ルート6 浄土の芳香 土川楠花(なか)③

原作版・皆に攻略される百合さんのお話

「楠花ちゃん、今日も学校に来なかったなあ……」

時は百合と楠花が心通わせるようになるしばらく前。それこそ埼東ゆきが砕け散る頃合い程近くのこと。
光の芸術の如くに写実に欠けている存在であるところの日田百合は、随分と冷え込んできた帰り道をせかせか歩んでいた。
坂に遅れる足たちをこんなところで停まって死なせまいと懸命に動かしながら、彼女は白色に呟く。

「大丈夫か、心配。楠花ちゃんはあたしと違って強いけど……でもだから辛いかもしれないし、本当のところを分かってあげられないのが、困っちゃう」

人でなしですら愛するべき生きとし生けるものの端っこ。そんな百合の認識からすれば、あのお友達は逞しすぎて遠くって愛おしさも思いやりもこれまで届けられた気がさっぱりしないのだ。
鬼形を纏った、膨大な樹木の最底辺の突端。そんな楠花は、尊い他人を愛おしいとしか思うことすら出来ないくらいに薄弱な、当人曰くオバケな百合とは大違い。嫌われ、たとえ殺して滅ぼしても生存を続けるその存在の仕方は、禍々しくともあんまりなまでに命というものを体現している。
そして、そんな彼岸の存在であるからこそ少女は気になって仕方がないのだ。何しろ、この世を外からひっかいて孔を空けるためのものだという鬼に相似した頭上の角のような硬い根冠は、百合が被るべき光輪なんかよりもずっと。

「楠花ちゃんはキレイだし……もっと幸せになって欲しいな」

その見た目はまるで透き通った黄金。そんなありとあらゆるものを害する楠の尖りが、どうしてか百合にはたまらないくらいに美しいものに見えている。何せ金剛など超越するほど硬質なまでに力みきった無遠慮なそれこそ、いっそ生々しいほどの自愛の証。
私は私が嫌いだけれど、いっそ本気で好きになる相手はその反対が良い。何時かそんなことを考えたことも、百合という少女にはあったのだ。

「うぅ……寒いよぉ……早くお家に帰らないと!」

そして、想いの隙間に一陣の風が吹く。百合が纏っている桃色カーディガンは温さにまで届かない、冷たさに対する誤魔化し。スカートの下の白い肌は鳥肌になることすら忘れてなだらかに凍えている。小さい湯たんぽのようだった百合は、努めようともまず温度をはじめに生から死へと外れてきているのだった。
イエローアラートは通り過ぎ、後はレッドシグナルが瞬くのを待つばかり。その内百合は元気のフリすら難しくなっていくことだろう。

「よし……うん?」
「もし」
「わ。あたしの肩に触れたのは貴女? 貴女は……」

だが、時にそんな緩やかな黄から赤への色彩変遷に割り込んで来る者がいた。フェザータッチよりもさり気ない、そんな接触をしかし敏にも感じ取った百合は振り返る。
うしろの正面だあれ。そんな言葉を操るまでもなく、その存在は自己紹介を始める。
円かに過ぎる、多貌の容姿。そんな世界の中央、在り来りのアベレージを整いとして身につけた女性は、はにかんでからこう言った。

「はじめまして、ですね。私は山田|静《しず》。とある楠の人を探してここまで来ました」
「くす……の人? えっと、よく分かんないけど……」

百合は唐突な登場をした年上美人さん、静という女に違和感を覚えられず、ただ目をぱちくりすることでその綺麗を受け入れられた。
この世の全ての負と正の容貌レイヤを重ねることで出来上がったど真ん中の容姿は、きっと誰から見ても好し。そして、山田静というのは、真にそれそのものである。
似合いの敬語を用いながら、外れのない皆中の人間はわざとらしく顎に人差し指をあてて悩んだ。静は、続ける。

「ええと、現在現界中の楠の人は確か……楠の花と書いてなか、と読む方だったと私は覚えていますが……」
「なか……楠花ちゃん? お姉さん、楠花ちゃんとどういう関係の人?」

