十五話 天泣く程に恋しくて

少女は星にならない挿絵 少女は星にならない

たとえ雨に心地が乱れたとしても、失くしてこの世は恵まれない。
ただ気圧によるものか時に頭がずくんと痛む。思わず庭の先に巌を望めどそこに救いなどはなく。
そんな私事を気にするのはらしくないと彼女は思えども、それでも視線は度々空へ向いた。

雨粒を幾つ羽織った故だろうか、暗い辺りに尚寂しくも天は陰っている。
それを自らの心と重ねてしまうのが人と常とは、少女も知っていた。
彼女も今のつまらなさを雲の色に委ねたいところではある。視線を下ろして庭の石床を水盤にして観る空も暗ければ、輝くものはどこにもない。

「全ては過去にしかないのでしょうか……」

天網恢恢疎にして漏らさず。ならば見習って、幸せの尾っぽももっとしっかり締めておくべきだったと、今更ながら彼女は思うのだった。

「ふぅ……」

楚々とした少女の歩みに音はなく、従って雨のヴェールの中にてその小さな憂鬱の溜息こそ一番に大きな音色。
ここ霧島神境は、人界ではない。むしろ神の住処であればそこを終まで過ごすだろうこの少女は、神の《《きざはし》》。
神を降ろせる最上段。人間を超えた巫女。そんなどうしようもない存在であっても。

「あら……」

予想外の雨中の晴れ、狐の嫁入り。それに気づけば空を見上げて小さな口を驚きに開くことだってある。
途端に輝く辺りの全て。草木は纏った水気を煌めきの衣装とし、雨に濡れただけの黒だった岩戸ですら今は燦々と輝いて最早眩い。
頭痛は変わらずずくずく頭を突き刺すようであっても、それでもこれに感動を覚えないのは最早人ではなく。

「懐かしいです……」

そして神代小蒔は、このような光景を彼と見た《《おぼえ》》にこそ、感動していたのだった。

 

雨音を乗り越えコンクリート造りの校舎の奥からボールが弾む音がする。そこに彼彼女らの白熱の声色を含めてしまえば、元気なその活動を自ずと伺えてしまうもの。
梅雨時の体育の今日の授業はバスケットボールにバドミントン。部活動として励んでいる者や経験者を中心として行われたそれらは、試合形式になった途端に盛り上がりを見せた。

特に注目を浴びたのは、バスケ部員チームとクラスの運動神経の良い男子達が組んだチームの盛んな点の取り合い。
バスケット部員達が当たり前のようにスリーポイントを決めれば、サッカー部の一年筆頭が隙を突いてレイアップシュートを決める。
そんなシーソーゲームは都合二クウォーターの二十分行われ、大きな歓声を浴びた結果負けたチームが片付けを行うことになった。

「はぁ……疲れた」

入り口の遠くにがやがやとしながら体育館から出て行こうとしているクラスメイト達を横目に須賀京太郎は、モップ片手に館内を行ったり来たり。
そう、京太郎は現役選手相手に頑張ってしまった運動お得意な彼らの内の一人。
ゼッケンを返した途端少し寒さを覚える程の汗をかいていた京太郎は、どっと来た疲れに今更ながら無理をした自分を呪うのだった。

「勝てそうだったからって調子に乗って、20分も文化部員が駆け回るもんじゃないな……」

ジョギング程度の運動で体力を維持しようなんて流石に無茶だったのだろう、利き手の肩が上がらないなりにディフェンスをそれなり以上に務めてしまった京太郎はボールが幾つも挟まった馴染みの天井を見上げる。
どうも久方ぶりの黄色い声援に気を良くして動きすぎたのだろう。モップを前にしている彼の足取りも駆け回るように、とはいかなかった。

また、負けた結果の貧乏くじには困ったものだと京太郎は思う。
お前ら頼んだと言う体育教師にへとへとのまま頷いてしまい、彼はこうして負けに不貞腐れてそのまま先に教室に戻ってしまった一人を除いた四人での館内の清掃を行っている。
慣れた手付きで次々とカーテンを降ろしていくチームを組んだ元バレー部員の姿を横に見ながら、早く終えてこっちに合流してくれないか等と思うのだった。

「しかし、以前よりは大分肩周り動かせるようになったな……ん?」
「須賀ー! 待ってー!」
「淡か……」

何となく京太郎が大怪我以降ずっとこれ以上はと思い込んでいた右肩が思ったより動かせたことに何となく感慨深いものを覚えていると、そこに甲高い声がかかる。
振り返れば、そこにはへろへろとモップを左右にぶれさせながらニコニコとやって来た馴染みの少女の姿が。
それが選択したバドミントンのことすら忘れて自分を応援してくれていた、二人付き合っていないって本当かとよく問われる大星淡その人であるからには、言に応じて待つのは仕方ない。
何しろ咲ほどでなくとも、そこそこ運動音痴な淡を走らせては何か起きるのか不安にもなる。
ふえー、等と間抜けな声をあげてようやく追いついた少女を隣に、京太郎は饒舌に話し出す彼女の話を聞くのだった。

「須賀、惜しかったねー。最初けちょんけちょんにされちゃうかと思ったけど途中で結構点数縮まって、あと三点ってところで須賀がシュート止めたのは良かったけど、結局続かなくて残念だったなー」
「ああ……あの時は思い切り跳んだら左手にかかったからそれ以上に点入れられるのは止められたけれど、皆疲れてたから流石に追いつけなかった」
「見てらんないって淡ちゃんが入ろーとしたら、皆して止めるんだよ! どうしてだろうね?」
「それは人数的にというか……淡ってトラベリングって知ってるか?」
「トラブルリング? なにそれ? ファッション的なヤツ?」
「まあ、お前がそんなだからだろうな」
「んー……どーいうことー?」

