺを拭いてあげるから動かないで」
「わぷ」
「美味しかったー」
「ありがとう!」
「ごちそうさまー」
「お粗末さま。皆、気をつけて帰りなさいね」
多くが手を振り、妖精達は三々五々家から元気に出ていく。偶に転けることすら楽しんで、彼女らは自然に命を表現するのだ。
隣人に対する愛から、微笑みながらそんなおてんばな様子を美鈴は飽きるまで望んだ。そして、気づけば倒れた椅子やらで汚くなった室内に残ったのは二匹ばかりとなっていた。
朝一に見かけた草色と氷色。大皿に群がる彼女らを認めて、何をしているのだろうかと、美鈴は近寄った。
「あら、貴女達、残ってたの?」
「皆は、残ったきな粉を食べてかないのね。ぺろ。これがツウのやり方ってやつなのに!」
「チルノちゃん、意地汚いよ……」
「あはは。可愛らしいねえ」
薄く茶色い白皿に湿った指先をつん。そこに付いたきな粉をチルノは舐めて食んでいた。直接お皿を舐めたりしないのはお行儀がいいのか、仮にも女の子だからかどうかは分からない。
けれども、大妖精に白い目で見られているその行動は、どうにもユーモラスであった。
大いに笑ってから、その面白さの駄賃にと、美鈴は提案するのである。
「そんなに、気に入ったのなら、ちょっと残ったのがあるから、二人共、食べていく?」
「わあ、美鈴ったら太っ腹ねっ」
「チルノちゃん。女の人にあまりその褒め言葉は……あの。本当に、私達、頂いちゃっていいんですか?」
「あはは。気にしない気にしない。残り物には福がある。まあ、運が良かったと思いなさい。他の皆には内緒よ?」
「勿論! おかーさんとあたいと大ちゃんだけの秘密ね!」
「美鈴さんがお母さん、って……さっきやったおままごとの設定だよね?」
「そーよ。でも、本当に美鈴ったら、優しくって、私達のお母さんみたいね」
「そうだね……」
大妖精は、全会一致で母親役に推された時の、美鈴の今も変わらない柔らかな表情を思い出す。
構ってくれるだけで嬉しいのに、触れる手はどうにも心地良い。その優しさは母性に似ていて、彼女らはどうにも惹かれてしまうのだった。
永遠子供の妖精達。無軌道無責任な彼女らは、あまり好かれない。知恵のない馬鹿。程度の低いものとみなされ、無視されるのが殆どである。
それを、美鈴は隣り合うものと認めて、仲良くする。まるで、聖人のようにして。
ちっとも恐ろしげでないそんなおかしな妖怪は、皆の母呼ばわりに少し悩んだ。
「うーん。私はそんな年に見える?」
「いえ、綺麗でとってもお若いです!」
「ね。こんなに、美鈴はぴちぴちよっ」
「こら。手を叩かない。……あはは。まあ、良いかな。お母さんでも、必要とされるのは悪くないからね」
中身はともかく見た目は少女のつもりであるのに母呼ばわりされるのは、と思わなくもない。けれども、美鈴はそれも呑み込む。
チルノ達の気安さが、とても嬉しかったから。氷精にぺしぺしされてひんやりとしてしまった右手をさすりながら、美鈴はおかわりを出した。
中皿に月見をする際のように乗せられた団子に、甘い粉がかけられる様子を、二匹は目を輝かせて見つめる。
「大体十個くらいかな。どうぞ」
「わあい!」
「ありがとうございます!」
出された箸を不器用に使って、チルノに大妖精は、それぞれ団子を口に含む。美味しい美味しいと、喜ぶ彼女らを楽しそうに見る美鈴。
それはふわふわとした、幸せな時間。ずっと続けばいいと、誰もが思う。しかし、楽しみは永遠に続くものではない。
泡と弾けるように、それは一声で終わった。
「あや。お食事中でしたか。いやはや、きな粉団子とは、皆様随分と素朴な甘味を召し上がっていらっしゃるのですね」
「誰かしら?」
そんな団らんに、闖入する声。わざとらしいそれに、美鈴は眉根を寄せる。
家主の険を感じ、これまた大仰に闖入者は頭を下げる。だが、その頭襟外さぬ軽い礼に、美鈴は警戒を解くことが出来なかった。
「これは失礼しました。ですが、戸が開いていましたもので、その不用心がちょっと気になってしまいまして、こうしてお邪魔を」
「文!」
「射命丸さん……」
「チルノさんに、確か貴女は大妖精の一種でしたね。そして、お初にお目にかかります。私は烏天狗の記者、射命丸文と申します」
「ご丁寧に、どうも。私は紅美鈴。ただの妖怪よ」
