第二話 代わりじゃないよ

美鈴おかーさん 美鈴おかーさん

蒼穹に立ち昇った、残滓の煙、白一筋。神社の境内から振り返り見たその景色ばかりが記憶に残る。
博麗霊夢はその日、人里にて行われた盛大な葬礼に、深く感じることはなかった。
可哀想に、頑張るんだよ、上から投げつけられるそんな言葉を下から聞いて、ただ頷いていたことばかり、よく覚えている。
自分は特別。それに、自活できる水準の家事に並大抵の妖怪と互角以上に対せる退魔の技術。あの人から教わったものは今も確かに生きている。だから、これからもずっと、大丈夫なのだと霊夢は思っていた。

「ねえ、お母さん……あ」

だがしかし、神社に独り、用達を頼もうと振り向いた時に誰も居なかった時、その際に彼女の瞳は勝手に透明な滴を零す。ああ、先代の巫女は、お母さんはもう居ないのだと、やっと理解して。
涙は滂沱にならずに、しとしと溢れて、霊夢の心を濡らす。

「私は、あの人のことが、好きだったのね……」

貴女は浮世離れしている、とは誰の評だったか。そんなことはない。現し世の生き死にで、一喜一憂する、私はただの人間で。
ああきっと、今涙を拭ってぐっと我慢しても、誰も偉いと言ってくれない。だから、静かに泣き続けながら、霊夢は呟くのだ。

「寂しいな」

それは、少女の本心だった。

 

霊夢と先代巫女に、血の繋がりはない。親子関係だったが、拾い子とその保護者が結んだ殆ど形式上のもの。霊夢は幼子であったが、年上であった先代ですら若者の範疇といえた。
故に、二人の仲は、親子と言っても少し優々したもの。険が起きるようなことは少なかった。それはまるで、静かな姉と、手のかからない妹の穏やかな交流。
心の繋がりは確かにあれども、少し特殊な家族の形だった、とはいえた。

「でも、私達だって、こんなにおかしくはなかったわよ……」
「あはは。ごめんね。魔理沙ちゃんが付いていくって聞かなかったから」
「うー……」

赤髪美人の妖怪の胸元にて、金髪の子供が赤子の如くに縋り付く。相談、として霧雨店の店主直々に認めた紹介の書状を持ってやって来た、曰く紅美鈴は、先からずっとそんな様子だった。
その相談内容も聞くに、面妖なものである。美鈴という幼い霊夢では計り知れない力を秘めた大妖は、困ったように話した。

曰く、一度助けてから送り届け、人里の実情を察した美鈴が去ろうとした際に、魔理沙という子供が妖怪の自分を母と呼んで帰らないでとぐずり、そして霧雨の旦那もまた娘の命の恩人に恩返しをする前に放逐するというのは駄目だと言い出したのだそうだ。
その後は、主に娘の無事に対する旦那の大喜びから端を発した大店の前で起きた泊める泊めないの騒動に、通りすがった人里の重鎮も混じって喧々囂々。
美鈴を他所に、結局今日一日は仕方ないが、どうあろうと人里によく分からない妖怪を長期滞在させるというのは頂けないということになったのである。
そして、ならば彼女の良し悪しを巫女に占ってもらおうと渋る霧雨の主人が言いだしたのも、人情を考えると仕方なかったのかもしれない。

「はぁ」

仔細、分かった。分かったが、実に面倒である。
結論としては、認められないの一言に尽きる。そもそも、博麗の巫女が妖怪は人間の敵という幻想郷の構図を守るために陰ながら働いている、ということは裏にて知られたこと。
美鈴が外の世界からやって来た妖怪で、幻想郷の事情を知らなかったという情状酌量の余地があるために、問答無用で処断することはないが、それでも彼女という妖怪が善かろうが悪かろうが人と並び立つことは認められない。
それを理解していて、重鎮等も相談の許可を取ったのだろう。

