ハクタクの半獣たる上白沢慧音の異能は「歴史を食べる程度の能力」が基本であり、月光のもとその力が頂点に達した際には「歴史を創る程度の能力」と化す。
彼女がその気になれば、過去の歴史はなかったとすることも出来るし、その上で望むままに創造を行うことだって可能だ。まことに、恐るべき力である。
とはいえ■■だった頃の慧音はその全てを正しく理解していたが、しかし今の彼女は喪失から生じた性根から自力を低く見積もっていた。
それこそ歴史を重ねた妖怪や神霊などにはただの幻術に近いものにしかならないだろうと、稗田阿求あたりに力の限度を聞かれた際にはそう答えている。
だが、それは勿論違う。
慧音の持つ力は本来、友だった八雲紫の「境界を操る程度の能力」や■の博麗霊夢の持つ「空を飛ぶ程度の能力」と並べても遜色ない程に無法で相手を選ばないものだ。
それこそ、幻想郷においてもそれに耐えられたのは桁外れの歴史を重ねた月人と枠外の存在である風見幽香くらい。
その上効果範囲も極めて広く、幻想郷という世界の殆ど全ての歴史の改ざんをすら一度に行えたのであるから恐ろしいものである。
もっとも、娘のため、自分を否定する用途で使われたという辺りは酷く虚しくもあるのかもしれなかった。
「本当に、慧音ちゃんったら、とっても慧音ちゃんよねえ……」
さて、その恐るべき力が行使されたその効果範囲の外にあった世界の外、魔界にて唯一の神が普段は逞しいサイドテールを気持ちとともに萎れさせながら、そう呟く。
一体全体幼い見目の中に、どこか母性を潜ませているような、不思議な彼女の名前は神綺。
恐るべき魔の頂点たる彼女は、かの風見幽香と魅魔の魔界侵攻の際にて、紛れ込んだただの巫女だった慧音を見初めていた。
「可愛いけれど、だから困るの」
神綺にとって慧音の好ましい部分は、その最強付近の実力などでは決してない。
彼女がこちらを見上げた際にその瞳の紅に孕まれていたのは、いっそ抱きしめたくなってしまうくらいの《《ありとあらゆるもの》》に対する恐怖。
優しき慧音にとっては全てが好ましいからこそ、自らが光であることに酷く恐縮してしまう。それこそいっそ、首を括りたくなる寸前にまで。
そんな性根を持って、しかし彼女は過つことなく■■の巫女をしていた。果たして、皆のためにと微笑み続けた彼女の心は知らずどれだけ追い詰められていたのだろう。
『神綺。貴女はどうして愛と命を両立できているのだ?』
そんな少女の疑問に、全知にほど近い程の神たる彼女は上手く応えることが出来なかったのを、よく憶えている。
酷く申し訳なさそうに苦しんで活きようとしているこんな慧音の歪な様子を、畏れられることこそ愛に似る神の一柱が気に入るのは半ば当然だった。
「はぁ。怖がりなのに、優しいから釣られて何処にだって行っちゃう……このままだと、あの子にはまた似たような末路が待っているでしょうね」
上白沢として重ねた歴史は殆どなく、故に明日を量るに彼女の足跡は物足りない。
とはいえ、神綺の記憶に残る■■の彼女の面影を今の慧音に合わせてしまえば、あんな壊れた心の行く先など知れたものである。
「やっぱり、その前に私が慧音ちゃんを確保したいところだけれど……」
一時感じたもののために眼差し落ちた神綺の掌の先に、異空が映る。そこには、絶死を前に空を征く上白沢慧音の姿のみが克明に輝いていた。
しかし愛する独りの絶体絶命を前に、魔界の神の指先は開かれたそれ以上に動かない。
むしろいっそのこと。そうも思う理由は、やはり残酷にも愛であり。
「もうっ。慧音ちゃんったら一回くらい死ぬほど怖い目にあった方がいいのよ」
そんな、生死を超えた先に到達している柱たる彼女の優しさでもあったのだから、神の試練というのは神綺ほど優しかろうが険しい。
「はぁ……ままならないもの」
ただ、それくらいは呟いてもいいだろうと、神綺は自らを許した。
ありとあらゆるものを抱くのであれば、その苦しみすら愛さなければならないのに、人というものはどうしてあんなに優しすぎるのだろう。
