第十一話 サクヤ

美鈴おかーさん 美鈴おかーさん

その銀の少女が人里に現れたのは、酷く暗ったい夜も更けた頃合いであったようだ。
少女は、幻想郷では珍しくもない木造の家屋の間をきょろきょろと驚きに怯えながら歩いていたらしい。
酔いに酔った、問屋の番頭が赤ら顔で目抜き通りを歩んでいたところ、そこに現れたのが提灯の先にキラキラ輝く髪を持った少女の形である。
何故か女性に変じた妖怪が多い幻想郷。見慣れぬ銀髪にすわこれは妖怪変化ではないか、と彼が思って肝を冷やしたのも仕方のないことと言えた。

しかし、実際のところ少女は妖怪どころか噂に聞く外の国の人ですらない、ただの混血児。
大丈夫ですか、と逃げる際に番頭が落とした財布を丸ごと返しに長く追っかけっこをしたことから、性の良さも自ずと伺えた。
しかし、見捨てられんと番頭に連れられて行われた強面の問屋の親父の詰問に一切怯えることなく、何も覚えていないと淡々と答えたところ等には、おかしさもあった。
だが、それくらいの奇妙など、幻想郷ではありふれている。なるほどこれは、外の世界から神隠しにあった子だと皆は理解し、そうして商人界隈の者たちにこれも縁だと少女は保護されたのだった。

「私は、名前も思い出せません」

硝子の睫毛を申し訳無さに下げながら、少女は当座の代になればと上手な南蛮の細工が凝らされた銀のペーパーナイフを差し出し、世話のためとやんややんやと煩い女衆にそう語ったそうだ。
これには、これまで父無し子やら何やらの不憫な子とだって仲良くしてきた彼女らも黙らざるを得なかった。
名前こそ意味であり証であり、そして祝福である。当然のように、捨てる子にだって名前を付け損ねるような親はそうない。
この場合は、名前の記憶を失くしてしまったというばかりのようだが、だがどうしたって名無しの少女に対して皆が思うのは、可哀想というその一言である。
これは見捨てられんな、と番頭が人知れず腹をくくったその時、少女は顔を上げ、その青い瞳を柔らかにしてから健気にもこう言うのだった。

「ですから、皆様で私の名前を考えて下さると、嬉しいです」

これにより、問屋内はちょっとした騒動になる。そして一日、ああだこうだと家が機能不全になるまで意見を出し切った彼らが少女に付けた名前は。

「私はサクヤ、か……」

朔――新月――の夜に訪れたから、サクヤ。
姓は大事なものだから思い出すまで付けなくていいだろう、という配慮のもとに、少女はただのサクヤとなった。

「ん、どうしたのかな、サクヤちゃん?」
「いえ、昼間の人里は賑わってるな、と」
「ああ、そうねえ。たしかあんたは夜の里と問屋の中しか知らなかったんだから、そう思うわよねえ」

サクヤは問屋に奉公している丁稚と大差ない程度の年齢の子供だ。そして、幻想郷どころか、人里にすら慣れていない。
故に、少女は暇をしていた手代――サクヤを一番に気にしている、元孤児の女である――に連れられ、今人里を案内されていた。
中堅どころとはいえ問屋、となれば関わる者は数多。様々な人に声をかけられる手代の女に手を引かれながら、自分のことを聞かれるたびにサクヤはこう答え続けた。

「私はただの丁稚です」

その、幼くも整った西洋風の見目をした少女を気にするものは多かったが、しかしそっけなくそう言い切られてしまえば、問いを続けるのは難しい。
何となく聞かれたくないといった表情の手代の女が側に付きっきりであれば尚更。
サクヤは、途中に半ば押し付けられるように奢って貰った団子を逆手に抱えながら、手代の手をしっかり握って、ずっと離れなかった。
自分を頼りにしている。そのことに嬉しくなった女は立ちっぱなしでは疲れるだろうと知り合いの茶屋の軒下を借り、サクヤを隣にのんびりとこう聞く。

「それで、サクヤ。あんたは、何か思い出せたことはあるかい?」
「すみません……一つも。ただ、こうして誰かと一緒に出かけたことはきっと一度ではないとは思います」
「へぇ。それが分かるのは、どうして?」
「何となく懐かしいから、でしょうか……」