だが、霧雨店は、大店。正直なところ今回のことで、人里で買い物をするのによく周るひいきの店の主人に嫌われるというのは面白くない。
だから、霊夢はどうにか霧雨の娘とやらに自主的に諦めてもらい穏便に事を治めることは出来ないか、と思いじろりと魔理沙を見つめる。しかし、じとりと見つめる少女のその幼さに、彼女は思わず揶揄してしまった。

「何。よく見たらこの子、私と大して年変わらなそうじゃない。随分と乳離れが遅いのね。せめて、自分の足で立ちなさい」
「やだ。巫女様がいいって言うまで、私、美鈴おかーさんから離れないから!」
「巫女様の裁定次第では離れなければいけないって、霧雨のお父さんが言ってからもう、頑なに私から離れようとしないのよ……ちょっと、このままでごめんなさいね」
「仕方がないわね……」

どうにもやり辛い。それは、感覚を無視すれば、たちどころにただの親子に見えてしまうから。それほど、紅美鈴とやらには、妖怪の常である自己を誇る感がない。
霊夢は、やけに働く自分の直感からも、優しさが嘘ではないと思う。なるほど霧雨の主人の目利きは正しい。真に珍しい、人に優しい妖怪ということなのだろう。
だが、それでも、紅美鈴は妖怪なのだ。だから、確信を持って、聞く。

「妖怪に良いも悪いもないのだけれど……一応訊いておくわ。貴女、人間と妖怪二人が困っていたら、どっちを助ける?」
「それは、相手次第だけれど……まあ、両方助けようとしちゃうかな」
「そ。なら、あんたは、人間の敵だ」
「み、巫女様?」

博麗霊夢はお祓い棒を向ける。途端、一瞬高まった美鈴の気配から、大凡敵う相手ではないと薄々察しながらも、迷いなく。
そう、霊夢にとって、妖怪のその性が善だろうが、関係ない。どっちつかず。頑として人の側に立つ、そういうことはないと、美鈴は言った。ならば、彼女は妖怪側で、問答無用で退治すべき相手ということだ。
幻想郷の維持には、妖怪が人を襲い、人が妖怪を恐れることが必要。霊夢はそう聞いて、理解し、信じている。
もう、同い年の子が不相応にも発した鬼気に怯える魔理沙の姿にも、哀れなものを見たような顔をする美鈴ですら、こうなった霊夢の心に漣を立てることはない。
霊夢はルールに則り、断言する。そして、赤い御札を懐からさっと取り出した。

「私は、完全に人間側ではない妖怪が人里で暮らすことを認めない。それに従わないというのなら……今直ぐにでも、退治してあげてもいいのよ?」
「そんな! 巫女さ……こんなのに様なんて付けらんないや。霊夢! お母さんに御札を向けるなんて、酷いよ!」
「魔理沙って言ったっけ。人の子のあんたには関係ないわ。しっし」

憤る魔理沙の渾身のぐるぐるパンチは、手のひらばかりであしらわれる。彼女は遠くで払われ、近くでは軽く押し返された。
指先で額をとんと突かれただけで、尻もちをついた魔理沙は、涙ぐみながらも、美鈴があやすその手に縋り付きながら尚言い募る。

「関係あるわ。私のおかーさんだもの!」
「それは、あなたの思い違い。こんなの人間と妖怪の、とんだおままごとよ」
「あはは……中々辛辣な子ねえ」
「むぅ。おかーさんも、笑っていないで、怒ってよ!」
「流石に、こんな可愛らしい子供の言葉にカッカするなんて、大人げなくてねえ……」
「ふぅん……」

魔理沙の小さな手に引っ張られてそそのかされながらも、微笑み崩さない美鈴を見て、霊夢は目を細める。
格下に啖呵を切られたところで、小揺るぎもしない。それは確かに大人であるのだろう。霊夢的にはナメられているかのようでムカつくが。

