魔たるものは、浮き世と離れているのが当然なのか。
ドレスとマント。白と赤。両の中間といったような衣類を纏った天上の造作の女性がその場に浮かんで落ちない。
当たり前の重力の遮断。彼女の威を前に、あらゆる力の殆どは無意味なのだろう。
思わず頭を垂れて喉をかきむしって人であることを辞めたくなるような格差。
だから彼女も一瞬だけ彼女に降れと言われてそういう選択肢もあるのだと血迷いはしたが、そればかり。
「私は、貴女を知っていたような、そんな気がする」
堅物でありもはやそれだけしか残っていない筈の上白沢慧音は、魔界神を前にむしろ親近感すら覚えて、問った。
神獣は、元巫女は目を細めて届かない過去にそっと手を伸ばす。
「そうねー。私はあなたが棄てた旧き記憶の中の一つ。そして……」
「っ」
神の少女の手の平は、嘘のように冷たい。それを、過分に熱を持つ頬にて慧音は知る。
彼女に触れるために彼女は一歩を踏むことなくその分だけ空にて寄った。
風ではなく、しかし神にとっては脈と変わらぬ力強い流動によって、慧音の前髪は巻き上がる。
努めずともなってしまっている笑顔で自然体のまま、神はその名を幻想の地に、いいや最愛の友の前に表した。
「名は神綺。魔法のメッカで神様をやらせて貰っているわ」
神綺。それはかつて魔界にて■■慧音に幽香、魅魔という幻想郷でも最上位の力を持つ錚々たる面子を《《持て成した》》ことのある一柱の名前。
最強を持ってして参考にしたくなる程の究極の魔法を識っている唯一無二の少女だった。
魔界には彼女以外の神、それこそ八百万も要らず。
魔の法によって逞しくも何もかもを下に置いて微笑む神綺は、それこそただの神獣如きでは並ぶことすらあり得ない格別。
しかし、そんな絶対的存在ですら慧音の、孤独故に平等に優しい心にはさっぱり触れ得ない。
むしろ、魔法のメッカという言葉からこの存在を、神を魔人の母とばかり捉えて眉をひそめてからこう口にした。
「ひょっとして貴女はアリスの……母だったりするのか?」
「ええ。お腹も痛めず世界ごと創造した、それでも母親と名乗れるならばそうかもしれないわ」
「なら、どうして彼女の意識を落とすなんてしたんだ? あの気の落ち方は、下手をすれば危うかったぞ?」
「むぅ。慧音ちゃんったら、そんなのも分かんないの?」
上位に対する下位からの窘めに、それでも久方ぶりに友誼に温まろうとしている神綺は気を害することはない。
蟻と象であろうと通じ合えば結べる親愛でもるが、そもそも慧音という無私で与えるだけの孤人に対しては全てが一方通行のものになるに決まっていた。
そう、神から人へ。下賜された愛を英雄は知らない。
でも、それが楽しいのだと平等にしか愛されないことに、平等に愛すべき存在は酷い偏りを見せる。
残酷にも愛すべき子の一人よりもと信を向ける神綺は、ぷんと頬を愛らしく膨らましてから触れ得る距離から更に踏み込んで懐に入る。
どう身じろいだところで神様なら本気だったら殺せてしまう距離にて、でも慧音は不動。それが嬉しくって微笑みながら、少女は純粋故に虚しい言を紡いだ。
「親子水入らず。でも、友との久方ぶりの語らいの前には、不純物は何も要らないの」
「む。言葉の綾だろうが、娘を不純物とは、あまりよくないな」
「その説教臭さは先生になってから得ちゃったのかしらね? まあ、慧音ちゃんの言う通り本当にそんなの言葉の綾で……」
「どういうことだ?」
あの頃の可愛かった慧音ちゃんは何処に行っちゃったのかしら、まあこんな捻くれた感じでも愛らしいものだけれどと戯ける彼女は、逞しすぎるシングルテールを指先で弄んで笑っていた。
すべてを平等に捨て去ってしまった慧音には、そんな彼女の愛が分からずに首を傾げざるを得ない。
大人。でも、子ども。その両立、いいやむしろ両輪として神獣の一部となって不老を生きる。そして、何もかもを忘れてしまったところで平等に想おうとする人物だ。
その根底に何もかもに対する疑念が存在していようとしても、上白沢慧音はなんともアンバランスで不変。