生きることと生かすことは、噛み合いが酷く悪い。そんな残酷に納得できないのが優しさであれば、そんなものこそ忘れてしまえばよかったのに。
■を忘れてしまっても自分を苦しめるばかりのそれだけは捨てられなかったなんて、どんな業。
私なんか、なんてこと絶対にないっていうのに、全く。
神の口元の弧線は思いに重なり深く、深く刻まれる。そして、赤く、熱くその言葉は再び零されるのだった。
「ああ……本当に慧音ちゃんはかわいいわあ……」
魔たる神を酔わすぶどう酒は、愛おしき人の業そのもの。
壊れちゃうくらい優しくって、別にいいじゃないと神綺はそれに限界が来るまで見守り続ける。
「好きよ?」
愛言葉は、簡素にしかし間違いなく。
そう、いくら削ぎ落としたところで悲しいくらいに歪に動き続けるそんなオブジェをこそ、魔界の神は心より愛していたのだった。
「……神綺様は本当に、旧い鏡を見るのが好きね」
指示を仰ぎに入室しようとしていたメイドの夢子は、それを見なかったことにして、そっと退出する。
去り際に彼女が呟いた一言の真意は、きっと神綺当人ですら分からないことだろう。
西行寺幽々子は春に死にたい。
そう思っていたことに彼女本人が気付いたのは、ごく最近のことだった。
それこそ秋の落葉に見飽きてから、冬の豪雪に応じるような吐息の白さに雅を覚えて適当な文句を諳んじていた、そんな日々。
白玉楼の人である幽々子にとって、死後を重ねることは当たり前のことだ。
冥界の管理を許された、ただ一人のお化け。命ある者に許された日常というものを、彼女は大切に愛おしみながら暦を一項づつ、丁寧に捲り続ける。
「あら妖夢。私ったらお昼ご飯食べたかしら?」
「小一時間前に、健啖にも三杯おかわりすらなされていたじゃないですか、幽々子様……お腹が空かれたのでしたら素直に仰って下さいよ」
「そうだったかしら~。過ぎゆくときに死者は中々追いつけないものね。私はもう満腹を忘れちゃったみたい。おやつに、雪玉みたいにまんまるなおもちが食べたいわー」
「分かりました……幽々子様が加減を誤るとは思えませんが……どうか間食は夕餉を美味しく食べられる程度に収めて下さいね」
「分かってるわ~。ありがとうね、妖夢」
「わ。な、撫でないで下さい……齢で言えばとうに私は子供じゃないのですから」
「ふふ。重ねた年を気にしている時点で老いを知るにはまだまだ早いわねえ。可愛いものよ」
「幽々子様……それは、私が未熟ということでしょうか?」
「そうねー。でも何を隠そう私もそれなりに未熟よ? おそろいね~」
「わ、抱きしめ……や、止めて下さい幽々子様!」
「ふふふ」
その日も彼女は半分くらい自分と異なる従者をからかいながら、日々の無聊を慰めていた。
抱きしめるのはそれこそ半人前の、半人半霊。人より温度の少ない魂魄妖夢だって《《霊》》度の幽々子にとっては手頃な熱だ。
時折ほっとするような熱を、この少女よりいただきながら終わった時を数え続ける。
サボタージュすることもなく、幽々子は本日に丸を付けつつ言った。
「今日も良い日ね」
「そうですね」
私は死んでいる。だがそれだけでつまらないなんて、意外と真面目なところもある幽々子は思えない。
また最悪でもなければ、日々に佳きところを覚えられるのが風流人という、そんな妙な自負もあった。
故に、四季が死後にも流れるここ冥界にて物足りなさがあるのであれば、それは一つ。
丸く小さければ最早餅というよりもお団子でしかないおやつを喜んでいただきながら、彼女は絶無の期待をあえて口に出す。
「もぐ……この桜、西行妖は今年こそ咲くかしら?」
「それは……」
いかに雪華に飾られようとも、蕾なき桜はいささか淋しい。
とはいえ眼前の冬に白く染まった曰く付きの大樹に、これまでの800年以上桜が咲いたことはなかった。
一度の満開を目撃したと師より伝え聞く妖夢とて、この桜が今を活きているようには思っていない。
しかし、まるでそれが何時か咲くことが当然の帰結であるかのように、笑顔で死人の白を輝かせる幽々子は言う。