「おかーさんも、霊夢も、知らない!」

そして、反するように魔理沙は子供。思い通りにならないことに、苛立って爆発するのは当たり前。
激怒し、金色の重い頭をふらふらと、転ばないのが不思議な不安定さを持ってして、魔理沙は二人から逃げるようによちよち駆けていく。
そんな様子を絶対零度の視線で見つめる霊夢と違って、生暖かい目で見る美鈴。しかし、その姿が鳥居の向こうに消えていったことに、彼女は少し慌てだした。

「ああ、魔理沙ちゃん鳥居の向こうに行っちゃった。ここいらには弱小妖怪避けの結界が多少あるみたいだけれど、一人で石段下るってのはちょっと危ないかな」
「ちょっと目を離すくらいは大丈夫でしょ。……それで、魔理沙は分からず屋だったけれど、貴女は理解してくれるの?」
「ええ。私が人里に住むことが出来ないということは、分かったわ。ただ……」

中途にて黙る、美鈴。続きを言い難いのだろう。苦渋を呑み込まんとしている様子だった。子供相手に愚図ることは、したくない。まるで、そんな気持ちが顔に書いてあるようだ。
きっと、自分を慕ってくれる魔理沙と別れたくはないのだろう。なんとなく、霊夢も偽物とはいえ仮にも親子の仲を引き裂くというのは気が引けた。思い出すは、あの日の寂しさ、涙の冷たさ。
だから、彼女はついつい言葉を紡いでしまったのだった。

「……ままごとを止める権限までは、私にないわ。隠れて会うなりなんなりは、好きになさい」

それは、博麗霊夢にしては、あまりに甘い言の葉。しまったと思うが、時間は戻らず、吐いた言葉も返って来ない。
代わりに、目の前で輝いたのは、太陽のような笑顔。美鈴は大輪を咲かせてから、思わずたじろぐ霊夢に向けて頭を下げた。

「ありがとう! それじゃあ、霊夢ちゃん、また来るねっ」
「あ……」

そして、本当に好んでいてだから心配なのだろう、脱兎、いや風の如くに美鈴は手をふりふり魔理沙を追いかけるために走っていく。
その勢いにつられて手を上げてしまったことに赤面してから、霊夢は思い出したかのように呟いた。

「あいつ、また来るの?」

そんな疑問に対して、答えは翌日に訪れる。
どこで調理したのか手製の中華饅頭を携えやって来た美鈴に霊夢は、彼女が、妖怪が博麗の巫女の前に現れることの意味を判っていなかったことに、頭を抱えるのだった。
ただ、一緒に食べたほかほかのご飯はちょっと、美味しかったかもしれない。

 

それから。三日と置かずに、都度手土産を持って美鈴は博麗神社を訪れるようになった。
半ば無視する霊夢に、美鈴はぺらぺらと饒舌に外の世界のことや、その日あったことを喋る。最初は聞いていなかった彼女も意外に面白いその内容に、雑務の手を止め聞き入ることも多くなっていく。
その内に、人里にて外から農業を手伝いと子供をあやしにやって来る美人妖怪の噂を聞くようになり、次第に霊夢は、一々私の立場を考えろという文句をいうことも諦めるようになった。
何せ、紅美鈴という妖怪は存外暢気なのだ。小言を笑って受け容れ、痛罵ですら粛々と呑み込んで、全てを次には忘れている。
なら、痛めつけて思い知らせてあげればいいかとも思うが、美鈴は格上の存在。敵わない喧嘩をする趣味もないし、面倒くさがりの霊夢は後で問題になったら片付ければいいと思うようになった。

「それにしても、よくもまあ、退魔の人間の前でこんな寝姿を晒せるものねえ……」
「ぐう」

そして今、美鈴はシエスタ、とかぬかして、神社の境内で昼寝をしている。美人が大口を開けて眠りこけているのは、どこか間抜けだ。とっとと、自分の家に帰って布団に入ればいいのに、それでも彼女は霊夢の前で安心している。
そう、美鈴は最近、少し前に霧の湖の畔に、やっと掘っ立て小屋を建立出来たと、喜んでいた。霧雨のお父さんから頂いた赤い塗料で屋根を綺麗に塗った、私の家はちょっとしたものよ、と語っていたというのに。
でも、一人はつまらないと出歩いて、美鈴は人や妖怪、妖精とすら遊ぶのだった。