日中を楽しむ旧い和装の群れは時に西洋風の格好を交えながらも、その大体は少女にとって珍奇に見える。
サクヤは、何もかもを霞の向こうに置いてきてしまったことを感じながら、しかしここまでの人混みの中には当たり前を覚えていた。
そして、更に誰かが自分の手を引っ張っていくこと、それに頼もしさ以上に懐かしさというものも感じられたことは収穫だろうか。
外の世界で培ってきたのだろう多くを、自分は失くした。けれども、それでも向こうに行けばきっとそれはある。ならば、独りではないのかもしれない。そうサクヤも感じられた。

「ふぅん……」

それこそ陶器製の西洋人形のような、硬い表情をしていたサクヤ。その頬の緊張が少し取れてきていることを感じ、女も嬉しくなる。
そして、少女に確かに過去があり、それが完全に無くなったのではないことを、彼女は喜んだ。
だから当然至極、善い人である手代はこう呟くのだった。

「そりゃ、良かったよ。だったら、一緒に居たっていうそいつにまた会うまで、頑張んないとね、ほら」
「……はい」

ただ短くそう返し、サクヤは差し出されたみたらし団子をいただく。
滴るタレの甘じょっぱさが、美味しい。そして、それだけでなく、喉を通る団子の食べごたえも良くって。それをとびきりだと選んでくれた女の気持ちもありがたく。

「う、うぅ……」
「よし、よし」

だから、はじめて、この現実を飲み込めるようになったサクヤは、人の温かさに涙を零すのだった。

 

さて、サクヤは外の世界であっても天才の類である。また、驚くほどに彼女は精神が幻想郷に適しているようでもあった。
暗算にそろばんなんて朝飯前。ある日はひと目で、一日の帳簿の計算違いを言い当てた。これは外の子だから賢いというそれだけではないぞ、と思わぬ拾い物に問屋は湧く。
そして、更には偉ぶることなく、まるで自分が下であることが当然のように接客を行い、教えもしないのに客に気に入られる所作を自然と行う。
これは、麒麟児だと、店の皆がサクヤを殊更大事にし出したのは、当たり前のことだったのかもしれない。

「皆、気をつけて帰りなさいよ」
「はーい、サクヤお姉ちゃん!」
「また泥団子一緒に作ってねー」
「分かったわ。また明日ね」

そんな中しかし、子供は子供と仲良くするものだと暇な間は店の外に追い出されて、誰彼とサクヤは遊ぶこととなる。
それはどうも大人の間では緊張があるのかと、子供らしさに欠けるサクヤに対する店の連中なりの思いやりの一つでもあったが、しかし他の子と関わったところでサクヤはサクヤのまま変わらなかった。
年下どころか持ち前の器の大きさにより年上連中の面倒をも見て、大人のように振る舞うサクヤは、子どもたちから次第に尊敬を集めるようになる。
更に、大店の娘として少しやんちゃ気味だった魔理沙に何時か遠慮なくげんこつを落としたことによって、今や彼女はもはや大将の如くに扱われるようになった。
ただの奉公人なのに、と思いながらも多くの人の世話をするのには文句なく、彼女はまず人里の子どもたちからあっという間に受けいれられるようになったのである。

「それじゃ、サクヤ、じゃあねー」
「はい、それでは霧雨のお嬢様も、また」
「もうっ、私は魔理沙でいいってのに!」

金の笑顔が銀の微笑みの前に咲く。そして、ぶーたれつつも日暮れにキラキラ輝きながら、魔理沙は霧雨店に向って駆けていった。サクヤは、同い年くらいである筈なのに、その幼さを微笑ましく思う。
自分を叱ってくれた少女に、魔理沙は懐いた。そして、彼女はただでさえ自分の髪の特異を気にしている少女でもある。
金の己の対になるような銀が現れて、喜ばない筈がなかった。もっとも、その興奮からちょっと他の子達をないがしろにしてしまったこともあったが、それもごめんなさいでお終い。
なら、仲良し小好しになるのが子供の当たり前だった。そして、当然のように拒まなかったサクヤは魔理沙と今日も仲良くする。
いつもの文句を最後に、遠ざかる長い金の髪をサクヤはずっと眺めていた。

