木ノ下紫陽花という少女は、お化けとして足りないところばかりだった。
尖っていないし、醜くないし、血も溢れていない。むしろ整ったそのままで、ずぶ濡れていた。幽霊、とはいえそれはあまりに人間的だ。
『寒いなあ……』
毎年白磁の肌に白雪が積もっては、消える。
紫陽花の死因は溺死。雨に遊んでいた際に、不注意で川に落ちて流されたことが永劫続く冷たさの基である。家族に生とはそれきり、離ればなれ。
そんな、死んだまま、誰にも見られることもなく少女は続いた。
幽かに、妖しく。しかしそれでいてどこまでも哀れっぽく紫陽花は街を彷徨い歩く。
『ボクは、一人ぼっちだ』
十から覚える気もなく、最早前に進むのは惰性で。しかし永く続いた放浪の中、少女は同類を発見したことがない。
それっぽい怪人達が闇に紛れ込んでいることを知ることが出来たが、けれども幽霊というものはついに見つけられなかったのだった。
ただ、どうにも自分を観ているような挙動をしている人間を発見したことはある。
『あの子なら……お話しできるかな?』
そんな彼女の名前は、水野葵。傍から見ても、とても特別な少女だった。
見目麗しければ、奇跡のようなことを起こせる力もある。はっきりと、葵は世界の輝きそのもののようだった。
『この子は違った、かな』
「……」
そんな特別も悪く言えばまるで乾いた熱源。変わった少女は永遠雨季の子供である紫陽花の心に嵌まらなかった。
また、葵は紫陽花の存在を努めて無視している様子でもある。人間が幽霊を認めないというのは、それは当然なのかもしれないが。
べろべろばあに、首筋ぺろり等まで何一つ効果を示さなかったことに落胆を覚えながら、また紫陽花は放浪を再開する。
『あの子……ボクと似てる?』
そして日田百合という少女と出会うまで独り、街中をずっと。
彼女の凍える指先は中々温まることはなかったのだった。
さて。しかしそんな紫陽花には友達と呼ぶべき存在が意外にも複数存在している。
それは、口避け女にトイレの花子さんに高女のような妖怪変化というには怪人的な存在であったが、互いに危害を及ぼすことが出来ない同性ということもあり、彼女らとは仲良くしていた。
尖って殺すべき指先は、しかし透け透け幽霊には届かない。だからこそ、彼女ら互いに安心しきって、親しげな言葉ばかりを交わすのだった。
「ふぅん。あっちゃん、ようやく人間に憑けたんだね。おめでとう」
『うん! えへへ。やっとボクもこれで一人前の幽霊だよ。花子ちゃん、ありがとー』
「それで嬉しいんだね。私、悪鬼羅刹の普通は知ってるけど、幽霊の一人前って知らなかったなあ」
『ボクもボク以外の幽霊って知らないから、一人前になれるって自分が決めてただけだけどねー』
「ふーん。こうしたいとかあるなんて、あっちゃんは真面目だね」
その内の一人、便所掃除が趣味のきれい好きな花子さんと、廃校のトイレにて夜な夜な紫陽花は会話中。
夜闇に月光がはめ殺しの窓から射し込むばかりの旧い個室。互いの距離は、自然と近くなる。
だが幽霊がくるりと傘を回した際に飛び散った在りし日の雨飛沫をも気にせず、花子さんは便座から地につかない足をぷらぷら。顎に小さな指先を当て、言った。
「でも、そうなら次はどうするの? その子を殺すのか、それとも生かしておくのかな」
『それは……』
無邪気に、花子という怪人は幽霊が目標とするだろう生殺与奪の選びを楽しみに微笑む。
殺すなら手伝いたいな、と零すこの顔色悪い小さなボブカットの怪異は、見目に反してどうしようもなく命に対して無慈悲だった。
まあ、そもそも悪感情抱かれることを普通にしている最悪であるべき怪談の一節が優しい筈などない。
ただ、少女も隣人たり得る幽霊に対してばかりは柔らかさを見せるのだが。
そして、同じく悪くあるべきだろうお化けの紫陽花は、無垢にも悪意に気づかず悩ましげにこう呟くのだった。
『ボクは、あの子に死んで欲しいと思ってる』
「そっか」
そう、鬼に諭されようとも変えることなど出来ずに、紫陽花は大好きな百合が亡くなることばかりを望む。