記者、と聞き僅かに隔意が増す。しかし、それを表に出さずに、美鈴は軽く自己紹介。ただの妖怪という内容。それに、文の疑わしい視線が向く。
「ふうん。妖精に博麗の巫女が慕う、貴女がただの妖怪、ですか」
「ええ。ちょっと変わりのもの、というのは見て分かるでしょうけれど……っ!」
「――そして今、更に片鱗が分かりました」
言の最中に、動く風が二つ。妖精が瞳を瞬かせたその間に、二人の影は重なっていた。
死角を飛んだ天狗の流れ。そのあまりの速さ。目に映るはずのない疾風を、彼女は確かに受け止めていた。
そう、美鈴は文が放った探りの拳を、柔らかくも無効化していたのである。しかし、両者、その業に驚きはない。ただ、起こったことを理解したチルノが激するまで静寂が少し広がった。
「文! わぷっ」
「失礼に続きご無礼を。謝罪します」
「はぁ。言いながらも悪びれないのね。まあ、別に構わないわ」
「大丈夫ですか、美鈴さん……」
「平気よ。射命丸さんが、手加減してくれたからね」
こんな誰も怪我もしない程度の立ち会いを気にするほど美鈴の器は小さくはない。ぶつかり合い、しかし大きな険は起きなかった。
暴力に怒るチルノは文に撫でなだめられ、心配する大妖精は美鈴に撫であやされる。
やがて二匹がその手から感じる温度に蕩けた間に、その上で、言葉が飛んだ。
「やれ。最速の影すら踏む。なるほど人間が口にする、母は強しとはこういうことですか」
「多分、それは違うと思うけれど。それに、貴女本気ではないでしょう? 流石に空穿つ天狗の速さに並べるとは思えないわ」
「これは、ご謙遜を。本気でないのは同じこと。我々が天駆けるのならば、貴女は天に架かる橋。並ぶに苦労するのは、私の方でしょう。ねえ、八雲の虹、紅美鈴さん?」
「……あはは。この記者さんはどうにも耳が早いわねえ」
二人の間に、僅かに鋭い視線が通った。赤と青は、対したところでしかし小揺るぎもしない。
美鈴は知られすぎていることを気にし、文は未だ残る不明が気になる。だが、そのために広がった緊張は僅か。子供の前で、大人は何時までも本気ではいられないものだ。
「文、何言ってるの?」
「ん……」
「ぷ。可愛いものですねえ」
「本当に」
そう、なでなでが止まったことに顔を上げるチルノと大妖精によって再び空気は和んだ。
僅かに吹き出し、そうして再び氷精の頭を撫で擦ってから、文は本音を口にし出す。
「正直なところを言うと、今回は、記事にしたいがためというだけでなく、私的に気になったがために、少し調査に発奮したのですよ。ちょっとチルノさん、お耳を拝借」
「どうしたの、文? わ、何も聞こえなくなったぞー!」
「この子は、私のお気に入りでねえ。みだりに誘惑するのは、どんな相手かと気になっちゃったのよ」
「……それで、私は貴女のお眼鏡にかなった?」
「まあ、保護者としては、まずまずといったところかしら。それでは可愛い妹を頼むわね、美鈴お母さん!」
チルノの耳を塞いで勝手に本音を喋って、そして自由にも風は消えた。お母さん、という響きが美鈴の耳に強く残る。
騒々しい疾風が退き、後に残るは、静寂。それを大妖精は残念がって、言う。
「文さん、行っちゃった」
「何だったんだろ?」
「あはは。いい、お姉さんね」
唐突に失くなった温かさ。それを寂しく感じている様子のチルノを代わりに撫でてあげながら、朗らかに美鈴は笑った。
今回の文は、見知らぬ妖怪に懐くチルノを心配した彼女が確かめるために訪問したばかりのこと。なるほど情が絡めば調べも本気となるだろう。
色々と知られていたのはそういうことだと納得してから、美鈴は零す。
「まあ、あの子も中々よく調べたみたいだったけれど、八雲の虹、はちょっと見当はずれだったかな」
美鈴はそっと、窓から天を覗く。霧の最中で彼方の八雲は見えず、霧虹すらも映らない。
ただ、そこから自分に手を振る妖精を認めて、彼女は微笑み返すのだ。ああ、這いずる自分には空の彼方など、どうでもいいと考えながら。
「私はただの、紅だから」
そして思い出した過去に彼女は引っ掻かれ、その笑顔は少しだけ、崩れた。
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