「あれ?」
「百合……」
「どこか痛いの、百合ちゃん?」
儚い水の軌跡がぽろぽろと。煌めきながら頬から流れて哀を描く。丸みを伝って落ちた雫は、少女の小さな手のひらの中で弾けて消えた。
そう。百合が久しぶりに椿とふようと共に喫茶店でホットミルクを飲んで駄弁っていると、唐突に、彼女が泣き出したのだった。
自覚がないのか、落涙が手に当たったことに驚く百合に、ふようは理解の色を浮かべ、反対に椿は疑問ばかりで心配する。
ごしごしと、どうしようもない感情の発露を袖の湿り気としてから、百合は溜息を吐いた。
「はぁ……ごめんね。皆が楽しんでいるときに、私泣いちゃって。……うん。別に何か痛くて泣いたわけじゃないの」
「なら、どうして?」
問う椿。口さがない者達にはドリルとすら揶揄されるカールの極まった髪型をすら優雅な装いにする彼女は、心からの心配をすらその身の綺麗の一部とする。
微笑めばまるで愛の化身とすら見える椿に、百合は大変なありがたみを覚えてから、告白した。
その隣で、彼女の次の言葉を察して哀しげにしているふようを目に入れず。
「楽しかったから、悲しくって。……こんなに楽しいのに、もう一緒に葵とこんな風にして楽しむことが出来ないんだって思っちゃうともう、駄目。涙が溢れちゃったの」
「百合ちゃん……」
「……やっぱり」
悼みに塗れて塗れて、泣き濡れて。それでも哀悼の想いは尽きることはない。ある程度安定してきたとはいえ、百合の心はずっと、今は亡き葵に向けて傾いているのだから。
びっくり箱とすら空目する程突飛な内面を持つ愛おしき、マホガニーの少女。まるで自分と対象以外の周りが見えていないかのように、彼女は百合を何時だって愛していた。
それはそれは温かくって、だから時が経ち感触忘れてきたからこそ泣き濡れる今が冷たい。
「本当に、ごめんね、椿ちゃんにふようさん。あたし、二人のことが大好きだよ。一緒に居て、とっても楽しい。でも……あはは。やっぱりあたしはまだ、葵のことだって大好きみたいなんだ。今が楽しいから、つい思い出しちゃうの」
「そう……あ」
「ふふ……」
ぐすんとする百合の頬に、気遣わしげに当てられた、桃と緑のハンカチが二つ。
両の脇から殆ど同時に差し出されたその下手人二人は、偶然に驚いて見つめ合い、ふと笑った。そうしてから、普段は言葉少ないふようが、だからこそ先に百合に向けて言葉をかける。
「……百合が謝ることはないよ。泣きたくなるくらいに人を想えるって、それってきっと素敵なことだから」
「ふようさん……」
「ふふ。ふようちゃんの言う通りね。ここに居ない人を想えるっていうのは、百合ちゃんの優しさの証明よ。……ただ、ちょっと妬けちゃうから、私達のことをもうちょっと気にしてくれると嬉しいけれど」
「椿ちゃん……そうだね。あたし、しっかりしないと!」
友達の言葉に感じ入った小柄な乙女が、えいえいおう。元気を子供の全身で表す。
自分はいくら傷ついてもいいのだからと、人の言葉を信じ込みやすい百合にとっては、思いやりなんてものは薬を越えてもはや劇物に近い。それだけで、カフェインなんかよりもずっと、彼女を元気にさせてしまう。
もう大丈夫だと健気に跳ねるふわふわ髪を撫で付けたのは、椿だった。彼女は、以前壊しかけたことのある少女を大切に撫でさすりながら、言う。
「百合ちゃんは、充分しっかりさんよ。でも……うっかりさんでもあるのが困ったところね」
「ん? そう?」
「そうよ……ほら。ポッケから何か落としちゃったわよ」
「あ……それは」
「……鍵と、花のキーホルダー?」
百合の足元にころりと落ちていたそれに、注目が集まる。定型的でつまらなくすらある銀色の鍵一つに、その可憐は結び付けられていた。
