吉田美袋が物心ついてからはじめて切ったものは、折り紙だった。
赤い紙をぶきっちょに真っ二つ。切れ味の悪いハサミを右に左とさせながら切り裂いたそれの出来上がりは見事に歪んでいた。
これは先に保育園で先生が行っていたほど綺麗な切断面ではない。でも、しかし自分がやってみたと思えば中々に誇らしく、それでいて不思議である。
今となれば、細く圧されて断ち切れていることは理解できるだろう。しかし幼さにはガイドも無しにただちょきちょきするだけで物体が分かれていくことは理解の外だった。
だが、存外に面白くはある。それこそ、恐る恐るで切った一枚だけでは物足りないくらいに。
ならば、と美袋は残りの紙を重ねた分厚いものを、今度はハサミでちょきんとしてみた。
勿論、厚めのものを断じるのには力が要る。ざくりざくりともいかずに、全力を尽くして二、三センチ程進めたばかり。これは無理だと理解できた頃には、小さな美袋は玉の汗を額にかいていた。
さて、そんな風にして少女は切る面白さと切るに足りない無力を紙一つで知る。そして。
「こら! ダメでしょ、ママのハサミ勝手に使っちゃ!」
その便利を取り上げられたことによる悲しみもまた、知ることになったのだった。
娘の危険に慌てたのだろう。母の手で必要以上の力と勢いで手から奪われたために、まるでハサミはどこかに消えていってしまったかのよう。
これでは切れない。もっとやりたいことが沢山あったのに。喜怒哀楽に優れた幼子の瞳は勝手に湿潤し、零れた。
「うわーん!」
「ああっ、もう仕方ない子ねぇ……」
滂沱の落涙には母のゆっくり背中をさするその手も無意味。そもそも、理解がない不通の慰めのような空では、心に届くこともないのだ。
だから寂しくって更に涙は零れ、疲れ切った美袋が丸くなって眠ってしまうまでそれは続いた。あまりのうるささに、母は刃物の隠し場所をもっと工夫することになる。
だが、そんなこと子供は知らず。
「……ちょきちょき」
それから両手をハサミにして、しばらくの間何かを挟んでみることで美袋は遊ぶようになったのだった。自分の顔を挟んで、或いは電話のコードをちょきちょき。けれども切れ味一つない二本指では、対象はそのまま安堵される。これは面白くないな、と少女は思った。
やがて、そんな遊戯にも飽いてそれからずっと、切断の楽しさすら美袋は忘れる。
そんな過去の全てを思い出したのは、ついこの前のことだった。
暗がり疎らな街中。闇の恐れを拭い去らんばかりの電灯の群れに照らされながら、今を生きることばかりを急かされる夜。
そんな無聊な当たり前の現代にて、時代遅れの少女が二人。互いに違う風に過去に囚われている同級。そして今は同類。
高橋七恵と吉田美袋は、強い力でひん曲げられた石塊のような彫刻の上に座して、語らい合っていた。
「ねえ、七恵って求められたいタイプだったりする?」
「そうね。私は必要とされたい、そんな気持ちが強かったかもしれないわ」
「そ。今は違うのね。まあ、私はその逆でさ。結構サバサバした関係が好みだったりすんのよ」
「親しい人とも距離を置きたい?」
「……そうね。そんな感じ」
二人揃って自然に紡がれるのは、どこかでよく話されるような、女子トーク。
しかし、不通同士が話しているならば、それが一般から逸れていくのもまた自然。
愛や恋など題目になるわけもなく、おどろおどろしく、彼女らは言葉を当時ながらもすれ違うのだった。
「それは、貴女の手から血の滑りが取れた気がしないから?」
「違うわ。触れた相手をちょんぎりたくなるからよ。触られるなんて、ばっちい」
「殴られるのは痛いものね」
「無理に動かれるのもクソよ。ったく、ずっとうそぶいてたくらいの思いやりが本当にあったなら、そもそも入ってこようとすんなっての」