その言葉に警戒は一つもなし。少女の中にはただ薄っぺらな疑問ばかりが浮かんでいると、山田静は看破する。
与し易く、けれども破れやすいから希少。なるほどこれがヒロインとして選ばれているのはそんな理由が主かと彼女は感じもした。
だが、それだけ。愛すべき存在をこの世にない妹ともう一人くらいしか規定していない静は博愛の天使の前でも冷静に、言葉を紡ぐばかり。
百合をただの普通に不通の一人と認めて、彼女は漫ろにも青くて赤い、空を見上げていた。

「楠の人とは旧くからの知り合いとなりますね」
「えー。お姉さん、ひょっとして楠花ちゃんの親族だったりする?」
「いいえ。私はアレらほど特別ではありませんよ。ただ互いに知り合っているばかりで……だからこそ、ですかね。近頃顔を見ていないために少し心配になって、見に来ました」

滅亡は明日か、明後日か。そんなの一般的に分かるものではないからこそ、彼女は鬼を観ていた。そう、静は望めぬ観天望気の不安に、本日世界の中心に歩んできている。
だが終わりなんて空の加減一つと識っている乙女の明日への心配を、百合は普通に楠花自体への不安と採った。
それは、知り合いが顔を見せないと不安だろうとまっさらに思い、役に立てぬ己を責めながらも彼女はこう言う。

「そうなんだ! うーん……楠花ちゃんはここのところ学校にも来ないし、あたしも最近は殆ど会えてなくて……」
「そうですか……ふむ」

今度は親指を顎下に当て、何やら考え出す静。だが彼女の通信状況は常にオールグリーン。電波の入りは何時だって良好だから、それはあくまでポーズでしかない。

「どちらでもいいですが。ならば動きましょうか」
「え?」

並行世界からの電波の流入により静に今提示されている選択肢は二つ。見捨てるか、見捨てないか。
どちらにしようかな。それを時間のなさから雑に決め、彼女はおもむろに両手を上げる。

「わ」

急にお手上げになった美人さんに目を丸くする百合。

「――嘘でしょ?」

そんなだから、彼女は知らない。その頭上はるか彼方から、今まさに魔法少女が死の魔法をかけようとしていたことを。そして、壊れる前に必死の概念を込めた槌が振り下ろされる寸前で自分へと掲げられた手の平に、埼東ゆきが山田静を認知したことだって、分からなかったのだ。

「そんな……」
「ゆきちゃん?」

だが次には、瞬きの間に魔法少女が眼の前に。良く分からないの次に、知っているだけの少女が不安げに静を見つめている。
そのことの意味すら分からない無垢を他所にして、事態は先に進んでいく。
もうこの世にどうでもいいとされ、フォーラーへと変化中のゆき。世界からの落下の威力に耐えるためにかけた魔法でもばらばらになりそうなくらいに痛んでいるその矮軀は白くなるまで力んでいた。
そんな無理して生き延びようとしている魔法少女はしかし諦めから自殺を図ろうとして、こうして邪魔される。
動かしがたい基準点、無敵の個人。そんなものがまさか、何時でも潰せると高をくくっていた相手の側に、決心をした今に偶々護っているとは。
垂れたツインテールを遊ばせ、絶望すら懐きながら、力なくゆきは呟く。

「なんであんた……こんなとこにいるの?」
「あら。私は《《どこにでもいる女の子》》ですから。当然こんなところにだっていますよ?」
「嘘つき……ゆりお姉さんを潰せば、なかお姉さんに辛くなく殺して貰えると思ったところに居るなんて、おかしいよ」

そう、おかしいくらいに私は運がないと、ゆきは思った。
気が狂いそうなくらいの身体をバラバラにしようとする程の痛みから、《《恨》》人の想い人の殺害を思い立ったのがこの上ない凶日だったとは、どういうことか。
それにそもそも、大切にしていた姉は魔道に堕ちた結果鬼に殺され、その鬼への恨みばかりで生きていたら、それ以外の全てが削れて失くなってしまった今だっておかしい。
また最低の嫌いが至上の好きに変化してしまっていることなんて、笑ってしまうくらいに面白い事態で。

「あはは……もういいや。全部、死んじゃえ」
「ゆき、ちゃん……わっ!」

だから嘲笑って、最期に彼女は狂った全てのネジを外してしまおうと血迷う。
構えた杖には破壊の概念、いやむしろ権能とすら呼べる程に極まったゆきの魔法が篭められた。
途端、ハンマー状の先端からあまりに赤く、赤く。瞬く間にこの世が帯び始めたものとそっくりな滅びの力は拡散しようとしたのだが。