「ふふ。先の春を信じられないかしら? それとも妖夢は別にこれが咲いてほしくないの?」
「ええ……どちらも、かもしれません」
「そうね~。普通はそうなのかしらねえ」
あっけらかんと、従者の異見を気にもとめずに大樹を望む幽々子。その姿が妖夢の目には何時もより儚く見えるのはきっと錯覚ではない。
白玉楼に根を張る、妖怪桜。他の木々とは明らかに違うこれに、世話をする妖夢はどうしたって愛着を持てなかった。
死んで、しかし枯れず。何時か幽霊桜と呼んだ人魂のことを叱った妖夢も、内心ではその通りかもしれないと思っていた。
毎年花をつけないところや、明らかに他と違う質感等、これを好きになれない理由なんて幾らでも語れるけれども、何よりも。
「でも、私は期待しているわ」
「……そう、ですか」
これの咲くことが、敬愛する主の一番の楽しみであることが明らかだから、かもしれない。
妖夢には、分からない。それは己が未熟のためかもしれないが、しかしどうしたって理解できないのであればそれは不安にまで繋がっていく。
ああ、この美しい故人は、どうして恋するかのように、妖怪桜に春を望むのか。
咲いた後には、一斉の花の死しかないというのに、それをすら想像もせずに。
確かに、今日は良い日かもしれない。しかし、来たるべきその日は果たして。
悩める従者に、悟っている死人は扇子を口元から動かし、閉ざしたその先に少女の視線を誘う。
微笑みを満開に、幽々子は戸惑う妖夢に言った。
「ふふ。待ち遠しいものだけれど、待つのは近いものだから私ったらそれを選んでばかりだったわね」
「幽々子様?」
「自然に任せるのは、美しくても望ましくない……そんなことを語るどこかの誰かもいたかしら」
「ええと……つまり?」
足りない分からない妖夢には真意を聞かずに命令として伺う悪癖がある。そして、此度はそれが幽々子にとって良かった。
なにせ、主の迂遠な自殺に付き合う従者なんてあり得ない。
だからこそ煙に巻くような曖昧を持って少女を誘導する幽々子は。
「冥界に春が足りないなら、持ってくればいい……妖夢はしばらく幻想郷に、向かいなさい」
もう、己が春に死にたいのだと《《知っている》》。
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その昔。あまりに美しき桜の下に、人があまりに多く死んだ。
やがてその樹は西行妖という死を呼ぶバケモノに成り果てる。
やがて父の命を呑み込んだ、しかしそれでも愛するその桜がこれ以上多くを殺めないようにと、その身にて西行妖を封じた女性が現れた。
そんな彼女こそ西行寺幽々子その人。
幽々子は現在亡霊として存在しているが、西行妖の復活がもしなされれば屍と合わさり彼女の死が完成してしまう。
――――それだけは、絶対に起こしてはいけない。
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さて。このようなスキマに隠されたとある事実や決意を幽々子が伺うことは出来ない。
「ねえ紫。花は咲くもの。そして散るものよ」
だが幽々子は賢く、むしろ嫌と言うほどそれに過ぎている。
それこそ彼女にとって、己が思うことも出来ない領域を想像するのだって、それほど難しいことではなかったのだ。
そして、遺った僅かな文献を紐解いた幽々子がそれに確信を抱くに無理など決してなく。
「きっと、春の底は冷たいけれど、私はそれを知りたいの」
死を吸うものでも幹の心地は変わらない。しかし、私は冷たくこのままだとそのままずっと永遠だ。
そんなものより、無常が望ましく思ってしまうのは風流人だからか。
封印に使われている己を起こして、死んだとしてもそれで良し。きっと私は桜の呪いも持っていってあげるから。
「そうもし私が綺麗だとするなら――――春には死なないと」
そんな友の最悪に佳しと丸を付けて終わろうとしている幽々子は、冬に満開の桜の夢を見続けるのだった。


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