第十一話 笑み

ハナコ 口が裂けてもいえないことば

少女の日暮れにブザーは鳴らない。むしろ、闇こそが価値で、見えないことにこそ意味がある。
そう、足立華子には、よく分からないものこそその奥に何かがあるかと思えて願わしいものだった。だからこそ、異世界とすら言えるくらいの違った魔物の世界、ゴミ捨て場に彼女の足は向かって止まない。
勿論、呪わしき人殺し達の中に、救いを乞い続けるのは阿呆らしいものだ。たとえ腐臭の中に兄を見つけたとして、それは骸。決して、地獄に愛はないのである。

「ハナコ?」
「うん。私」

だが、悲しいことに、少女を地獄から掬う約束だけは確かにあった。それは、口裂け女の花子さんが、華子の兄とした契約。
自分なんてどうでもいいから、どこかに居るだろう妹を見つけて助けて欲しいという願いを契って、怪人はそのためにどうでもいい彼の命を奪った。
そして、それからずっと、その契約を律儀にも守って、死んだ兄を追い縋ってゴミ捨て場にまで毎日堕ちてくる少女をハナコは掬うのである。
それは、義務感。愛ではない。けれども、稚気は柔らかさの全てを優しさと勘違いする。
兄を喰らったバケモノを嘘つきと勘違いして安心安全なシートベルトであるかのように、今日も大事に華子は抱く。
顕になった怪人に寄って手をつなぎ、宵闇に近くなった紅の底にて、少女は問った。

「もう、今日もこれでおしまいにしないとダメ?」
「それは、当然。ほら、貴女の足に緑のゴキブリが集ってるわよ? 痒くなかった?」
「あ……気づかなかった。払ってくれてありがとう、ハナコ」
「どういたしまして。でも、貴女のべべは台無しね。穴あきだらけに、虫の汁で汚れて滴ってる」
「そう? まあ、冷たいけどまだ着れるから、帰るまでいいや」
「全く、どうしようもなく、見目を気にしない子ね、貴女も」

嘆息は小さくて誰にも聞こえない。だが、確かに吐き出したい思いも怪人にはあった。
契約、ルールが絶対なのは、お話の中の生き物である怪人であるからこその当然。だが、それに自分は囚われ過ぎてやしないかと、今更ながらハナコは思うのである。
この子を守るのは、契約だ。だが、それ以上のお節介は余計でしかないのに。

けれども、この子はあの美味しかった兄の妹。とても、気に入ったものによく似ていた。

だから、どうしたって、棘を持って接せない。むしろ、愛着すら抱いてしまっているのかもしれなかった。
それは、とても良くないことだ。きっと、誰にとっても。だから、疾く義務を終えよう。それが、自分の望みに成ってしまう前に。
ハナコは華子の小さな手を強く握って、言った。

「帰ろうか」
「うん」

都会の暗天に、星は非常に見えづらい。或いは空を眺めて月を知るばかり。空の蓋を眺めて、そこに自分の揺らいだ心地を覚えるものだった。
ギラギラ輝く、反射光。そのものは石塊同然といえども、仰げば太陽と同等であるのだから、笑えない。
そして、そんな月に魔が魅入られるのは、当たり前。いや、月こそ魔であり、故に夜ですらも魔なのだろうか。
その時、華子は頷き、ハナコも足もとの汚物を踏み抜いてゴミ捨て場から去ろうとしていた。彼女と彼女の心は一つ。なら、帰還の望みは果たされても良いはずである。

「ぽぽ」

なら、友情のように繋がる二人の足を引っ張ったのは、やはり人でなし。
それは、月があった筈の高みから二人を覗いていた。高き壁の上、いやそれを越えた天上にて印象一つ残らぬ顔を置き、その上にボンネットを載せる。
意味深い、朱の視線に揺らがず、むしろ喜色に彼女は揺らぐ。

「あんた……」
「えっと?」
「ぽぽぽぽぽ」

その、どうしようもない程の高みの長身に跳躍の邪魔されたハナコの視線を受けて、高子は笑んでいた。心底楽しそうに、そのかぎ針のような指先を帽子の上から底なしの地へと降ろして、怪人高女は喋りだす。当たり前に、腐れの匂いが、華子の鼻についた。

「ぽぽ。危ないよ。今のところ二人はここに隠れていなくちゃ、ダメ」
「……なんでよ。人間にはここが一番危ないでしょ?」
「そうかな? 何時も大したものしかいないから大丈夫だと思うけれど」
「それは……偶々。だから、何時も私が華子ちゃんを助けにくるでしょ?」
「ぽぽぽぽぽ」

二人、人間同士の当たり前のように、互いを信じて思い合う。そんな様を面白く、天上から見下ろすは、ゴミ捨て場の偽神。でいだらぼっち、八尺様、高女、またはそれ以外のいと高き何か。
常の存在ならば、目を合わせただけで発狂して当然な顔を笑みで更に歪めて台無しにして、高子は説得を続ける。

「ぽぽ。ゴミ捨て場は、ゆりかごと同じだよ。あなた達のための始まりの海」
「だからって、こんな夢も希望もないところで死ぬまで安堵してろっての? それは、それだけは、あり得ない」
「ハナコ?」

どこかで見たことがあるような、背高のっぽに向けて急に怒気を露わにするハナコに華子は驚く。確かにここは少女にとって、夢のゆりかごに近いというのに、でも彼女には違うのだろうか。

「……で、どうしてあんたが私に忠告するの? そんな義理はないでしょ?」

首を傾げる華子に、口の端をまとめる糸が破けんばかりの怒りを次第に治め、ハナコは疑問を口にする。
そう。この生きとし生けるものを下に見て、世界を悍ましくさせているバケモノが自分だけを気にしている筈がないのだと、ハナコは思っている。何しろ、これまでハナコがゴミ捨て場から現し世に出ることすら可能でなくなるくらいに零落した時ですら、救いにならなかったというのに。
ああ、どうして母なることすら出来る呪いの神のお前が今更母の顔をして私を心配するのか。それが気になり睨んでみれば。

「ぽぽぽぽぽっっっぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽっっぽ」
「っ」
「うぅっ……」

それは、狂っていて、壊れていて歪んでいて笑んでいた。果たして、先の意味ありげな言葉達は何だったのだろう。喜色に富んで、溢れ出すそれは明らかに世界を殺しかねない最悪。耐性を持っている筈の華子ですら吐き気を我慢できないくらいであるから、相当である。
そして、当然人でなし程度でしかないハナコも笑顔を嫌い、華子を小さな背中に隠して傷に歪んだ顔を更に怒らすが。

「ぽ」

その哄笑は唐突に止む。そして。

「あるよ? だって――――生きて/死んで欲しくて愛し/殺したくてたまらないくらい」

よく分からない二つの意味を束ねて言葉にして女性は最後に。

「貴女たち、面白いから」

だから、まだ死なないでとそう言って、柔らかく微笑んだのだった。


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