第七話 どうして貴女は

美鈴おかーさん 美鈴おかーさん

月は分厚い雲間に消えて、幻想の地は蕩けるような、闇の中。多くが寝入る夜に、レミリア・スカーレットは幻想の空気を初めて吸い込んだ。
すぅ、と花蕾の唇は開かれて、喉が動いて涼を嚥下する。人工の飛沫は完全に除かれた、暫くの間味わうことすら出来なかった一昔前の清浄を飲み込んで、しかしレミリアは唾棄するかのように呟く。

「ふん。なんとも上等な結界だこと。人の排気は問題とするのに、私を問題なく受け容れてしまうなんて」

ざわざわと木々騒ぐ辺りは、現代から隔離された何時の日かの自然ばかり。神社の下には黒黒とした杜が広がっている。
なるほどこの古の風景を維持するには、人工ガスの苦味は邪魔だろう。そんなものは、結界で退かしてしまうのが正解だ。
しかし、反して世界を区切るように張られたこの結界は、妖怪――否定されるべきもの――を容易く受け容れ過ぎていやしないか、とレミリアは思う。
予想していた反発一つなく、吸血鬼は幻想入りした。それが、自分程度問題ないと言われているようで、気に食わない。
幾ら常識的な範囲までに弱くなろうとも、レミリア・スカーレットには挟持がある。出迎えの一つもないことに、彼女は内心業腹だった。

「まあ、余計に争うつもりもなかったことだし、これでもいいわ。じゃあ次は……ここでは、ここでなら今の私でも飛べるかしらね?」

以前のような全能に近い力はない。けれども、羽根持つものは空に憧れるもの。漆黒を、レミリアは見上げる。
レミリアは暗黒を纏っているかのように昏い色をした薄手のワンピースの背部を持ち上げるように翼を伸し、その繊維を破って広げた。
矮躯から現れるは大きな蝙蝠翼。羽ばたかせ、大いに風を孕ませ少女は浮いた。

「わ、うふふ……」

そして始めるは、久方ぶりの飛行の時間。非常識の世界にて重力は小さく、体はあまりに軽かった。
思っていたよりばたつくこともなく、流れるように空へ行った少女は、次第に羽根による運動だけでなく妖力により地への縛りを更に切り取ることも出来るようになる。
暗き洞のような空にて大いに泳ぐ唯一人。眼下にその他全てを置く愉悦。それは、とても楽しいものだった。

「飛べる! 夜を支配できる! そうよ……私は、ただの人に寄生するばかりの存在ではないの」

挫かれ虐められ、もうからっ穴の自信。しかし何もないには様々に詰め込めるものである。人間の世界で隠していた妖怪の自覚を思い出し、レミリアは笑う。
この日この時、五百年近く人の合間にて身を潜ませてばかりいたレミリアは、自由だった。
どこまでも少女の身であれば、柵のなさに昂ぶってしまうのも当然のことだったのかもしれない。レミリアは、遊ぶ。
薄い胸を大いに逸らして、辺りを睥睨。戯れに、愛らしい顔に、にやりとあくどい笑みを貼り付けた。
そんな、悪役ロールプレイ。目指すは、憧れていた父のカリスマ。しかし、貼り付けただけの歪な悪はどこか不格好。

「何、アンタ?」

だから、夜に予感に起きて表に出た、博麗霊夢はそんな少女の児戯に呆れた。
見たことのない妖怪が、境内の上空で変な顔をしている。大きな妖精に毛が生えた程度の妖力しか伺えない、そんな一山幾らの妖怪少女に対してどうして自分の勘が疼いたのか、霊夢は内心不思議がった。
寝間着の白襦袢を着込んだ少女はただ、闇と黒衣を纏った少女をただまっ平らに見上げる。

「っ!」

それに、ぼっとレミリアは顔を紅くした。それは、気を抜いたところを見られた恥から端を発し、そうして年端もいかない少女に侮られた怒りでピークに達した。
霊夢の視線はどうしようもなく、それは生乾きの傷を刺激する。どうでもいいこの世の一つと目されて、消えかけの妖怪は癒えたばかりの自信に傷がついたことを感じる。
やがて、まるで血のように赫々と紅くなったレミリアは、霊夢に脅しの言葉を向けた。