空気の輝石のような透明樹脂――レジン――の中に込められた、赤いひとひらひとひらが丁寧に折り重ねられて出来た、優美。
手の込んだその綺麗さよりもその意味に心行かせた二人をよそに、さっと拾った百合は笑顔でキーホルダーの故を解説する。
「これ最近アヤメがどこかの教室で教わって作ったんだって、一つくれたの。こんなあたしの手にも収まる小さなバラの花、可愛いよね!」
「真っ赤なバラ、かぁ……分かりやすいわね」
「……妹ちゃんも強気」
「ん?」
妹を愛し放題の子と思い込んでいる百合はバラの花言葉を知らないし、思いも寄らない。まさか、自分が負けずに愛されているなんて、そんなこと。
だが、日田家にお邪魔するたびに睨まれている二人に、そのバラのキーホルダーがある種のマーキングであると察するのは決して難しいことではなかった。
どうせ届きはしないのにと呆れる椿に、どうやればアヤメに認めて貰えるか一考してみるふよう。細い首を傾げる百合を置いて、しばし沈黙が流れた。
モノクロームでシックな店内に流れるジャズの音色に、哀しげなリズムは何処にもない。涙は乾いて、ミルクは冷たくなった。
はちみつが隠し味のホットだったミルクを、冷えて飲みやすいと特注と知らずにごくごく飲み込む猫舌の百合を、友達の皮を被った捕食者二人は愛らしいものと見つめる。
知らない間に口の周りをミルクの白で装飾してから、百合は彼女たちの前で朗らかな笑顔を咲かせた。
「ぷは。美味しかったー」
「ふふ、百合ちゃん。口の周り」
「あ。夢中で気付かなかった……白いおひげ付けちゃった?」
「そうね。ほら、拭いてあげる」
「ん……ありがとう!」
「ふふ……」
白く汚れた百合の口の周りをどこかぽうっとしながら拭く椿。よく拭いてもらうためにと口を尖らせる百合に、彼女が口づけたいと心底思い迷ったことを、反対側から認めたふようばかりは知っている。
だからこそ、彼女は冗談めかして言うのだった。
「……椿、百合のお母さんみたい」
「ふよう? そんな、私が百合ちゃんのお母さんなんて……」
「椿おかーさん?」
「――――百合ちゃん!」
「わぷ」
「一瞬で堕ちたね……」
己の汚さを思いとても自分は優しい彼女の親たり得ないと冷静に考える椿だったが、子猫の瞳で見上げる百合に対して、彼女の豊かな母性が我慢出来る筈もない。
柔らかさに埋もれる百合を抱きながら、椿は婀娜持つその顔を蕩けさせて、笑む。ふようの目から見れば有り体に言って、それはいやらしい表情だった。
やがて、豊満に包まれて呼吸を難しくしてしまった百合はしばらくもがいてから顔ばかりを椿の胸元から脱出させる。そして、整った面で真剣に見つめてくるふように、おもむろに言った。
「もが……ぷは。でも椿ちゃんがおかーさんなら……ふようさんは、おとーさん?」
「……百合。三人目は男の子がいいかい、それともまた女の子がいいかな?」
「おとーさん、子供に家族計画を相談しないでー!」
「ふようったらまたそんなこと……教育に悪いわ。まあ……私は次も女の子がいいな、って思ってるけど」
「おかーさんもノリノリだ! でも確かにあたしももうひとりくらい妹欲しいー!」
悪ノリする二人の間できゃあきゃあ言う百合。中身までも子供な彼女は、仄かでも性の匂いがする話題に弱い。
照れて真っ赤になりながら、それでも懸命に話題に乗っかってくれる百合に、椿とふようはご満悦。本人が努めてくれているだけあってそろそろ彼女も葵のことを忘れてくれたかな、とも思う。
「うふ」
「……ふふ」
「あはは」
満開の笑顔、三つ。
だがその中、悼む彼女は痛みを忘れることはない。悲恋は重く、彼女の心に伸し掛かったまま。
友達の前で恋人を忘れられられないなんて、百合は自分のことを過去を引きずるばかりのオバケと同じだと、思う。