「変わった妖怪よね」

美鈴は今も幻想郷に根付き、どんどんと馴染んでいる。幻想郷のルールから少し外れた様子であるが、その速度は驚くほど。
優しく、懐深い。どこでも少しだけ浮いてしまう冷たい自分とは違う存在だな、と霊夢は感じていた。
霧雨店で買い物する度に、喧嘩腰で現れて負けないぞと敵愾心を燃やす魔理沙の、その執着も霊夢には分からなくはない。
たった今、つうとヨダレを口の端から垂らしたこの妖怪は、稀有なほど、子に愛を向けてくるから。その母性は親なしには、どうにも眩しいものだろう。

どうして、こんなつまらない私のところにやって来るのか、霊夢は美鈴に聞いてみたことがある。それに対しての返答は、寂しそうだったからの一言。
たったそれだけの言葉に、霊夢は酷く喉を詰らせられたことをよく覚えている。

「美鈴」
「ぐう……ん?」
「これから戯言を呟くわ。また寝てしまっても、構わない」

妖怪退治用の御札を認めるその手を止めて一歩近づき、紅い彼女の髪をひと撫でしてから、霊夢は目を瞑る。
これは、感傷。語るべきではないと冷静に考える自分が何処かにある。しかし、判っていても、一線を守らんとしようとする自衛の言葉は止まってくれなかった。

「私は先代……母を愛している」
「うん」
「こればかりは、貴女が代わりになれるようなものじゃないのよ」
「そっか」

きっと、美鈴は自分の母親代わりをしようとしてくれている。それは、分かるのだ。でも、魔理沙と違って、自分には確かに記憶に残る母が居た。
だから、それを捨てて身近の温もりに縋り付くなんてしたくない。何しろ、あんなにも好きだったのだ。皆が忘れようとも私だけは、それを失くしたくないと、霊夢は思う。
だが、起き上がって、黒く翳った少女の瞳に青い目を合わせてから、美鈴は話す。

「代わりじゃないよ。別に、とって代わろうって訳じゃないんだ。でも……新たにもう一人、貴女を支えてくれる人が増えるっていうの悪くないんじゃないかな?」

聞き、霊夢の眼はぱっと大きく開かれた。それは、悪魔の甘言とすら疑えるような優しすぎる言葉。
この青は嘘ではないか。しかし、彼女の真剣を、巫女の勘が裏付けてしまう。だから、この無償のような奉仕に、霊夢は疑問を覚えざるを得なかった。

「どうして……」
「心配なのさ。それに、いい子は幸せになって欲しくて。ただ、それだけ」

霊夢に向けられる美鈴の笑顔は、何時だって満面である。それは、曇りなき好意から。
大いなるものが、近づけば震えてしまうほどに小さいものを、愛することだってあっていい。そう、美鈴は思う。
彼らは愚かなものか、懸命なだけだ。そう考えてしまう美鈴はきっと変わっていて、でもだからこそ嬉しいものであった。

霊夢は、生まれて初めて妖怪を信じたいと、思う。

「……貴女は、私より先に居なくならないわよね?」
「勿論」
「なら、ちょっとあっち向いて」

美鈴は指示を受けて、何の疑いもなく退魔の子供に背中を向けた。
途端、そこにかかるは小さな重み。温く柔らかでどこか頼りないそれが何か、美鈴はよく知っている。

「少しだけ、寄っかからせて」

霊夢は、そう言い、目を瞑る。温もりに、安堵を覚えて。

「いい天気ね」

紅葉ひらり。頭に乗ったそれを無視して空を見る。そして青空に覗ける博麗大結界を檻と空目しながら、しかし美鈴は動かない。

「……お母さん」

呟きと涙は大きな背中に呑まれていく。二人の影は一つのまま、暗くなるまで変わらなかった。


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