第十三話 もしもの時は

美鈴おかーさん 美鈴おかーさん

人において分かりやすい証というものは、名前と立場であるだろう。
こと現世においては名刺にでかでかと書かれた名前と所属により、その人を信頼する場合も往々にしてあった。
しかし、幻想に捨てられた際全て忘却してしまった少女には何も存在せず、故にサクヤという名前に使用人という立場は仮のものであり他人からのお仕着せだ。本人はこれまでそれに諾と従っていたばかり。
もっとも、それが悪意どころか厚意によるものであるからには嫌うこともないという思いから少女も内心いただきものを認めてはいた。
だが、最近もう一つ呼ばれるようになった異名というか立場には、どうもサクヤは居心地の悪さを覚えている。影に下に、そうして目立たぬ有り様こそ自分の好みであるのにこれは、と。

「ああ、巫女見習いの嬢ちゃん。今日は御店からのお使いかい?」
「……はい。乾物に余りが出ましたので、皆様にお配りしているところです」
「おお、切り干し大根に、椎茸もあらあ! こりゃありがてえなあ。そして何より、巫女見習いの嬢ちゃんが来てくれたってのも縁起が良い。どうだい、一度おらの店を拝んじゃくれないかい?」
「えっと、その……すみません。あまり商売繁盛とか祈祷の方の才能は私にはないみたいで……」
「んー? なら嬢ちゃんは何が得意なんだい?」
「退魔、ですかね……」
「はははっ! そりゃあいい。今度狸にでも化かされた時にはおらも世話になるとするかあ!」
「はぁ……」

そう、サクヤは今や巫女見習いである。
縁から退魔の力を見いだされたことで博麗の巫女としての修行に忙しい昨今。
問屋の使用人ではなくただの店子としてお使いを任され、不要品を贔屓の客らに配り歩くなんていう行為は、くたびれた身体に鞭を打つようなものである。自然、応答も下手になりがちだ。
その上、そもそもこのように自分そのものの来訪が喜ばれることなんて、記憶をなくしたサクヤにとってはほとんど初めてのこと。つい照れてしまい、口ごもる場面も多かった。

「まあ、今の博麗の巫女さんとまでは行かなかったとしても、おらあ嬢ちゃんに期待してるよ! 何せうんとめんこくって賢い子だったからなあ」
「ええと……ありがとう、ございます」
「なんだ、こんなおっさんの褒め言葉なんかに照れてんのかー。初心だねぇ。まあ、御店にもどうかよろしく言っておいとくれよ。後は、番頭にゃあ今度いつものとこで呑もうぜってことも伝えといてくれりゃありがたいな」
「……はい。かしこまりました」

柔らかな銀を深く降ろし、子供と言うには少し大人しすぎる風にサクヤは桶屋の親父に頭を下げて畏まる。
その、勤めに頑張る背伸びに微笑んでから、親父は再び顔を上げた少女に向けておもむろに懐から取り出した財布から幾らか銅貨を握り、差し出すのだった。
差し向けられたこぶし。それが何を意味するか分からず、サクヤは首を傾げた。

「ええと?」
「ほれ。こりゃおっさんからの駄賃だ。下に両手を出し、受けとんな」
「そんな、悪いですよ……」
「はは! こりゃ、良くできすぎた子だ! いや、普通子供はこういうのを喜んでいいもんだぜ? いいから受け取っときな」
「あ……ありがとうございます」

無理に手の上にじゃらじゃらと乗せられた銭。勿論その額は大したものではないが、全てを用いれば甘味の一つ二ついただける分には成るだろう。
そんなのあぶく銭だと桶屋は思うが、しかし、子供のサクヤには多めの駄賃。
とりあえずはと精一杯に頭を下げてから、さてこれをどうしようかと彼女は思うのだった。
桶屋の主人は、日に焼けた顔に皺深く、少女に言う。

「それで友達と団子でも一緒に食えば良いさ。それじゃ、おいらは仕事が残っているからここでな。お前さんは気をつけて帰りな」
「はい。重ね重ねどうもありがとうございました」

再び下がった銀髪乗っけた頭の向こうで、がらりと長屋の扉が閉じる音。
ゆっくりと顔を上げたサクヤは、桶屋の友達と一緒に、という言葉に少し考え込む。
最近それらしき人間は増えたが、しかしそれは里の外の人外の割合が随分と大きい。それら魑魅魍魎をわざわざ連れ込んで、里で呑気なんて出来やしないだろう。すると、選ぶのはここらの人に限られる。

使いは桶屋で最後。すっかり両手は空になった。
ならばもう自由にして良いだろうとサクヤは目抜き通りを目的として里を歩み出す。
目的は、大店である、霧雨店。彼女はそこの一人娘であるところの魔理沙と共に。

「あの人の作るお団子をいただきましょうか」

目指すは、紅いあの人が作っているだろう素朴な甘味。それを頬張り、団子屋の軒先で友達と仲良く過ごす、そんな小さな希望を思ってサクヤは微笑むのだった。

あの日、サクヤは縋った紅美鈴に助けられた。それは間違いない。
しかし、実は彼女を救えたのは美鈴が可愛がっている吸血鬼であるところのレミリア・スカーレットの力によるところが大きかった。