それでも、ただ目の前の人たちのために頑張らないと、と少女は涙を堪え続けている。そうして笑うからこそ、彼女の笑顔は尊く見えて、暗に痛々しくもあった。
オバケは言う、うらめしや。さて、オバケは何が恨めしい。きっと何より何も出来なかった己の無力こそが、一番恨めしいのだろう。
『あの子……ボクと似てる?』
その日。はめ殺しのガラス窓から、ショーウィンドウを覗くように瞳をきらきらとさせて、永遠雨季の少女は壊れた笑みをする百合を見つけた。
くるりと、黄色い傘は彼女の手の中で転がり、足元の長靴が枯れた地面にリズムを刻む。それは全て、恨めしさを忘れるほどの、上機嫌のために。
『彼女なら、ボクを見てくれるかな』
微笑む少女は、車のライトすら透けて通る程に幽か。だが、彼女は確かにこの世を恨んでそこに残っている。
永遠少女は微かな百合を見て、以前少しの間憑いてみた相手と違って彼女ならきっと、と思わずにはいられなかった。
似ているならば、通じるものがあると信じるのも、仕方ない。そう、本物のお化け――木ノ下紫陽花は、自分を見て欲しくって日田百合に取り憑くことに決めたのだった。
満天の星空に、繊月が輝くそんな夜。あたしは一人、残り少ない帰り道を歩く。舗装された道に、電灯の標。それらに導かれるように、あたしは闇をふわふわ進んだ。
じゃあねの言葉は少し前。椿ちゃんとふようさんと別れた後から口はぴたりと閉ざされたままだった。思い出したように、ふうと息を吐き出してから、あたしは隣の暗がりに目を向ける。
暗くてよく見えないけれど、確かあそこは広場で、そこにはスイセンの花が咲いていたと思う。今も薄ぼんやりとした影が風に流れて、黄色い花の存在を思い出させてくれる。
けれど、今はその綺麗の殆ど全てを伺えない。それをとても寂しいことと、あたしは思うのだった。今だって、ここにあると示すために彼女は咲き誇っているというのに。
「でも、そんな夜だからこそ、輝くものだってあるんだよね」
闇に映えるのは、赤や黄色の電光たち。街を彩る装飾は、今はあたしが見上げる高みにばかり存在して、案内を示してくれる。
輝きはそれだけで美しく、闇とのコントラストなんて、あたしが言うまでもないことかもしれない。
そもそも、黒の世界もそれはそれで一色の絵画として趣あるもの。モノトーンが悪とは、あたしだって流石に思わない。
ただ、闇の中に蠢くものを、悪いものと取ってしまう心があるとも知っていた。それは恐怖心。枯れたススキをオバケの手と勘違いする、そんなことだってあったのだろう。
「オバケかぁ……居てくれたらいいのに」
でも、あたしは揺れるスイセンの花を、葵の手のひらと勘違いすることは出来ない。
彼女は逝って、そのまま。あの心休まる笑顔はもうこの世にないってことくらい、あたしにも分かるのだ。
だからこそ、悲しい。だからこそ、悼んでしまうのだ。
つい眦に集まるものを感じて、あたしは綺麗で遠い空を見上げた。すると。
『――ここに、居るよ?』
「え?」
そんな、声が聞こえた。あたしはどこか縋るようなそんな響きの方を向く。
すると、そこに居たのは、ぼやけた何か。その何かは、続けて言う。
『ボクが、お化け』
「わ」
そんな自己紹介に、流石にあたしも驚いた。まさか、この目の前のかろうじて人のように纏まった、モヤのような何かはお化けだったなんて。
あたしは、思わずそれに向かって手を伸ばしてしまう。そして、あたしは何にもぶつかることなく、お化けさんの曖昧な身体をその手が突き抜いてしまった。
慌てて、あたしは手を引く。
「わわ、ごめんなさい。痛かった?」
『……ぷぷ。お化けに痛いとかあると思う?』
「凄い。本物、なんだ……」
笑い声に応じるように、揺れるモヤ。それに、あたしは確かなものを感じて、驚く。