「私は吸血鬼よ。貴女……血を、寄越しなさい」
「こんな夜更けに何かと思えば、大きな蚊だったのね」

霊夢は思わず出そうになった嘆息を、呑み込む。殺してしまうぞ、うらめしや。血を奪うばかりではなく、もっと恐ろしげな命に関わる恐ろしげな言葉を妖怪変化共から数多聞いてきた巫女は、レミリアの脅し文句は響かない。
鬼とはよく分からないが、しかし吸血、すなわち目の前の弱小妖怪が人に害するものであるという言質は取れた。
正直なところ危ないからといって、小さな生き物を虐めるのは博麗霊夢の趣味ではない。けれども、博麗の巫女は向かい来る妖怪に手加減をする、そんな腑抜けた存在では決してないのだ。
たから、ぱちんと、両手の平を合わしてみせてから、言う。

「たかる蚊は……潰してしまうわよ?」

そう言い、威圧的に霊夢は霊力を見せびらかす。大妖怪のそれと比しても何ら遜色ない地力。幼きその身には持て余すほどのものの一部が顕になった。
普通ならば、これで力の差を敏に感じ、逃げるのが普通の野生。霊夢も何となく、それを期待してはいた。
けれども、レミリアは人の間に隠れ潜んでいたもの。均された地にずっと居たのである。力の差を測るのに鈍くなるのは仕方ない。
勿論、隣り合う人間達の恐ろしさをレミリアが忘れたことは片時もなかった。その中でも、きっと目の前の人間は、とびきり。
けれども、自分は久方ぶりに夜空にある。反して相手は見上げるばかり。それはそうだ、容易く人が空を飛べるはずがない。地の利を覚えて下に見て、そうしてレミリアは血迷った。

「やってみなさい!」

そうして、レミリアは啖呵に応える。そして、妖力にて爪を鋭く変形させて空から素早く舞い降りて、そうして相も変わらず白い目線を向ける少女に一泡吹かせようとした。
所詮は子供。衣服でも刻んでしまえば、泣いて許しを請うだろう。そんな夢想をして、レミリアは己が弱者である現実を忘れていた。

「そう……仕様がないわね……」
「え……」

風を切る音は、唐突に停まる。紅爪を素手で受け止めてから、霊夢はふわりと、それが当たり前のように浮いた。

そう、博麗霊夢は力の強弱や何に頼ることなくただ摂理に則り、一人空を飛ぶことが出来る。きっと、そんな唯一の人間だった。
一度解してから、空は最早自由。そんな特別が、黒く黒く、紅い瞳を覗く。見慣れていた筈の闇に、ぶるりと、レミリアは震えた。

「妖怪は、退治しないとね」

改めてハクレイのミコは、そう宣言をする。そして、右手で摘んだ爪を引き寄せ、レミリアの小柄な身体に霊力を容赦なく打ち込もうとした。

「きゃ」

思わず悲鳴が漏れる。霊夢の左手に集まった力は白く発光してしかし熱を持たない。しかし、それは弱小である自分を何度殺したところで余りあるもの。
レミリアは確かな死を感じ、そうして目を瞑った。
スイッチの入ってしまったハクレイのミコは迷わない。そして、レミリアに防御の方法はなかった。故に、吸血鬼がここに滅ぼされるのは必定だったのだろう。

「そこまでよ」

そう、一迅の風さえ訪れることがなければ。

 

「あれ?」

未だ、生きている。何やら風を感じたと思えば、自分が何かに抱きしめられていたことに、レミリアは気づく。
目を開けて見れば、視界を掠めるのは長く綺麗な紅い髪。それを綺麗と思いながら、レミリアはぼうと更に見上げる。

「ふふ。大丈夫?」

すると、そこにはあまりに綺麗な笑顔があった。思わず目を背けたくなってしまうほどに魅力的な面に、レミリアは時と場をわきまえずに紅潮した。
だからたどたどしく、彼女は赤髪の女性に向けて言う。

「えっと、平気、よ?」
「そう。それは良かった」

レミリアの無事を確認して、赤髪の女性、紅美鈴はレミリアをそっと地に下ろした。
その位置が霊夢に捕まっていた先より大分離れていたことに気づいて、レミリアは狐につままれたような心地になる。どうやって、こんな一瞬で、と。
それは、美鈴のその身一つで起こした単なる早業である。そんなことを見知っていた霊夢は、ハクレイのミコとして目の前の新手の妖怪に訊く。