美鈴はあの日、そのまま気を失った少女のために、血の専門家でもあるレミリアに診せるためにと買った酒も忘れて霧の湖に建った我が家に戻る。
そして、寝台に寝かせたサクヤの額から胸元まで指先を這わせ、それで事態の全てを識ったレミリアは語った。なるほどこれも運命か、と。
曰く、少女の中には人の魔に対する恨み辛みが凝っている。それこそ、少女のあり方を変えてしまうくらいにそれは強力なものであったそうだ。

美鈴は問う。どうにかならないか、と。レミリアは返した。どうにでもなるわ、と。

伯父さんの恨み辛みを啜ったレミリアはその呪いを力にし、そしてサクヤが魔を見る目はずっと優しくなった。あなたが辛くなくなって良かったと、涙目で美鈴は笑む。
そして、そんなこんなを、隣で見定めていた博麗の巫女――博麗霊夢――はサクヤに一つ問った。
ねえ、貴女巫女になるつもりはないかしら、と。

サクヤがその問いに頷いたのは、数日の後、家族としている問屋の皆と充分に話し合ってからのことだった。

「はぁ、はぁ……」
「ふぅん。まあまあ、及第点ってところかしら」
「……そう」

博麗神社境内の林にてサクヤが行っていたのは、符を浮かせて空を往く鏃とする、そんな博麗の巫女の基本。
目標である木の皮を霊力にて弾いて裸にしたその力は霊夢から観ても及第点。そう、初心者にしてはまずまずといったところだった。
霊夢ならば符術を用いずとも指先ほどに集めた霊力で木を真っ二つにへし折れるだろう。面倒なので、決して手本でだってそんなこと彼女が行いはしないが。

「はぁ」

幾つ投じても、及第点かそれ以下。褒めているようで、あるがままを伝える同い年の少女。あまりに飄々とした先達を、好きになるのは中々難しかった。
思わず、少女はため息を吐く。墨色の髪に脇を暴露した独特の巫女装束に身を包んだ美少女をサクヤは横目に見る。
自分が子供らしくないとしたら、きっとこの子はもう子供ではない。そう、サクヤは思うのだった。
背伸びしている訳でもなく、既に強くて逸している。気に食わない、とまでは感じないが、いやむしろ。
それは寂しいことではと思うのは、自分だけだろうかともサクヤは考える。

「……ったく、あんたも甘いわね」
「甘い?」

しかし、そんな同情の視線を無表情のまま一言で断ち切り、霊夢は続けた。からりと、湿り気薄く少女は断じる。

「柔らかく触ってばかりじゃこの世の中やってけないわ。万象鋭く断つことだって時には要るものよ? そして私はそっちの方に慣れている」
「それは……」
「そもそも、人の心配してる余裕なんて、あんたにはないはずよ? あんた、私相手に一本取りたいんでしょ?」
「そうね……」

貴女を相手にだって勝ちたい。そんな無茶な啖呵を先日言った覚えを今更になってサクヤは恥じ入る。
博麗霊夢はここ幻想郷の中心であり、そして境界を前に【私では】あんたを外の世界に返してやれない、と断じた人物だ。
ならこれに勝るようでなければ自分は元の世界に戻れないのだろうと考え、発奮して巫女修行に挑んだ結果が、基礎修行にすら息を荒らす現在である。
サクヤは、霊夢が暇なとき認めたのだという束ほどある貰った御札の一枚ぺらぺらとさせながら、自分の才覚の足りなさに悩む。

「それにしても、どうやれば霊力を上手く移動できるのかしら……」
「なに、そんなの悩んでたの?」
「まあ……」
「そんなの簡単よ。んー……ちょっと手を貸しなさい!」
「あっ……」

柔くも温かな手のひらが、少し冷えたサクヤの手を包む。気づけば間近に、細長いまつげの一本一本が映る。
可憐である、博麗霊夢。しかし、自分の価値などどうでもいいとしてしまう彼女は、だからこそまるで自然美の極致のように感動的で触れがたい存在で。
そんなものが、自分に遠慮なく触れて、にぎにぎとしている。その事実に、サクヤはぼっと顔を紅くさせた。

「んー? 何顔赤くしてんのよ。あんた、恥ずかしがり屋ってやつ?」
「そういうのとは、違うけど……」
「はっきりしないわね……まあいいわ。取り敢えず、今から私があんたに霊力を伝えて、それを動かすから、一度でしっかり覚えるのよ!」
「わ」

そうして、始まるは瀑布に全体包まれたような、段違いに接触した感覚。とんでもないものが少しだけ、自分に触れた。
温かなその一部が身体を通じ、やがて手のひらの先一枚の紙に充満し、そして。

「凄い……」

完全に符として意味を得た御札は当たり前のように輝き出す。それは、先にサクヤが頑張って込めた力とは段違い。
奇跡に近いほどの意味を持ったそれはしゅると自ずから博麗の意思を持って空を舞い、やがて。