どうにかして、百合を辛い生から解き放ってあげて、その上で自分の隣にずっといて欲しいと、その一心で。
だって、お化けは楽しい。生老病死すらなければ、愛すら不滅。ちょっと冷たいけれど、こんな素晴らしいものに紫陽花は是非とも百合にも成って欲しいと思っているのだった。
しかし。それは果たして正解なのか。一人ぼっちの懊悩が、正しさを導くことなんて稀である。
『でも、どうやれば、百合がボクみたいになれるのかな?』
「ふうん。百合ちゃんっていうんだね。あっちゃんが憑いてる子。で、それであっちゃんはその百合ちゃんにあっちゃんみたいな存在になって欲しいんだ」
『うん……』
そして、案の定、花子は間違いを早々に見つけるのである。目を細め、どうしようかと少女は思う。
だが、優しさこそ相手を傷つけるべきものであると知っていた博識な引きこもりは、悩むのを早々に止め、努めて愉快げに嘲笑った。
「あっはは。無理だよ。そんなの」
『え?』
「ははは」
眼の前の幽霊は、口を開いて驚いている。したり顔して恨んでばかりが幽霊のイメージなのに、こんなのあまりに面白い。
まるで、ただの子供。そんなのが恋しているのだから、愛すら知らない花子の笑いは中々止まらなかった。
やがて、紫陽花の表情が疑問から不通からの不機嫌に変わろうとしたそんなタイミングで、ようやく笑顔を止めた花子は、結論づけるように語る。
「あはは……あっちゃん。君はね。何か勘違いしてるよ」
『勘違い?』
反芻するかのように呑み込んだ、その言葉。そう、全ては勘違い。
人に憑くのが幽霊のすることなんて、おかしい。だって、人が人の後を付いていくのは当たり前だから。なにせそもそも彼女は。
「君は一度も死んでない。人から幽霊と変わって、それでもずっと生きてるよ?」
『え?』
「私には分かるよ。あっちゃんが生きてるって。だって」
死の先にはなにもないよ。
人の子の噂で花子さんとされた少女は、白い顔を真面目にして、そんな真実をぽつりと零すのだった。
そこから出ていったのか、逃げ出したのか、よく、分からない。
自分の気持ちも、己の意味すら不明なままに、紫陽花という名の幽かな生き物は心音すら平たく無に近いままに、存在を転々とさせる。
学校はもう嫌だ。なら、繁華街か、それとも住宅街にでも向かおうか。分からない。
けれども紫陽花に、あの子のもとへ行くという選択肢はなかった。それは、何故だろう。漣だった心では、全くもって判別できない。
そうして、ビルの角を曲がり、塔を過ぎ、小道に迷い、辿り着いたは。
『行き止まりだ……』
そう。そんな心で何かを得ることは出来ないと言わんばかりの、行き止まり。
ここは何もない高い壁面で出来た、袋小路。無意味なこんなところなんて、本来あるべきではないのだ。
しかし、確かにあってしまえば、悪態一つでも吐いてでもしてから、帰らなければならない。
だって、生きるものがこんな無意味に安堵してしまうのはいけないのだから。酔狂だって醒めてしまう、ここはそんな空白地帯。
そして、紫陽花は幽かに霊のようでありながらも生きていた。だから、元に戻ろうとして。
「ぷぷ」
『高子、さん?』
捕まった。
それは、大いなる高み。ただの大柄の乙女。全てを見下げる悪意。ショタハンター八尺さん。世界を見つめるもの。
そんな愉快な全てを混ぜこぜに呑み込んだ、歪が上から、それこそ二メートルはある壁に顎を乗せて覗いている。
白いボンネットを押さえながら、数多の顔を持ちながらも一つ印象にし、怪人高女は笑みを持って挨拶をする。
耳元まで割けず、破顔というほどにはおかしくなく。しかし、どうしたって怖気を誘うその笑顔は正しくバケモノである。
彼女は、ぷぷぷと、嗤う。
「ぷぷぷぷ。こんばんは、紫陽花ちゃん。相変わらず、貴女はキレイね」
『高子さん……ありがとう』
あんまりなまでの目上にキレイと言われて、頭を下げる幽霊。
意外にも、こんなどうしようもないひと柱は、気さくでそれなりに紫陽花のことだって気にしてくれる。