「まだ、ダメですよ?」
「あ……」

その人の白魚の指は、終末すら包み込む。
当然至極、山田静という道理に干渉出来ない全てはなかったことになり、消え去った。
全力を微力の指にて無効化されたことに唖然とする、魔法少女。思わず、彼女は絶対に敵対してはいけないとお姉さんに言われていた相手に、問った。

「あなた、何?」
「貴方がた、単世界が捻り出した免疫としての変わった理屈ではなく、楠の方と似て非なる、多世界の道理を拝借した一です」

結んで、開かない。ひと繋ぎの少女はこの世の全てよりも確とある。
最早何がなんだか分からず、ただ口をぽかんとしているだけの周回遅れの百合の隣で、多世界を纏める同一個体は踊るように頭を後ろに降ろしてから、こう断言した。

「楠の方が最強最大ならば、私は絶対唯一の無敵。魔法少女程度では、私の守りは抜けません」
「う……」

今更ながら、楠花が私でもアレには勝てないと口にした意味をゆきは末期寸前にて理解する。

「え? これ……」

ぱらぱらと、飛散する赤が殺されそうだった百合の頬にかかった。
もう末端から破片になっていくことすら禁じられない、後のない幼子。
静はその前に立ちふさがったまま、正しい逃げ道を指し示す。
それは、遠く遠く、海の向こう。戦いの音すら聞こえない位置にて、しかし本気で電波を受けた少女は正確に鬼を見つけていた。

「さ。尻尾を巻いてお逃げなさい。鬼さんはあちら、ですよ」
「っ!」

そして、恐怖と愛ゆえにもう他の何もかもがどうでも良くなった埼東ゆきは静の指先の方へと、またテレポートを行使し、消える。
すると、赤く頬に張り付いた筈の彼女の一部すらなかったように消え去ってしまい、だからこそ。

「ゆきちゃんも……死んじゃうの?」

それは幻想の血のようで、魔法からの解放を示唆するもの。百合は、魔法少女の終わりにだけは気づけたのだった。

「ええ」

返答は、無情な頷き。その黒髪は靡くだけで、救いにはならない。だが、その肯定にてようやく事態を飲み込むことだけは出来る。
ゆきは自分が死ぬ前に、逆鱗に触れようとした。きっと、好きな人に優しく殺されたかったのだろう。そのために、あの子はあたしを使おうとしていて、この人に防がれたのだ。
大体を理解して思わず、百合はこう口にした。

「あたしなんて、助けなくって良かったのに」

それは、死に損ない続ける少女の本心。意味のない己の死が誰かのために上手く使われるのならば、そんなの幸せだったのにと間違って響かせる百合の瞳は、これまでになく死に近い。
危うく、今にも空のように砕け散りそうな心。そんなものにだって慮ることなく、しかし静は事実を述べる。

「でも、私は助けましたよ?」
「あ……う……」

そう。曲になりにも彼女は選び、そのために彼女は助かったのだ。
ようやく己の命が拾われていることを理解した百合は、優しくない綺麗極まりない絶対者を前に瞳を湿潤させる。

「……ありがとう、静さん」

そして、感謝ばかりを伝えたのだけれども、そんな程度の低いものなど要らないと、静は首を振って光を長髪にて多分に梳く。

「感謝は要りません。ですが……折角です。貴女は幸せにでもなったらどうです?」

それはまたどちらにしようかな、の結果の酷な言葉。こんな小さなものなど不幸に成ったところで構わないけれども、そんな当たり前よりもどうせなら幸せにでも成れば面白い。
それだけの、決定。そこには何一つ愛などなく、ただの提案だったのだけれども百合は頷いた。

「分かった……そう、するね」
「はい」
「あたしは幸せに、なるよ」
「分かりました……それでは」

そうして百合は救われた命になったからこそ、その先にはじめて自分の幸せを望むことが出来るようになったのだった。
折角大事にされたのだから、それを大事に使わないなんて、もったいないよ。その程度の、固く結ばれた思い。
だがそんな依存心すらどうでもいいと、背を向けて去る山田静。
足音はろくに、響かない。そのあまりに他を容れないその小さな背中に向けて。

「命の限り、もうあたしは好きを諦めないから」

無害極まりないお人形さんだった百合も、そんな決心ばかりは投じられたのだった。


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