「どういうつもり?」
「勝手に身体が動いたから、じゃあ納得いかない?」
「無理ね」

半ば戯けて言う美鈴に、霊夢はぞっとする程に公平な視線を向ける。
思わず、レミリアが美鈴の影に隠れてしまうくらいに、それは無比だった。
しかし、霊夢のそんな面を解りつつ、苦笑いしながら美鈴は独白のようにして応える。

「……確かに、霊夢のお仕事の一つに、妖怪退治があることは知っていたわ。時に悪さする妖怪を、その手で殺めていることだって、分かってた」
「なら、どうして?」

人の世から廃棄された妖怪たちの坩堝とすら言える、来る者は拒まずの姿勢を採る幻想郷の維持。それには確実に悪性を排除する存在の必要性があった。
管理者の一人たる霊夢も、当然の如くに度を越した悪妖を見つけては間引くことを行ってきている。そのことを、美鈴は別に否定するつもりはない。
そう、たとえ自分が霊夢の手にかかったとしても、それは仕方ないと美鈴は言うのだろう。だがしかし。

「単純な、エゴね。目の前で、霊夢が蹂躙する姿を見たくなくって」

子供が子供を殺す。そんなことは許せない、許したくなかった。そんな勝手。今回は、そんな感情ばかりが先行した。
独白を、レミリアは固唾をのんで見守って、霊夢は柳眉を釣らして怒りを示す。そう、子――霊夢――は親――美鈴――の勝手を嫌った。

「そういえば。あんたも、妖怪だったわね……」

力あるからと邪魔を断行するのならば、それは摂理に悖ると認識せざるを得ない。
想われてのことである。不快に思うことはない。けれども、ムカつく、とは感じるのだ。何となく、彼女に子供に見られるのは、業腹だった。

「……あんたも、退治するわ」

だから、駄々をこねる。これは、ハクレイのミコとしての行動ではない。そんなこと、霊夢にも判っていた。感情をぶつけられる人に、ぶつけるだけの行為。
そんな子供の当たり前を、美鈴は優しく見つめている。そう、対していながら、彼女は決して戦う気などない。
霊夢には、美鈴のそんな様子ですら、苛立たしいのだった。

「いくわよ」

そして、霊夢はレミリアに向けるはずだった矛の切っ先を美鈴に向ける。白は同等のものを二つ三つと増やして、避けにくく。
もとより、背中にレミリアを庇っている美鈴に避けるという選択肢はなかった。大した妖怪ですら手傷を負いかねない力の奔流はただ真っ直ぐ紅の彼女へと向かう。

「ふん」

何も悪いことなどしていないというのに、邪魔立てされる。それを思うと、霊夢の怒りは至極自然なもの。
美鈴に対しては褒められたい気持ちさえあれども、非難されたくは決してなかったというのに。

けれども、何も悪くない行動なんて本当にあるのだろうか。悪を滅ぼすことがはっきりとした善であると、決めたものは誰。
そして親が子に教えるのが、正解ばかりではないことを、果たして霊夢は知っているのだろうか。

「あはは。霊夢って、叱られたこと、あんまりないんだろうなあ」

ぼやき、そして紅美鈴の中の大妖怪の一部が、ぞろりと蠢いた。そして、それは表立ち棚引いて、虹の七色を持って夜空を彩る。
彩光は美鈴の演舞に合わせて踊る。それは竜巻のようになりながら、なお輝いた。そして、それは無色を呑み込みながら壁のように立ち上がる。

「……綺麗」

レミリアは少し離れた背後にてその光の渦の美しさを見上げる。初めて望んだ、虹の欠片。そこに感動を覚えない少女はいまい。
霊夢も同時に、その光の豊かさにぐらりと目眩がする程の美しさを覚えた。しかし、瞬きの間の自失から戻った彼女は声を出す。

「目眩じゃない、これはっ」
「はい、おしまいね」

そう、美しさこそ目眩まし。それこそ目にも留まらぬ素早さにて、美鈴は霊夢の後ろを取っていた。先程の目眩と思えた揺れは、その際の風の動き。
ぴたりと、霊夢の頬に、美鈴の手のひらが当てられた。

触れられたら、お終い。そんなルールはなくてもこの状態で暴れたところで無意味であることは、霊夢には判った。
だから、返事の代わりに溜息一つと小言を吐くばかりである。

