あたしにとって、世界はとても痛いものだった。
でも、同時にとても綺麗で温かいものでもあったのかな、とも思う。
生きることが大変なのっていうのは、あたしにとって普通のこと。
何時も息をするとぎゅっと胸の奥が痛むことみたいに、今も昨日もきっと明日もあたしはどこか辛いままに過ごしている。
ただ皆はそうでもないみたいで、あたしは羨ましいなとも思う。でも、皆があたしみたいに辛くないのは良かったな、とも考えたりもするから複雑だ。
でも、花が咲く綺麗の裏に痛みがあったとしたら、あまりにそれは可哀想だから、あたしだけ辛いのでよかったのだと思う。
だってこんなに痛いのが他にもあるって考えると、泣きたくなっちゃうくらい悲しいから。
そして、この世界に生きることは、幾ら辛くたってずっとそうしたいくらいに価値のあること。
妹にお友達に、今は亡き大切。彼女らと居場所を同じくして、触れ合い、きらきらした明日を目指せることなんて、たまらなく嬉しい。
お父さんもお母さんも、あたしに生きていてくれてありがとうと言っていた。
でも、あたしこそこんな素晴らしい世界に生んでくれてありがとうと返したい。
それはもう出来ないけれど、幾らだって感謝は募るものだった。
でも、あたしは何時か死んでしまう。
普通よりも早く、でも葵よりもずっと遅く、きっと笑顔で消えてしまうのだ。
それはとても辛い。生きるのが素晴らしいからこそ、泣きたくなるくらいに死にたくなかった。
あたしがダメだっていうことは納得している。けれども、バツをつけられようとも、それでも顔を真っ赤にしながらだって生きたくて。
だからこそ、生にすがりつくためにあたしは今日もお医者さんの元にて身体を調整して貰っていたのだけれど。
「もう、大丈夫」
「え?」
リノリウムの床に、ぱたりと落ちるスリッパの音。
そんなものを余所にあたしは、おかしなことを聞いた。
大丈夫。それは何についてのことだろう。
もう十年も通っている慣れたお医者様、彼女が言うのにはきっと間違いなんて殆どない。
お父さんのお友達だったと知っているし、名医との噂も聞いた。
そしてそれ以前に、あたしのために無力を嘆いて泣いてまでくれたこの人をあたしは信じている。
でも、だからこそ不思議なことだ。あたしがもう大丈夫なんて、そんなことはあり得るのだろうか。
しかし、以前のような涙目で、しかし堪えながら笑顔であたしにこう続けるのだ。
「百合ちゃん。貴女の身体はね、これまで内臓に炎症が起きやすく、また心肺機能が不安定で、小さい頃にヤブ医者が行った下手な手術の後遺症だってあった」
「はぁ……そう、ですよね。あたし、だから全然ダメで……」
「でもね。今は、そんなに辛くはないでしょう?」
「あ……」
お医者様のその優しい言葉に、あたしははっとする。
少し前までずっと辛かった。でも、昨日今日は驚くほどに痛くない。それがあたしには嵐の前の静けさに思えていたのだけれど、違うのだろうか。
あたしの主治医は、赤い口元を柔らかに歪めながら、続ける。
「正直なところ、私も驚いたわ……手の施しようがない、そんな内側の異常がきれいさっぱりなのだもの。流石に、前の医者に無理に斬られちゃった臓器の方は戻ってなかったけど……」
「えと?」
「今回調べたところ、数値が殆ど正常。CT検査の結果だって、どこもおかしなところはないの。それがおかしいといえばそうだけれど……」
顎に手をあて、考える賢い人。
前のお医者さんに呪われているとまで揶揄されたあたしの身体がおかしくない、それがおかしいのは確かだと思う。
あたしが今回受けたのは血液に尿の検査に、CT。
体調の良さからひょっとしたら良化しているのではと僅かには期待していたのだけれど、こうも良い結果になるなんて。
ダメでバツで、どうしようもない数字が何時も。それがないのはあたしにはどうしてだかある意味裏切りのようにも思えてしまった。
ああ、あたしがおかしくなくて、本当に良いのだろうか。
めまいすら覚えたあたしに、でもお医者さんは頷きながら更に言い募るのだ。
「うん。でも道理なんてそんなこと度外視しても良かった。これで百合ちゃんは、きっと長生きできるんだから」
「え……」
「あ、勿論経過観察は必要よ? こんな奇跡みたいなことが起きて、それで良かったで終わるとは限らないんだから。また悪くならないように定期的に病院には来て貰うの。でも……」
長く、生きられる。それはとっても嬉しいこと。でも、そんなことは許されるのか、許されて良いのかという問いも浮かんでしまう。
でも、そんな愚問なんて賢者は知らずに。