だから、霊は礼を失しないし、そもそも好意を持ってすらいた。
「ぷぷ」
勿論。そんな甘さなんて付け入るべき味に過ぎないのに。
だから、こうして今日も今日で弱みを探るのだ。心より心配しているかのような音色を作り、わざとらしく高子は聞いた。
「ぷぷぷ。でも、貴女をよりキレイにする元気はどこかにいっちゃって、寂しいな。ぷぷぷぷぷ。何かあったの?」
『えっと……ボク』
何があったのか。それは、あるとしたならば、一つである。
自分は生きていて。ならば、そもそも百合が死んでも一緒にはなれない。
むしろ、彼女が死んだら永遠の別れになってしまうことは間違いなくて。
儚さに、幽かは合わない。そんなことを認められず、いやいやをしながら紫陽花はつぶやくのだった。
『……ボクは、あの子を幸せに出来ないのかな』
「ぷぷぷ。それが紫陽花ちゃんの悩みなんだ」
『うん……』
紫陽花の吐露を聞いて高子は想う。
小さい。けれども、見下げる全ては殆ど一緒。ならば、これだって大切のいち。
そう、穢すのに、潰すのに面白い一つ。壊して、愛して、そして亡くす。
そんな呪わしさこそ、怪人の意味。それに則り、この世の重みですらあるいと高き存在は、だからこそこの世に有り得てはいけない不滅に手をかけるのだ。
相手を鉤爪のような細い指先にて指し。そしてにっこりと。高子は化けの皮を脱いでく。
他人の顔をフラクタルを重ね過ぎた結果、顕になっていくその無貌に笑みという歪みを重ねた大間違い。そんな大女は、何一つ理解していない幽霊に対して。
「ぷ、ぽぽぽ……確かに、貴女は幽かでしょう。でも、無意味ではないわ」
『高子さん?』
「ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ。視座が同じであれば、共にあるのならば、熱が足りなくても救いになる。それこそ……ぽぽぽ」
終わりを口にしようとして。
「止めなさい、高子」
「ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ」
ちょきんと、話を切ったは口裂け女。黒く真っ直ぐな長髪ばさり。振り向いた損なわれた顔の懐かしさに紫陽花は。
『艶子さん?』
自分でも分からないくらいにどうしてだか、安心しきった声をだすのだった。
幽霊にほほえみを向けてから背を向け、マスク一つすらしない裂けた口角から血の泡を立てながら、艶子という自称の口裂け女は高子と相対する。
「高子」
「ぽぽぽ」
そして、対した相手は終わっていた。死んでいて、怖めいていて、狂っていて、壊れていて、最早そんな全てを感染させる神でもあるのかもしれない。
ああ、これは無理である。怪人、とはいえ生き物の手に負えるものではない。けれども、そんなことにすら気づかない幽霊のためになら、頑張ろう。
本来ならそんなの、無謀だ。けれども、大切なものを守るためならば、どんな無理だってできるのだ。震える足なんて、知らない。気づこうともしないのだ。
だから、ざくりと口裂け女は、バケモノの急所に言葉を切り込めたのだろう。まっすぐに、彼女は彼女に言ってあげた。
「全てを呪う神だって、一人の幽霊の幸せを望んでいいと思わない?」
「ぽぽぽぽぽぽ。貴女はそういうこと、口が裂けても言わないと思ったんだけどな。ぽぽぽ」
「愛はロマンよ。そんなの、人でなしにだって、分かること」
「ぽぽぽぽぽ。ワタシには分からないなぁ……ぽ、ぷぷぷ」
愛。それは共通言語たり得ないけれども、そうあって欲しいと、彼女たちは思っていた。
だからこそ、呪われていようとも彼女たちはこれ以上台無しには出来ない幽霊を可愛がったし、愛そうと努力していたのだ。
今日は思わず性の枷が外れていじめたくなったけれど、でもそれも小さなバケモノの挺身によって収まった。ならば、また手にできた偽物の愛を持って。
『高子さん?』
「ぷぷぷ……またね、紫陽花ちゃん」
『なんかよく分かんなかったけど……はい!』
またね。
