第四話 後悔

ハナコ 口が裂けてもいえないことば

「はぁ……今日も、僕は僕だな……」

そんな言葉は吐息とともに、眼前の鏡を曇らせた。鏡面に映ったくせ毛の少年は、ま白い顔を憂いに染めたままに己を見つめている。
過去と今が本当に繋がっているのか、そう不安になるときが|明津《あかつ》|清太《せいた》という青年にはあった。
いちたすいちは、に。それは本当なのだろうか。蓄積される自分が本当に自分である証は。ともすれば昨日までの世界はさっき作り出されたばかりで、自分は記録ごとこの世に継ぎ足された歪ではないのか。
そんな懊悩を、清太はばしゃりと多分の水気でごまかすのだった。

「んなの、高校生にもなって、悩むことかよ……」

水で叩きつけるように顔を洗った清太は、洗面台の前で自嘲を零す。ぽたりぽたりと顎から落ちる滴に、当然のように色はない。そして、青年の中に巣食った気持ち悪さにもまた、答えはなかった。

とはいえ、世界五分前仮説なんて大層なものを持ち出すまでもなく、彼は彼で、それでいい。最低でも、昨日の明津清太と今日の明津清太は、間違いなく同一だ。
しかしそんな事実があろうが自分を十分に認められない、そんな故が清太にはあるのだった。

「明日は速く、なってるといいな」

一人ぼっちの声色は重く、儚い。清太は自らの足を見る。筋肉が寄って太く実ったそれが地を駆ける、その遅さを心より恥じながら。

 

「は、は」
足が速い。それは少年少女の自信に繋がる程度のもの。
誰よりも、という枕詞が付いてくれれば大いに憧憬を浴びる結果にまで繋がるだろうが、中々そうはいかない。
多くが競って、やがて一握り以外は現実を弁えて一番を諦めていく。自信は折れて、大人しさを身につける、そんな当然が世の中には蔓延っている。

「くそっ」

しかし、清太は同じ部の仲間たちがゴール前で自分の横を楽々すり抜けていく、そんな現実にだって悔しさを禁じえない。

過ぎゆく、背中。届かない手。ああ、こんなのは嫌だというのに。

それでも疲れにろくに動いてくれない太ももは上がらず、そうして最後の直線に至る前にすっかりペースを落とした清太は、当たり前のように部の男子陸上中距離メンバーの中で最下位となるのだった。

「はぁ、はぁ……」

四百メートルの距離にて全力出し尽くして疲れる身体。脳の奥まで痺れたような心地に、ただ呼吸音ばかりがうるさい。
へたり込みそうになるその身を動かし、しかし一歩。タイムを測ってくれているはずの後輩へ清太は向かう。
すると、染まらない彼と違って存分に日に焼けた新入生、杉林健人は呆れたような顔をして寄ってくるのだった。

「アカツ先輩、一分八秒六、っす。まーたタイム同じっすね」
「はぁ……そうか」

息を飲み込むことすら、難儀だ。清太にとってはあまりに遅い、まるで嘘を吐かれているかのように現実感のない記録を聞かされて、不甲斐ない己に対する怒りは高まるばかり。
何時もの通り落ち込んでいるふりをするのすら、難しかった。
本当に、この程度が自分なのだろうか。清太はそう、思わざるを得ない。誰の後ろ姿も見えない位置が当たり前じゃないのか。認められない、認めたくない。
彼がそんな負けん気を通り越した執念に飲まれそうになった時、おどけた様子で後輩は言うのだった。

「記録走とはいえやっぱ先輩端から飛ばしすぎっすよ。アレじゃバテて当たり前じゃないっすか」
「でも、もし保ったとしたら……」
「そりゃ最強っすけどねぇ。実際問題無理だってのに、アカツ先輩ったら懲りないっすね」
「まあ、僕だってペース配分が課題だってことくらいは、分かってるさ。大会ではちゃんとする」
「はぁ。今日も明日も指示ガン無視っすか。あんだけミーティングでせんせーに叱られてて、よくやれるっていうか……」

最後にタイムを聞きに来た先輩にお決まりの文句を言う後輩を尻目に、清太は疲れに震える足を睨みつけるように見る。

遅い。これはまるで嘘のようだ。こんなもの切り離したい、とすら思う。

最初は期待されてクラブチームで短距離の一着をほしいままにして、そして中学校に上がって一度怪我をしてから清太のその成績に陰りが出るようになった。
当たり前の一番はどんどんと遠ざかって、彼方に。最後の望みだった身体の成長も停まってしまえばただ抜かれていくばかり。
そして何時か、彼は短距離で勝つのは無理だと指導者にみなされて、中距離を専門とするようになったのだった。

「こんなはずじゃ、なかったのにな」

誰にも聞かれないように、清太はつぶやく。そして、誰より速かったはずの彼の心ばかりがここに取り残された。
今や少年に最速を保つことは不可能と言っていい中距離だろうが最初から全力を繰り返すばかりの清太は、周囲にとって体の良いペースメーカー。馬鹿らしいと、誰も競ってなどくれないのである。