「はぁ……冷たいわね」
「あはは。私って、少し冷え性なのよねー」

あっけらかんと、美鈴は霊夢の悪態を受け容れる。そして愛しい少女を離してから、どうも正体から冷たくなってしまう指先を擦りつつ彼女は続けて言うのだった。

「それじゃあ、あの子のことは、私に任せてくれない? 悪いようにはしないわ」
「全く。あんたがやること、悪くはなくても正しくはないことばかりだから困るんだけど……」
「あはは。そこは、反面教師ってところで」

妖怪と人が平穏無事に暮らしている。これは悪くはないが、正しくは決してない。ましてや、巫女と妖怪が親子もどきをしているなんて、そんなこと。
けれども、それで上手く行っているのであるからこそ、困ったもの。なるほど、鯱張って道理を通そうとしてばかりいるのは正しくもないのかもしれないと霊夢は思った。まだ、思っただけだが。

「……まあ、いいわ。貴女なら」

そして、霊夢は妖怪を認める。霊夢は違和感に頬を撫でてから、自分が微笑みの形を取っていると、自覚した。
どんどんと自分が変わってきていることに霊夢は気づくが、それが悪いと思えないのが、どうしようもない。少女は何となく、惚れた弱み、という言葉を思い出す。

「ありがとう、霊夢」
「もうそろそろ丑三つ時になるし、寝るわ。勝手になさい」

そうして、再び霊夢は一人きりに戻る。それを、見送ってから、美鈴はレミリアへと振り返った。
先の自信はどこへやら、おずおずとレミリアは格上を見上げる。

「貴女……」
「あはは。怖かった? あの子も悪い子じゃないんだけれど、ちょっと強情なところがあるからねー」
「貴女どうして、私を助け、いいえ、どうして私を助けられたの?」
「知り合いの幽霊から聞いて、ね。私はわりかし近くに居たから。全く、夜に出歩くのは性とはいえ、あまり良くないかな? 昼間眠くなっちゃうのよねえ」

シエスタが捗るのは良いことかなあ、と戯けて続ける美鈴。彼女は微笑みながら、その言葉にレミリアの身体に強張りが少し取れたことを見て取った。
そう、今回。正規ルートから訪れた妖怪と霊夢の夜の外出のかち合いを、悪い出会い方と見て取った魅魔は偶然、いや運命的にも近くを散歩していた一番の仲良しに相談してみたのだ。
曰く、あの子をこれ以上機械にさせるのはどうかな、幼子が否定のしあいに傷つかない訳ないんだからと。そして、居ても経ってもいられずに、美鈴は霊夢たちの現場に馳せ参じたのだった。
美鈴は、眼前の愛らしい稚気を多分に残した少女レミリアを霊夢が斃して傷つくようなことにならなくて良かったと、内心胸を撫で下ろしながら、続けて言う。

「そして、貴女を助けたのは本当のところあの子のためだったりするから、あんまり気にしないで」
「それでも、ありがとう……でも」

でも、の後に少女は溜める。それは果たしてためらいか。いいやそれは万感の思いが喉に詰まっただけだったのだ。
涙目になりながら、レミリアは言う。

「どうして貴女はもっと前から私のところに居てくれなかったの?」
「それは……」

美鈴は思わず、言葉に詰まる。
もっと前。それは、少しの前を指してはいない。真剣過ぎるレミリアの瞳を見つめてそう、美鈴は気づく。
これはきっと昔々に、助けて欲しかった時があったのだ。今更の助け手に、歯噛みしてしまうことも、仕方のないことかもしれない。
美鈴はレミリアに刻まれた傷を、思う。
止まった会話。繋がった視線に何を覚えたのか、頭を振って、レミリアは続ける。

「意地悪な言葉だったわね。でも、心から、頼むわ。これから、これからでいいの。私を、私達を、守って……」

言葉には、真剣な心と情が篭っていた。そっと近くの土の匂いのする妖怪に縋り付いて、吸血鬼は、昔々は高いところにあった頭を下げる。
それは、レミリアという少女の、必死の請願だった。唯一の家族のことまでも思って、彼女は心より縋る。

「ああ、これは、跳ね除けられない、なあ」

対して、美鈴は苦笑しながらも、その内に必要とされたことに対する喜びをもって、レミリアの縮こまった身体を返答代わりに抱きしめるのだった。

「お母、様」

その熱に、久方ぶりの幸せだった思い出を想起し、レミリアは涙を零す。


前の話← 目次 →次の話

コメント