ただダメな子が普通になったことを喜んでくれたお医者様は、感極まった様子で涙をこぼす。
「あは。ごめんなさい、泣いちゃって。これで、百合ちゃんも幸せに生きられるのだと思ったら、私が嬉しくって」
「あ……」
下を向き、するとテラテラした地面に歪んで反射した自分の無様な顔が映る。
あたしは素直にありがとうございますと、そう言いたい。
こんなに嬉しい言葉なんて他になく、またただの患者としては過分なくらいに目をかけていただいていた事実だってたまらない。
でもでも、これは果たして嬉しいことなのだろうか。喜んでもいいことなのか、あたしにはちょっと分からない。
だって、あたしはバカで、それでいいとは思えないけれど、どうしようもなくって、それだから幸せにならなくってもしかたないと思っていたのに。
だから、思わず感謝より、こんな問いが口から出てしまうのだった。
「あたしって、幸せになっても、いいんですか?」
それはあたしの、こころよりの疑問。
幸せになれないから、皆の幸せを願い続けていたのに。それが、おかしくなっちゃうのは。
いけないんじゃないかな、って思ってしまったんだ。
良かった。良かった。あたしの報告は、誰からも笑顔で迎えられる。
菊子おばさんに抱きしめられた。アヤメに泣かれて、紫陽花ちゃんには喜ばれる。
それだけでなく、以前車いす乗りだった頃によく助けてくれた看護師さんも、あまり知らないお医者さんからだって、良かったねと声をかけられた。
彼彼女らの喜色があたしの良化によるものであるのだから、あたしはにっこり笑うべきだと思う。
でも、何となく気持ちが遅れてしまい、ぎこちなく微笑むに留まってしまった。
「あたしは、あたしが幸せで、それで嬉しいのかな?」
分からない。あたしは不幸せでもずっと満足していたから、唐突にもそれを取り上げられてしまって、満足出来るか分からない。
そうして、何より幸せを願えていたあたしが皆の幸せを願えなくなったら嫌われてしまいそうで。
幸せなんてむしろ不安で、怖い。それがあたしの壊れた結論だった。
「あたしなんてどうでも良いから、真っ先に皆が幸せになって欲しかったのに、どうでもよくなくなっちゃったら、順序がおかしくなっちゃうよ……」
あたしは、ベッドの上で厚手のうさぎのパジャマにくるまれながらもむしろ寒さを覚えてしまい、ぶるっとする。
思わず布団の中に潜ったあたしは暗い中で更に呟いた。
「あたしはあたしを愛せるの?」
どうでも良かったから見返すことすらなかった、あたし。それを大事に抱いて今更を生きるなんてそんなことは、果たして心地良いものなのだろうか。
鏡に映ったあたしはひ弱で小さくって醜い何か。そんなものが、皆と並んで生きてしまって、正しい訳がないのに。
ああ、痛みよどうか教えて。あたしが生きていることが間違っているって再び。
「……どう、して?」
でも、あたしは心しか痛むことなく、ただ幸せに息を吸って吐くばかり。決して、あの磔刑にされ続けたような苦しくも懐かしい日々は戻ってこない。
だから、あたしは健全な身体で、皆の幸せを祈らなければならなくって。
悲劇の少女はもう居ない。ここにあるのは、ただの小さな死にぞこないばかりで。
だから、これから生きようとするのって、やっぱり大変なんだ。
「ごめんなさい」
あたしは、涙をこぼす。それは誰のためでもなく、皆のために。
あたしはでも、幸せになりたくって、なってみたくって、多分変わってしまうきっとこれまでは台無しになってしまう。でも。
「好きです」
それでも今のあたしは、あたしを痛めつけていたこの世の全てが好きだった。
『百合……好きって、何なんだろうね』
『生きて、生きてよぉ! どうか、ボクに君を諦めさせないでっ』
『全てを諦めて、良かったよ。私は、だからこそ、百合ちゃんの全てを知ることが出来た』
『お姉ちゃん。私たち、幸せだったよね?』
『これだけ頑張って、でも何も残らなかったっていうのは笑えるけれど……私はそれでも百合ちゃんの隣に居続けられたわ。それが、私にとって一番の報酬』
『花なんてもったいない。私はただの物言わぬ木でいいさ。そうして……これからずっと、あんたの大切を支え続けてやるよ』
『幸せなら、笑ってよ! 泣かないで、私の目を見て! そして百合、あなたは貴女の心を見るの!』
「んぅ……」
そのままあたしは泣きつかれて一人の夜に寝入ってしまう。
だから、何時かそっとあたしの胸に七つの色とりどりの花弁が落ち込んで、溶けるように消えたことには気づかなかった。
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