二話 風が本を捲らないから

少女は星にならない挿絵 少女は星にならない

宮永照は読書が好きである。

文字となって出力された物語の数々は、本当だろうが嘘だろうが心を大いに刺激する。
徐々に顕になってくるその内容の愉快も憂いも現実を変えるほどの力はないのかもしれないが、しかしだからこそ良かったのだった。
恋しいほどそれは望ましくなく、故にただ側にあるだけで安心できる。現実逃避、と言われてしまえばその通りかもしれないけれど。

「……はぁ」

目を瞑って思い出すはラシャの心地。牌の音色。だがあれほどに一人は激しくも辛くも、ない。
今日も彼女は目を凝らして、ひたすらに文字に縋る。胸元の心の傷を忘れるためにも。

「でも、それだけじゃ、ダメ……かな」

そして一人の部屋の中にて思い出したかのように時折、本を捲る音の合間にかちゃかちゃとタイプの音が辺りに響く。
慣れないタッチは連続せずとも、確かに文字となる。やがてそれはきっと、誰も知らない物語を紡いでいくのだ。

「うん。まだまだ、だね」

少女は出来に、満足できずとも微笑んで。そう、まだ観ぬ先へと進むためにも、照は本を友としていた。

 

「すぅ、すぅ……」

冷えをすっかり忘れた、夏の前。湿気にもさもさを増した髪をほうぼうにとっ散らかせながら、淡はぐてんと寝ていた。
寝顔の隣にあるのは、分厚い推理小説。進まない推理に苛立った淡が犯人だけ先に見て満足したばかりのそれは、しきりに寝息を浴びて、ぺらぺらと捲れている。

「ったく、淡めよく寝やがって。これじゃ今日中に感想は無理か」

今までのいきさつを眺めていた京太郎は、可哀想な本が寝相に潰されないように枕元から取り上げて、そう零す。
目に入るのは、美しい、金の絹。それに埋もれるはつらつ潜まった輝きの顔。ただ、そんな綺麗に慣れて、愛着しか抱かなくなった彼は、口を開いた美少女の寝顔をアホっぽいとしか思えないのだった。
故に、見惚れるでもなく京太郎は部――間借りしている文芸部――の成果発表、六月の文集の水増しとしての淡の感想文は、明日以降に延びるだろうことだけを察する。
それを馴染みの片割れとして申し訳なく思い、京太郎は読んでいた本――車輪の下――の隣に取り上げた小説を安堵してから部長の方へと向いた。

「すみません。どうやら淡はここで、ドロップアウトみたいです」
「ゆっくり寝かせてあげて」
「分かりました……はぁ。それにしても部長はスゴいですね……かれこれ一時間以上ずっとパソコンに向かってますけど、平気なんですか?」
「うん。もう慣れたかな」
「流石ですね……」

京太郎は部長、宮永照のことを変わった人――どうして自分の周りの美人はおもちがないんだ――と思っている。
最初の妙な馴れ馴れしさは、危なっかしさだと受け取り方を変えるようになった。だが、その浮世離れした雰囲気に彼はどうにも慣れない。
ただ、真面目に本を読んで文字を打ち込んでいる、そんな部長の鑑とでも言うような励みぶりには些かならぬ尊敬の念を覚えていた。
もし部長が本を出したら布教用に近所の本屋に流れる分は買い占めよう、とか内容への不安なんて度外視してこっそりと思っているくらいに京太郎は、照の情熱を信じている。

「そういえば部長って、どうして文芸部に入ったんですか?」

しかし、だからこそ不思議に思った。どうして、この人は頑張れることを見つけられたのだろうか、と。
京太郎は自分の一番をすることが出来なくなってからこの方、物事への取り組み方が半端になっていると感じている。
そのために、新しい何かを探していた。故にこそその何かを発見出来た人の経緯を聞きたくなってしまったのは、まあ当然のことだったのだろう。
少し紫がかった髪を疑問に流してから、照は柳眉をひそめた。

「どうして、文芸部に入った、かぁ……京ちゃんは時々難しいことを訊くね」
「そうっすかね……理由なんて、そんなに入り組んだものじゃないと思ってたんですけど」
「そうだね。普通はそう思っちゃうかも」
「なら、部長には何か壮大な入部動機でもあったんですか?」
「ん……それはね」

期待こもった京太郎の視線をよそに、ゆっくりと照は顎に指先を当てる。
そうして、たっぷり一分時間を置いてから、彼女はぽつりと言うのだった。

「迷ったから」
「は? ……いや、すみません。それはどういうことで?」
「だから、構内で迷った先に文芸部の部室があったから、そこに入ったの。そして部員の人から本を借りて、気づいたら部員になってたかな」
「それって、ただ流されただけじゃないっすか。めちゃくちゃ難しくも壮大でもない入部理由でしたねっ!」
「そういえば、そうかもしれないね」