「ま、どんまいっす」

そして、そんなまるで学ばない駆け方は、そろそろ大人になりつつある高校生たちには、理解の外。タイムを雑に記録して、健人も早々に落ち込んでいる様子の馬鹿な先輩から去っていくのだった。

「くそっ」

人知れず、悪態をつくようになったのはいつからだろう。邪魔じゃないからと、多くに嫌われていない現状こそが、或いは自分の幸せなのだろうか。そんなこと、清太には認められなかったが。

「置いて、行かれたくないな……」

最後にひねり出した一言。それこそが、清太の本音だった。

 

「うぅ……」

少年は夢に見る。視界の先でまるで柴犬のしっぽのように弾むおかっぱ。遠ざかるサスペンダースカートの赤。背景となる軋んだ校舎はどこなのだろう。いつまでも、追いかけっこは終わらない。

そして、ふと。いたずらに振り向いた少女は正に――――だった。

「おーいキミ。こんなとこで寝てて大丈夫?」
「……ん?」

そんな真剣な夢中は呑気な声色であっという間に晴れていく。清太が起き抜けに目に入れたのは、間抜けそうな愛らしい女子の顔。
それに見覚えは、あった。
先までずっと突っ伏していたらしい机からゆっくりと顔を上げて、彼は彼女の名前を言う。

「吉田さん?」
「はーい。私は帰宅部の美袋ちゃんだよー。キミは陸上部の明津君だよね?」
「えっと、そうだけど」

少し返答に窮しながら清太は、答える。
吉田美袋。薄茶色に染められた長めのお下げ髪が特徴的な、明るく元気な可愛い少女。そういうクラスメートの情報くらいは彼も知っていた。
清太は、目の前で作られた、まるで無理なく幸せそうな美袋の笑顔を見る。すると笑顔そのまま、予想よりずっと時針が進んでいる壁時計を指差してから、彼女は言った。

「陸上部、もう部活始めちゃってるみたいだけど、大丈夫?」

そして、ようやく清太の耳も起きてきたのか、段々とグラウンドの運動部の掛け声を拾い出し始める。その中に、顧問の大声の部員に対するハッパを聞いた彼は、思わず頭を抱えるのだった。

「……うわぁ。やっちゃった……」
「ん? 明津君っておサボりさんじゃなかったの? じゃあドジっ子?」
「ただの寝坊助だよ。弱ったな……」

自分と美袋以外に誰の姿もない教室を眺めきって、清太は今の今まで寝坊していたことに気づく。そうなれば、次はあの鬼の顧問に怒鳴られる要素が一つ増えたことに、頭を抱える番だった。
果たしてどう謝ればいいのか。怖気づきながらも、彼はどうして陸部の誰も起こしてくれなかったんだと、見当外れに思ったりもした。

「なるほどねー、お寝坊さんかー。なら、うん。いっか。チョット待っててね」

そして、悩む青年のつむじをしばらく眺めてからふと思い立った美袋は、唐突にバッグの中に手を入れて、携帯電話を弄くりはじめる。

「え?」

美袋が帰りのカラオケの約束していた友達に断りのメッセージを飛ばしていることなんて、椅子に座ったまま待てと言われてぽかんとしている清太には分からない。そのタップの速さにばかり気が向くだけだ。
ただ、大体そんな無理解すら理解している美袋は、気の抜けた様子の彼をやっぱり可愛いと笑みを作るのだった。

「はい。おしまい、っと」
「吉田さん?」

美袋は携帯電話をするりとポケットに入れる。そして、ウインク。彼女が幼い頃に練習した経験があるだけやたらとこなれたそれに内心どきりとしながら、清太は尋ねる。
くすりとしてから、美袋は言った。

「キミ、寝坊しちゃうくらい疲れてたんだよね……今日はもう、頑張んなくていいよ。一緒にサボっちゃお?」

そして、見せるは小悪魔の笑み。彼女は以前から良いと思っていた彼に向けて、押せ押せ。後、予想外の連続に停止してしまった清太の手を取るのだった。

「っと」
「あは。手、あったかいねー」

そんな感想を残して、美袋は不良へと誘う。椅子からぐいと起こされた清太は、ようやく合点がいったようである。そのまま彼は少女の半ば浮わついた気持ちを気遣いばかりと勘違いして、頷く。

「そんなに引っ張らないでも……分かったよ。一緒に行く」
「やったー、久しぶりの男の子とのデート! 美浦と一緒に温めてた美袋ちゃん特性ド級デートプランが今火を吹くぜぃ!」
「あはは。……変な子の手を取っちゃったかな」

清太は妙なテンションでおどける美袋を前に、少し苦くも声を上げて笑った。

「大丈夫。後悔だけは、させないから!」

美袋のそんな言葉はどこまでも正鵠を射る。
そして彼は手を繋いだまま、平穏に連れて行かれたのだった。


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