「きれい……」
「ま、こんなもんね」

光り輝いたまま弾け、散華することで一つの空を輝かす力の花となって消えていく。
きっと、その威力は絶大。生半可な妖怪変化で耐えきれるようなものではないだろう。そして、何よりその散り様は実に美しかった。打ち上げ花火ですら足りない、自然な壊れ。
だが、とサクヤは慄きを持って満足そうに離れる隣の少女を見る。自分と違う、黒色を持って光飲み込む綺麗な霊夢という女の子を。
少女にとってこんな大業ですら力の切っ先。本気では完全にない、お遊びの手本。師匠とした超えるべき存在の、そんな凄まじさを見てサクヤは流石に気を消沈させてしまう。
勿論、間抜けではなく鋭い才覚を持っているサクヤは、今のやり取りで霊力をどのように移動させるかは理解できた。だが、それだけ。真似をするのにはそもそもどれだけ自分の霊力を高めれば良いのかすら分からない。
途方に暮れ、正直に、サクヤは思ったことを呟く。

「ねえ、霊夢。どうして貴女は私を巫女にしようと思ったの?」
「んー? そんなの簡単よ」

サクヤという少女には、巫女の才能はたっぷりとある。きっとこのまま頑張り続ければ持ち前の異能を抜きにしても、並の妖怪では束になっても敵わない力を得るだろう。
だが、その程度では勿論、楽園の巫女を体現している霊夢には及びもつかない。神童なんて、愚かしい。そもそもからしてあるべくして存在する巫女である。
しかし、そんなハクレイのミコとて少女でもあるからには、恐れるものだってあった。その一つの解決のために、霊夢はサクヤという少女を側に置こうと考えついたのである。

「――――あんたなら、私が出来なくなったとしても、きっと美鈴を殺すことが出来るから」
「は?」

それは、己に芽生えた情一つ。愛を感じて、それを受け取ってしまった不安。
当然至極に生きとし生けるものは愛されてよく、しかし、それを博麗霊夢だけは抱いてしまっては良くはなかったのに。それでも、燃え盛るものがどうしたって、あった。

ああ、好きである。ひっかきたくなるくらいに、あれが大事だ。私は自分の職務なんかより、きっとあの一途な紅を優先させてしまうだろう。

でも、もしあれが間違えてしまった時、その場合は誰が責任を取る。まるで親のようなあれとて万物の一部であるから当たり前のように間違えるぞ。もしそんな際に自分が動けなかったとしたら。
そんな不安の中、霊夢はサクヤの銀の中に、無慈悲なものを見つける。だから。

「もしもの時は、頼んだわよ?」

本音を持ってそんなことを言って、今日の修行は終わりと去っていく。頭頂の大きなリボンばかりが子供っぽい紅白の背中が遠ざかっていく、そんな様子をずっとぼうと眺めたサクヤは。

「私には、無理よ……」

それだけを、零す。
既に呪いは解けた。少女の中で幻想は壊すべきものではない。そんな想いばかりが先行している自分なんかがどうやって。

まるで人の子の親のようなあの人を殺せるというのか。私は意思のないギロチンなんかではないというのに。笑ってしまう。

「ふふ」

ああ。独りぼっちの今、土の匂いばかりを覚える。風に迷いを感じず、そして日差しの柔らかさなんてこの上ない贅沢で。そんな中。

「ふふふふふふふ」

銀の、月に祝福されしサクヤはどうしたところで幻想の中に違和感を覚えてしまい、思わずそう痒感に背中を引っ掻いて、自らを抱く。
ルナティック。狂気の前に、愛と殺意は一枚のカードの表裏。笑う少女の心の振り子は、どうしたって愛にばかり定まらずに。

ふと青い瞳を閉ざしたサクヤは、次に紅い瞳を開く。

「そうね。でももし、あの人が幻想を否定したその時は……」

少女の呪いは解けて、めでたし、めでたし。ならば、物語の続きの少女の狂いは果たして。

「――――私が目覚めさせてあげなくちゃいけないかもしれないわね」

それは、少女の願いであり、一度心ひとつにしたことの弊害。私を裏切って生かしはない、そんな想いはサクヤの心の心鉄に癒着していた。

「あ、サクヤちゃん。霊夢から聞いたんだけど修行はもう終ったの?」
「ええ。もう終わったの。美鈴はどうしてここに?」
「魔理沙ちゃんとちょっと外でトレーニングしてたのよ。そのついでに、様子を見にね。修行は、順調?」
「勿論。むしろ私は魔理沙がどれだけ頑張れたかが気になるわね」
「あはは……そうねー。途中から私もおんぶをせがまれちゃって……」

けれども少女は瞳をぱちくり、赤を青に戻して、そんな気持ちに知らん顔。
大好きな親代わりにインプリンティングされた愛を持って接することを楽しみに、サクヤは。

「あはは」
「ふふ」

明後日がどうかは分からずとも、きっと、友が望んだ幻想の地にて明日も笑顔で過ごすのだろう。


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