「嫌らしい」
「否応無し、だったのよ」
「だから殺した?」
「切っただけ」
「そう」
それは、彼と彼女の異常な結末。斬って終わり。痛かったから咬んで斬って、その後逃げるそいつをズタズタにした。
しかし人が死んで当たり前。そんなホラーが居場所の七恵は少女の狂った独白をすら気に留めない。
ただ、彼女はその心のさざ波ばかりを面白がった。
「後悔してる?」
「してるわ。すっごく」
「でも、貴女は切っただけでしょう?」
「あんたに言うことになるとは思わなかったけど、七恵ったら、バカね。切断の延長線上に死はあるのよ。そんなの考えるまでもない当然」
「ああ、吉田美袋は深く斬りすぎたのね。断っちゃうくらいに」
「深く斬り込まれたから、仕方なくね」
ちょきんとまっぷたつ。そう、美袋は言った。
ああ、何が仕方ないことがあるだろう。痛みは我慢し、その後に快はあるもの。
しかし、潔癖だった彼女は世界を綺麗としか思いたくなく、それ以外は最早要らないものでしか無かったのだった。
だから、切って捨てた。それが未だに見つからないのは、また不思議である。
まさか、このにこにことしかしていない友人が。
ここに至ってそう思うが、そうでもないかもしれないとも考える。だがそんな悩みもどうでもいいのだ。
結局、未だに彼女の手首は自由で、それだけで良かったのだから。
「でもでも、貴女は楽しんだ」
「……まあ、大嫌いなアイツの無様っぷりは面白かったけど」
「いいえ、貴女は切り裂く面白さをこそ知った。そして、それは普遍的。斬るのは楽しく、だから何時だって辻に人の首は落ちている」
「はぁ? それって江戸時代の話? 今この頃に何言ってんのよ」
「いえいえ、それが誰もが無力な今こそあったら恐ろしい、だから私はそんな騙りを入れるわ」
「なるほど、あの子達があんたを嫌う訳ね。あんたはそうなって欲しくて嘘を吐くんだ」
「ええ、その通り」
あなたも死ね死ね、と物語る。そればかりの少女が愛されてたまるものか。
なるほど、七恵は変わった。でもそれが可哀想でもなく、ばっちくもない。なら、これでもいいかと思わなくもなかった。
ただ、どうでも良くはないのが友情であるからには、言葉を交わし続けるのが自然であったが。つまらなそうにして、美袋は言う。
「なら、私が切り裂きジャックになるっていうのも願望なの?」
「そうね。私は貴女にそんな期待をしている」
「人を殺して、隠れて、また殺して。そんなこんなを続けて欲しいっての? 友達に?」
「いいえ」
スカートひらり。彼女はその場で一周。そして世界も一重に変わってしまう。
ああ、辺りはどうでもいいばかりに。気付けばここは切り捨てられたゴミ捨て場。上に乗っかっているのは飛べなくなった白い骨。
そんなばっちいばかりが私達を歓迎しているそんな中。笑顔で七恵は言うのだった。
「私は、貴女に思いっきりこの世を斬って欲しいだけ」
それが貴女の一番でしょうから。
それは嘘ではない本心。嘯かれる、本音。しかし、そればかりは不通同士の間に橋を作った。だらりと、その間を鮮血が通う。
「あっはは! いいわね! 良かった、私ははじめて七恵に期待された! 以前あんたがあんなに困っていた時、伸ばした手を握り返して欲しいと何度思ったことか、七恵あんたは知らないでしょう。でも、なら今あんたの手を握るわ」
「良かった」
笑顔笑顔。揃ったそれは、しかし心通わず。
一つは深まり狂って裂けた。
「そして、そんな縁ごとさようなら」
人と人とが繋がってるとか、ばっちいもんね。
そう言って、彼女は彼女の手首をちょきりとしたのだった。
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