高子はキレイで元気な幽霊に向けて、渾身の笑みを見せて消えるのだった。
やがて二人袋小路から戻るために歩み。そして、酷くくたびれたばかりで、偽神を穏やかに退けた口裂け女は。
『わ』
「ごめんね。私は、実はあんたに触れた」
『そ、そうだったんだ……』
紫陽花という名の咲かない幽霊を抱く。
ああ、冷たい。こんなものが独りでずっと。そんなの、辛いだろう。でも、ようやく。
同じくらいに吹けば飛ぶような存在に至れたから、触れることが出来た。
それが嬉しいけれども、そうなると熱すら与えるのに足りないか。最初から触れたなんて、気遣わせないための嘘なんて健気と想いを残し、一度艶子は離れた。
紫陽花は、百合以外の友達との接触に嬉しそうにしている。そして、変わらずに間違えてしまうくらいには無垢だ。
それこそ、自分なんて口裂け女を本心からキレイと思い込んでしまうくらいに。
愛おしい。でもお別れを言わなければならないだろう。口裂け女は終わりの空を見上げた。
ああ、空は主人を失くした痛みに裂けた。それが終わりだとは知っている。何しろ、自分は口を裂けさせて人を終えた存在だから。
そして同じく。分かっていた。自分のような終わっている存在から先に、この世から消えていくのだろうとも。
真夜中の中。果たして私は隠せているだろうか。コートで覆った終わりに顔と心以外ぐちゃぐちゃに裂けた身体の全てを。
怖がらせないように、怖がらせるために生まれた怪談は努めて笑んで、裂けに滑稽なまでに笑みを深くしてから、語る。
なんとなく、紫陽花は彼女の終わりを理解した。
「紫陽花」
『艶子さん……』
「もう、実は色々とこの世界は詰んでるわ。時間は少ないのかもしれない。でも……」
パキリ。それは何が裂けた音か。分からなない。分からないくらいには、殆ど全ては終わって痛いばかりで。
でも、口裂け女は知っている。何より痛い心の傷を。そして、それを抱えていようとも足掻きたがる生の価値を、最期にホラーではなく純にも物語るのだ。
「諦める理由なんてない。たとえ呪われようが、生きたいというその気持ちばかりは間違いないの」
『あ……』
そして、想いを伝えるために一歩寄った。そのために、足が残って、残った全ても崩れて消える。
これは、どうしようもない。紫陽花は、だから悲しさよりも真っ先に、それでもなにか伝えようとしてくれるこのヒトを真剣に見上げる。
瞳、交差。そして、真剣に、彼女は彼女に疑問をぶつける。
『艶子さんは、どうしてボクに優しくしてくれるの? ボクになんか……』
「なんか、なんて言っちゃダメ。私はね。紫陽花のことが好きよ」
だめな子を指先で、つん。それだけの動作で壊れて駄目になった右手をどうでもいいものとし、口裂け女は笑んで。
「貴女は私をキレイと言ってくれた。それだけで、私は救われた。なら、貴女だって救われたっていい。……いいえ、私がどうやったって、救うわ」
口が裂けた女は、わたしきれいと疑問を続ける。永く、長く、そして。本当に口が裂けた女をキレイと思った一人の幽霊の一言によって、救われた。
そんな、ホラーの余計な蛇足。しかし、そんな不格好こそを大切に懐き。壊れた口元を更に愛で歪めて、艶子だった口裂け女は。
「全てに嫌われても、貴女は彼女と生きなさい」
ぱりんと、怪人なんて空想いらないものと真っ先にこの世に否定され、崩れながらも確かにこの世界に愛言葉を残したのだった。
この世に口裂け女は、そうしてなかったことになる。紫陽花の、前でバラバラに消え去った。
『艶子、さん? あ……あ、うわ、あああ!』
それに泣くのは当たり前。愛していて、愛されていたと知ったから。
でも。
『あり、がとう……』
涙を手のひらで躙り、彼女は身の雫に混ぜて、前を向く。
それが、愛を託された紫陽花という少女の生き方で。
『この世は、あったかいんだね』
愛を知った、幽霊の進むべき道だった。
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