その異常性に安心を見出す少女はちょっと捻くれすぎているのかもしないけれど、それが私ならばいいでしょうと神様特権で認めた神綺は。
「私にとって、純粋に愛おしく思えるのは貴女以外にいないってだけよ?」
「あ」
ふわりと慧音のいけずな唇に指先一つ。
だがそれ以上は聖域を犯すことになるとして、おしまい。
それ以上の続きは否定に繋がるのであれば、ならこれだけでも。
そんな逃げの発想はとても彼女にとっては辛いのだけれど。
「ましてや、本当は子供にはお見せ出来ないようなことだってしたかったのだけれど……ダメね」
人差し指の冷たさに黙す彼女を前に、この柔らかさを遠慮なく味わえたなら良かったのにと、他所の神はこの世の無情を思うのだった。
かっかと燃えるたった一つの命。それを前に、ありとあらゆるものを生み出しても余りある無尽を持った少女は触れることで限界。
口吻ですら、とてもとても。この胸元の痛みに好さは、最早神を殺して余りある無限。
想いは、止まってくれないから彼女は賢明にもそこをデッドラインとして止まってしまうのだ。
「はぁ。好きも過ぎれば、恋にすらたどり着けないのかしら」
そう、溜息を吐いて創世神は、一度果実の唇を撫でてから離れた。
推す一つの命を尊び過ぎる、こんな感情をどう拗らせたら恋へと至るものだろうか。
私なんてはじめての気持ちに怖気付いてしまって、大事に抱くことですら躊躇してしまうのに。
この世界のありとあらゆる命に対する尊敬を覚えた神は大人しく手を引っ込めようとして。
「神綺」
「わ」
自嘲する恋知らずの神に、巫女だった純粋無垢はずいと一歩。そして逃げようとした温度違いの冷たさを絶対零度相手でもないしと、気にせず抱く。
途端、早鐘のように鳴り出す彼女の拍動を気にせず、凍えそうな程の温度差を温もらせるためにと慧音は縋り付いて。
突然の推しからの熱量供給に目を白黒させる神綺へ告げるのだった。
「私は何も分からないし、きっとこれからも分かれないのかもしれない。だが、これだけは言いたい」
「何……かしら?」
「神綺。私なんかを好きになってくれて、ありがとう」
「っ!」
その言葉に対する驚きは、ない。むしろそんなに神に迫る程の貴女の心身を貴女は卑下するなと、神綺は伝えたかった。
でも、いちファンとしての活動を当人に認められてしまった喜びにへなへなとなってしまった神は反骨心どころかもう、骨抜きだ。
自分の持つ天上の薫香なんてさっぱり忘れて、慧音ちゃんったらなんだかとってもいい匂いと感じている彼女はただの少女で、だからこそ。
「私は私のものだ。だから貴女のものになる気はないが、それでも」
「……それでも?」
「こうなってしまった私でもいいなら、これからも貴女の友達を続けるよ」
「っ! けいね、ちゃんっ!」
「む……」
思わず抱きしめ返す神綺のその細腕は慧音の努力と獣由来の強靭さすら痛めつかせる域に軽々と達した。
しかし悦びに水を差す気にもなれない人の子は、神の常人ならば万の体躯は纏めて千切れる剛腕をその身に霊力と神力を回すことで堪える。
限度を超えた強張り。故に、しばらく彼女は自らの豊満に押し付けた彼女の面から滴るものに気付かずに。
だから、それを察したのは随分と手遅れになってしまってからだった。
「……神綺、よだれを垂らすのは止めてくれないか?」
「はっ、こ、これは違うのよ? 慧音ちゃんが瑞々しくて美味しそうだな、とか性的に思ったんじゃなくてもっと愛的というかなんというかそんな……」
「はぁ……色々と台無しだな……」
そう、気付いた時はもう汁気たっぷり。べったりと顔を上げた捕食者の我慢の証は被捕食者との間に透明な橋を作った。
実は零していた多分の涙も隠れてくれたが、とはいえそのはしたなさに慌てた神綺は自分の両手をまず手本として挙げて。
「あ、べたべた私が魔法で綺麗にしたげるから、慧音ちゃん、ばんざいして!」
「……私を脱がすつもりか?」
「えっと、そういうつもりじゃ……でも脱がしたくないわけじゃないのよ? ただまだ早いっていうかもっと楽しみにしたいし、でもでもっ!」