突っ込む京太郎に、うなずく照。後ろで淡は眠りながら、ごめんねすがー、と何故か誤って謝っていた。
なるほど、迷って流されて、それで続けて今があるとしたら至極簡単だ。それならば、考えることもなく語れる普通だ。
けれども、照は思う。それだけで、終わらなかったから、と。少女は唇をなめてから、続ける。

「ただ、続けている理由は、流されたってだけじゃないかもしれない」

カチリ、とクリック音。押した、確定した、それで良しと少女は決めたのである。
それと同じように、たとえ当時自棄であっても、照にも意思はあった。だからこそ、否応なく、少女は前へと進む。

「本を読むのは好き。ただ、私は別に部活動としてまでする必要はないとも思ってた。好きなだけ、だから」
「……そういうもの、ですかね? まあ、確かに文芸活動って読むだけってわけじゃないでしょうけど……」
「そう。私は読みたいけれど、書きたくはなかった。だからね。最初は何時辞めるか切り出そうか悩んでたかな」
「はぁ……部長なら即断しそうですけど、意外ですね」
「居心地は、悪くなかったから」

そう、居心地は良かったのだ。本に耽るばかりではなく、隣り合って語り合える、そんな稀有なヒトたちと時間を共に出来ていたのだから。
でも、止めたかった。好きだけれど、自分には向いていないことまで、する必要はないと思って。

「でも、一人の先輩にそれじゃダメだって教わったんだ」

それは、少女のカルチャーショック。沢山のすれ違ってきた人の中でも、彼女のことばかりは赫々と記憶に焼き付いている。
照は京太郎を見つめながら、言った。

「その人は、挫折した人だった。好きを頑張ってでも勝てなくて、負けに慣れてしまいそうになったの。だから違うことをはじめてみた、そんなヒト」

私から《《観》》たら、辞めずに続けていたらまだまだ伸び代がありそうだったけれど、照はそう零しながらも続ける。

「あの人は、いつも睨んでるみたいにして本を読んでた。それで、時々部の皆にどうすればいいのか聞きながら、文字を書いてそれを部活動の成果として発表してたかな。頑張ってる、人だった」
「へぇ……真面目な人っすね。そんな人を見てたから部長もやる気が……」
「ううん、その反対」
「え?」

疑問符を浮かべる京太郎の前に、照は瞳を沈める。そしてゆっくりと懺悔するかのように言うのだった。

「私はその人に、向いていないから止めたほうがいいって薦めたんだ」
「それは……」
「良くないこと、だったね。でも、その時の私は彼女の他の才能が勿体ないって思っちゃってたんだ。よく、あの人は怒らないで最後まで聞いてくれたと思う」

それ以外は出来て、けれどそれには向いていない。なら、他のことをやった方がいいのでは。

――――そんな言葉は果たして誰に向けたものだったのか。きっと自分に、だったのだろう。だから渡辺先輩は、笑っていた。

宮永照は、ただの人として後輩に向かって、先輩の言葉を伝える。

「その人は言ったの。強いから続けるんじゃなくって、燃えてるから進むんだ、って」

ちげーよ。あの人が優しくかけてくれたそんな言葉を照は優しく抱く。

そう、ページを捲るのは天禀でも偶然でもない。項を進めるのは、人の意気。そんなことすら、照は忘れていたのだった。

タイプの音ゆっくりと、しかし確かに向いていないことを少女は楽しむ。

「だから、私も頑張ってみたくなったんだ」

満面でもない、笑顔。しかしそれは誰より宮永照に似合っていた。故に、京太郎は見惚れてしまう。

風が本を捲らないから、自分で進めよう。神のごとき力を捨てて地に立って。彼女はそうして頑張ることを、はじめたのだろう。

 

「あー、よく寝た……ん、須賀ー。テルーは?」
「先に帰った」
「そっか……ふわぁ」

もさもさがすっくと立って、きらきらと金糸を纏う。身近の呆れるほどの綺麗に、しかし京太郎はまたしても見惚れることなくぼんやりとしていた。
だが嫌にそっけない相方に気づくこともなく、淡は天井に向けて伸びをしてアクビをしてから話しかける。

「淡が寝てる間に、部長は切りが良いところまで終わったってよ。スゴいよな」
「んー、そういや今日テルーってずっと書いてたね。何書いてたの?」
「ああ……それは」

それは普通一般、恋なんてまだ見当たらない、少年少女。
《《特別》》な金の髪した二人は、しかし当たり前に溶け込み、粗雑に互いを扱いあう。
友愛に抱きつく淡に対して、頭を撫でることで返した京太郎は、答えた。

「異能バトルで学園ものな小説」
「へー」

これは、そんな青春の一ページ。


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