そうしてから、それも今更かと思い直して心を鎮める。何しろ、あたしは既に鬼と友達をしているのだ。
不可思議なんて、怖がるものではない。むしろ、友とすべき大切なものだと、あたしは思う。それで命が危険に晒されようとも、あたしにとっては何時ものことと変わらないのだし。
「ああ……」
けれども、それでも。あたしは少し残念だった。だって、この目の前のお化けさんは、きっと彼女ではないのだから。
曖昧の前で、あたしは葵がお化けとして出てくれなかったことの悲しさで、涙を零してしまった。
「うっ、うぅ……」
『ど、どうしたの?』
「ごめんね。なんであたしの前に出てきてくれたお化けが葵じゃないのか、ってあたし思っちゃった。ごめんね。そんなの、貴女にも誰にも悪いことなのに……」
あたしはずっと葵が天国で幸せであって欲しいと願っていたのに、いざお化けの存在を知った途端にそんな曖昧な形でも彼女に戻ってきて欲しいと思ってしまう。
それは、目の前のお化けさんの存在を否定することにも繋がるというのに、あたしはなんて愚かなのだろう。
溢れる涙を袖口で拭いきれずに、あたしはハンカチを探る。しかし、湿潤した瞳では、暗がりの中を上手く探すことなんて出来ずに、ハンカチを取り落してしまう。
急ぎ、膝を屈めて地面を探るあたし。しかし、役に立たない目は上手く布切れを認めることが出来ずに、手のひらが汚れていくばかり。
そんな中急に、頬にぞっとするくらいに冷たいものが触れた。そして、それはゆっくりとあたしの涙をさらっていく。
あたしは、去っていくその白魚のような指先に見惚れた。
『ごめんね。ボクはボク。木ノ下紫陽花っていう、ただのお化けなんだ』
そして、あたしの涙を持っていったその指先は、彼女の唇へと誘われていく。一つ、幽雅に赤い舌が雫をぺろり。
気づけば、先程までのモヤはどこにもなく。そこには雨具を着込んだ少女が一人。全身に旧き雨を被りながら、そこにあった。
今までの幽かさなんて微塵も感じさせない真剣な赤い瞳が、あたしを見つめる。
『でも、ボクだって、キミの大事になることは出来ると思うんだ』
曰く、紫陽花さん。彼女はお化けの筈なのに、オバケなあたしよりよっぽど強い気持ちを持っているように、あたしには見えた。
白くて生きていない、けれども大理石のような器物の綺麗さの肌が、あたしに向けられる。目の前に開かれた手に驚くあたしに微笑んで、紫陽花さんは続けた。
『キミが失くした大切なものの代わりに、ボクでキミを埋めてあげる』
そんなことを言ってくれた彼女に、あたしは何も返すことは出来ない。
ただ、そんな優しい彼女を一人にだけはさせたくなくて。あたしは彼女の手を握り返した。
真っ直ぐ向けられたものに確りと返すため、あたしは紫陽花さんの亡くなった双眸を恐れずに見つめる。
「ありがとう。でも、良いの」
『え?』
「貴女が、貴女であるだけで、あたしは嬉しいから」
そう。あたしのためになんてならなくったっていい。そんなことしなくても、あたしは認めるから。
だから、そんなに今を《《生きること》》を恐れないで。
あたしは鏡に向かって微笑んだ。
『――やっぱり、キミはボクを見てくれた』
そうしたら、向こうも微笑みを返してくれる。死んだ姿で生きている、そんな諦観の少女の笑顔に、あたしは心の底から安らぎを覚た。
紫陽花さんは、そのままあたしに言う。
『ボク、キミに憑いていくよ』
「うん。喜んで」
傍にあった手と手は絡みつくほどに握り合わされる。その冷たさに熱が奪われるのを覚えながらも気にも留めず。
そしてあたしは、生まれてはじめて、暗闇と友だちになったのだった。
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