「っと」
「い、いいから裸になって!」
人に似た心持つ故に暴走する神様。神綺は口をへの字にしてから、むんずと強情っぱりの慧音のちょっと端々変な衣服を掴んだ。
さて、優しさは時にすれ違いを生んでしまうもので、破廉恥には相応の蔑視が向けられて然るべきもの。
そして、説得に予想以上に時間をかけ過ぎた神様は時計の針の進みをすっかり忘れていて、故にこそぴたりと時間通りに起き上がった彼女は視界にかかる金の前髪を退かしてから。
「神綺母さん……慧音になんてこと言ってるの?」
「ぴぃっ!」
詰り、抜け駆けを察して額に青筋を立てて怒るのだった。
我が子アリスにはじめて怒りを向けられた神綺は、その迫真ぶりを恐れて変な悲鳴を上げる。
どう言い訳しようと考える量子コンピュータどころでない優れた脳どころではない器官を持つ神は、だからこそ無数の選択肢を前に言い訳を遅れさせた。
「あー、随分若いみたいがあんたアリスの母さんなのか……そして、若さに任せた旺盛さもあるみたいだが……どうせなら私の見てないところでそういうのはやって貰えるとありがたいな」
「わ、わっ!」
その合間に、丁度顔を上げた他所の幼子に更に注意されてしまえば顔はもう、真っ赤。
次に、生じてから感じたこともない羞恥といじけに助けの手を求めて慧音の方に振り返れば、彼女もどうしてか頬を紅くしていて。
こんな慧音ちゃんも可愛らしいな、と思う惚れた弱みにつけ込むようにして、天然至極の人誑しである元母親は。
「あー……流石に日が出てる中で裸になるのは、私も避けたい」
本人的には恥ずかしいと感じている激しい修行でも変わらなかったボリューミーな体躯をぎゅっと隠す。
その際に粘りを乗せたまま歪んだ豊かな胸部をまじまじと見つめてしまったことに強く恥じて、いっそ死にたくすら思ってしまった神綺は。
「えーん! 夢子ちゃん、慧音ちゃん達がいじめるー!」
「あ……」
滂沱の涙を溢しながら、能力でスキマ閉ざされている筈の地でも構わず魔法で大きな孔を空けて、その中に飛び込み逃げ出すのだった。
ああきっと、しばらく彼女は自慢の子供の一人である戦闘力自慢のクールなメイドさんにうざ絡みして困らせるに違いなかったのだが。
「母さんったら……後でたっぷり叱ってあげないと」
「えっと……慧音さん達に結局何があったんだ?」
「あー……魔理沙。それは、だな……」
一転、閉じた孔に消えた魔界神が残した散々なコミカルな空気に、皆苦笑い。
もっとも、何となく本質は抜けているところのある神綺の下手を察しているアリスはともかく、ほぼ無関係である魔理沙は頭に疑問符を沢山浮かべざるを得ない。
傾いだ首に純粋な問いを聞き、少し返答に窮する慧音。
真面目な彼女はどう要約すればいいかしばらく迷い、その合間魔理沙を余計にどぎまぎさせてしまうのは最早愛嬌か。
果たして、満を持してただの上白沢慧音でしかない少女は、こう結論づけるのだった。
「うん。こんな私にも、神綺のような友達がいてくれたみたいだ」
笑顔でそう述べる彼女に、先程までの悩みの影はない。
ずっと一人ではなかった。それを思い知るだけで少女の空っぽの心は少しずつ満ちる。
「嬉しい、な」
年若い少女たちをすら魅了した慧音のその笑顔は、あまりに緩やかに弧線を作っていた。
殆ど力感のない一線。それが酷く後ろ向きな考えに因しているものと、神様でもなければ最早誰が知ろう。
そう、神ですら友人足り得るならば、人と妖怪の関係だって諦めるには早く、この世にもしもはあって。
つまり。
ひょっとしたら、こんな私のことだって誰か受け容れてくれるかもしれないんだ。
「慧音ちゃん……」
その神は全知でなくても、それでも大切な一人のことばかりは全部知りたくて。
そして全能に近い手ですら届かない遠い心を想って、遠く離れた場所にて少女神綺は心のままに手を組み合わせるのだった。
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