ゲームを楽しんでいる人間がルール知らずの乱入を許す訳がないだろうとは口にせず、京太郎はワックス艷やかな床面に視線を戻す。
そしてゆらゆらモップを押す小さなふわふわ乙女を引き連れ、黄色いモップはコートの半分過ぎをうろうろ。
そのうちに反対から遅れて清掃をはじめた陸上部員と合流出来れば、清掃はおしまい。
後は、淡を交えた全員で道具を片付けてジメジメした外に出れば、疲れの中にも会話がちらほらと広がるのだった。

「ありがとうな、淡」
「別にー。何か暇だっただけだから!」
「大星にはホント助かったわー。俺らだけじゃ、正直やってられねー気分だったからさー……」
「それにしてもさ。バスケ部結構本気だったんじゃね? 途中からめっちゃ顔つき変わってたんだけど」
「なんたって体育教師、バスケ部の顧問だからな……そりゃ負けらんねーだろうけどさ」
「自分のバスケ部勝ったからって、片付け俺らに押し付けるのはフェアじゃないよなあ」
「そりゃアイツもキレて帰っちまうわ」
「うん? でも、それって良くないんじゃないのー?」
「……まあ、良くはないな。後で大星が怒ってたってアイツに言っとくわ」
「そーそー。これじゃ皆大変かもって淡ちゃんも頑張ったんだからさ、ダメだよって言っといて!」
「アイツ確か大星のファンだったから、聞いたら悔い改めるんじゃね?」
「次から率先して片付け手伝い始めたら笑えるな」
「はは……いや、改めて大星来てくれて助かったわ……多分オレ等だけだったら絶対反省会だったかんな」
「そう? まあ、なら良かったかも」

平均身長で言えばバスケットボール部員達ですら敵わない運動得意な背高のっぽ達の合間でぴょこぴょこ元気をしている少女が一人。
物怖じしないタイプの淡は皆からよく好かれていて、またその視線がよく京太郎の元へと向かうことですら、どこか歓迎されていた。
少女一人で軽くなった雰囲気の中、着替えまでの短い距離でそれほど大きな会話の花は咲かない。

「はぁ……」

しかし雑談が止まった時、黙っていたハンドボール部員の彼は耐えきれなくなり京太郎に向けてこう言った。

「なあ、京太郎……お前、またハンドやんねーか?」
「はぁ? 見てただろ。俺はまだあれだけしか肩が……」
「んなの分かってるよ。でもさ、お前あんだけ動けるし、別に投げらんなくても他に……やれんだろ?」
「それは……」

京太郎は眼の前の彼の意気に熱意に少しだけ怯む。
中学最後のハンドボール都大会決勝にて、京太郎が途中交代したこともあり負けたあの日のことを誰より敵側としてこの坊主頭の青年は覚えていた。
彼からすると同じ高校になったということを喜べたレベルの選手が運動部を辞めて燻っているのは面白いことではない。
故に、苦しそうに黙した京太郎に更に言い募ろうとした彼。その背中につんつん。

「ねー」
「すまん、大星。今京太郎とマジで話しててさ……っ」

それが二人の間に入った自分に対する文句の動きと判っていた彼は背中を突いただろう淡の方を向く。
そして、絶句するのだった。

「あのさ、私もマジだよ? ――――どうしてあんたは私の《《京太郎》》を取ってこうとするの?」

下から見上げる瞳。何時ものその光輝があまりに眩しく、恐ろしかった。
怒り。それがどうしてこれまで明らかでありもう口が開けない程に重いのか。例えるならばこれはまるで星の威。
遅まきながら、自分が何か大きなものの逆鱗に触れたのだと理解する彼。そこに。

「淡……大丈夫。俺はずっと文芸部だ」
「んー……なら、いっか」

間に入るは、先程まで心より並びたいと思っていた京太郎。
その大きな体で遮断されたことにより、睨まれていた蛙だった彼は息を吸えるようになるのである。
軽く男女が言葉を交わすのを耳にし、そしてしばらくして彼女が去る足音を聞いた彼は。

「……悪い」
「ああ……」

軽く頭を下げる京太郎という男子が、既にどうしようもないものの手の中にあって取り戻すことなど出来ないことを理解して、残念に思うのだった。

 

「ん……」

本閉じる。それは宮永照にとって捲るよりも回数の少なくなりがちな行為である。
閉じる合間があればその内に読み進めるのが当たり前。読書家にとって中座は大概没入の邪魔であるから。
何時もは読んだら時に淡に揺すられても気づかない。そんな本好きの照であっても明暗の度合いには敏感だ。
何せ、明るいも暗いも過ぎると見難くなりがちなものだから。

「晴れたね」

その観点からするとこの晴れ間はむしろ、ありがたい。まだ雨脚が去り切っておらず、言うならばこんこんと降りながらの狐の嫁入り。

または、天泣と言ったか。

でも、この光芒すら見て取れそうな明るさの谷間は窓辺での読書にとても優しく。世界は再び命を持ちはじめたかのように煌めきの中にあって。

「……え?」

しかし、目を本から上げた照は雲の合間にそれを見る。

『ああやっと――――見つけました』

そう、ヤコブの梯子すら届かぬいと高きところから、たった一人を見つめる三本脚の烏の姿を。


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