「サクヤ」
「あ……貴女は」
「あんたったら、霧雨の嬢ちゃんと仲良くなったのか……店としては良いことだけど、私としちゃ複雑だね」
「どういう、ことですか?」

そんな、別れの間を知らず隣で眺めていたのは、何時ぞやの案内をしてくれた手代の女。彼女はその言の通りに嬉しそうな、厭そうな、そんな複雑そうな表情をしていた。
何故かとサクヤは考える。魔理沙は基本的に誰からも好かれるような純粋な子供だ。そして、手代は自分に優しくしてくれたように、子供好きなきらいがあった。
なら、ウマが合わない筈がないのだ。しかし、次第にごく厭そうにしてから、彼女は語る。

「サクヤには、私が孤児だってことは言ったね」
「はい……」
「だけど、私の両親が妖怪に喰われちまったってことは話してなかったか」
「え?」

両親を妖怪に食べられた。そんな絵空事を真面目に女が語ったことにサクヤは、驚く。
おかしい。妖怪なんていないし、いない方がいいに決まっているのに。それなのに。

それがどうして禍として機能してしまっているのか。そんなこと、あり得てはいけない。

ぼうとする頭の中、そんな確信ばかりがサクヤの強く胸の内を流れる。銀の血が脈打ち、どきりどきりと強く少女の胸を叩いた。
何も言わない隣のサクヤに、驚いて言葉も出ないのだと勘違いした女は、最後にこう言って去るのである。

「仇は前の博麗の巫女さんに討ってもらったが、私は妖怪が嫌いだ。そして、そんな穢らしい妖怪とつるんでる霧雨の嬢ちゃんも好きじゃないのさ」

それは終わったこと、そして彼女が少女だった時に決めたこと。そうであるからには、心変わりなんて有り得なく。

「よう、かい?」

そして、それよりも遥か昔、数百の昔に誰かが己が血にまでかけた退魔という呪いを思い出したサクヤは今。

「どうしよう」

先走る胸元を押さえながら、明日に迷うのだった。

 

「はぁ、はぁ……」

それは、翌日。昨日と殆ど同じさようならを子どもたちとしてから、暫くのこと。
皆とおひつから掬ったご飯を茶漬けでいただき、胃で熟れてきた頃合いに彼女は厠に向かうと嘘を吐いて、夜の人里を駆け出していた。

「どう、しよう」

サクヤは分からない。これまでを失くしてしまい、これからも不明だ。
そんな中、身を寄せたところで頑張ることを自分なりに決めたというのに、しかしそんな小さな決意も自分の中の呪いでどこかに消えていく。
巫女様が結界術を自在に出来るようになったら、なんとしてでもお前を帰してあげるからな。そんな番頭の言葉が空言ではなかったことを、また今更に知った。

そしてここ幻想郷には、妖怪が普通に存在する。そんな皆にとっての当たり前を、小さな子供から今日、教わった。
それは絶望的な教えでもある。何せ、サクヤという少女の中を巡るこの血は、魔を覚えただけでこんなにも。

「苦しい……」

殺せ殺せ。そう叫んでいるのだから。

十六夜の月、完全でない月の元、なにかに急かされ、伸びる影を追いかけるように少女は駆ける。
気づけば右手には冷たい、感触。預けたはずのナイフがどうして今自分の手元にあるのだろう。そして、またそんなものを隠すことなくちらつかせながら、人里を走って自分は何がしたい。
おかしなことだ。ああ、おかしい。

「あはは」

狂笑。それは、何に対する狂いだったのか。果たして、その原点である妹を魔に奪われた男の呪いは、その運命の歯車は何時何時狂った。
それでも壊れた時計は、回る。チクタクと。廻り巡ってやがて、そして。

「あら、貴女は――――」

ついに彼女は目の前に紅い彼女――とびきりの獲物を――青い、いいや赤い瞳に入れて。

「――妖怪に、死を」

その時にかち、と時計は止まった。


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