樋口三咲は、お姉ちゃんである。そして、それ以外には特に特徴的がない人間だと、三咲本人は思っていた。
「ユイ! ダメでしょ、勝手にハサミで遊んじゃ! もし手を切っちゃったら危ないんだからねっ」
「うー……」
「うー、じゃないの。ごめんなさいでしょ?」
「……ごめんなさい」
でも、だからこそ姉として妹をこれ以上なく大切にしてきた自信はある。
年が8つも離れた、小さく小さく産まれた私の妹。それを、愛さないなんて最早私ではない。そう固く信じながら、三咲は生きてきた。
ゾウさんがデザインされた愛らしい小さなハサミ、しかし幼子を痛めるに足る凶器を優しく取り返しながら、固くなっている妹に三咲は微笑みかける。
見上げる妹、樋口結はそのどんぐり眼でお姉さんの大好きな柔らかな笑みを見て、ほっと身体の力を抜いた。
「よく出来ましたっ! ユイはいい子ね。よしよし」
「あわ、きゃー。お姉ちゃん。髪の毛変になっちゃうよー」
「ふふ、どんなになってもユイは可愛いから大丈夫よ」
屈まなければ届かないくらいに小さな妹に、三咲はそう呟く。そして、それは真理だと思う。
癖っ毛遊ばせ、まとまりにくい髪の毛は確かにそれだけ見ればみっともないかもしれない。けれどもそれをちょこんと頭にのっけた我が妹はどう見たって愛らしいのだ。
贔屓目、上等。愛なんてそんなものでいい、と。だから、彼女は大切な大切な妹を優しく抱く。壊れないように、痛まないようにと。
大好きでしかないお姉ちゃんの柔らかな身体に包まれ上機嫌になった結。彼女に彼女はこう言った。
「ユイ。何かあったら何時でも言うのよ? もし悪い奴がいたら、お姉ちゃんがやっつけてあげるから!」
「うん!」
頷きは元気よく。酷く優しいものに包まれて不安はどこにもなく、ならばお姉ちゃんの言葉を守ればこの幸せはずっと続く。
幼子はそう勘違いして、安心を覚えるのだ。ああ、素晴らしい今はこれからもずっと続いていくものだと、勘違いして。
もちろん、そんなことはなく、世界は終わる。
そんなこと、樋口三咲は知らなかったから、樋口結も助けを求められなくて。
だから彼女は妹を救うことが出来なかったのかもしれない。
樋口結は、妹である。それは、誇らしく述べられる自分の特徴であり、幸せの理由だった。
「お姉ちゃん、いつもありがとう!」
「え、どうしたの、この……ヒトデの絵?」
「違うよ、これお姉ちゃん! お姉ちゃんへの感謝の印に、わたしがお姉ちゃんを描いたの!」
「えっと……ああ、お上手ねー、才能あるわ。さすが私の妹!」
「えへへー」
見上げる姉は、ふくよかでいて、どこまでも柔らかな笑みを採っている。どこまでも大切にしてくれた、柔らかな人。それが樋口三咲という姉。
年が離れていて、そのため思い届かない時だってよくあった。特に、喃語まじりで喋っていた頃は、酷いもの。通じ合えないことに、癇癪を起こして結はよく泣いた。
けれども、そんな時だって最後までお話を根気よく聞いてくれたお姉ちゃんは、大凡の理解を示してくれる。
そして小さな自分に、大きなあの人は何時だって優しい手のひらで撫で擦ってくれた。
この人は痛いばかりの世界に、とびっきりの安心をくれる。厳し目のお母さんよりも、好き。大好きだ。
「ふふ、将来は、ピカソかベラスケスか……いえ、松園かカサットとかが適当かしらね。まあ、夢あふれることね!」
「んー? ピカピカ?」
「そう、貴方の将来はピカピカよ! よく頑張ったわねー」
「わたし、頑張った!」
「えらいえらい」
そう思って、大好きな人に似顔絵を贈りましょう、というせんせーの言葉に応じてぎゅっと握り込んだクレヨンで頬まで汚して絵を描いた。
下手っぴかどうかは、周りを見ていなかったから、知らない。けれども、それが姉を喜ばす優れたものであることは、知れた。
なら、それで良く、それに尽きる。お姉ちゃんのためになるなら続けよう。
「わたし、頑張るね!」
「おお、いいね。継続は力なりー。ちょっと後で私が使ってたの持ってきてあげようか?」
「いいの!?」
そんな思いこそ、才能の萌芽。そして愛が永遠であるならば、彼女の才は花開き、素晴らしきものになるに違いなかったのに。
もちろん、そんなこともなく、愛だって終わる。
そんなこと、樋口結は知らなかったから、ずっと、それこそこの世から振り落とされてしまうまでそれを続けて。
だから、最期に彼女はその一枚で姉の心を救うことが出来たのかもしれなかった。
樋口三咲は、日田百合のことが嫌いである。
それは何故かというと、不明だ。ただ、あのふわふわな先輩がゆるゆる生きていることが、どうにも気に食わない。
頑張って、私は人を愛そうとしているのに、あの人はいとも簡単に何もかもを愛している。そんなの、ずるい。
また、彼女は自分の妹が一番であると公言して憚らないところもある。なにそれ私の妹が一番に決まっているじゃない、と三咲は心から思っているから理解すら出来なかった。
「日田先輩って、キャラ作ってんのかな? ぶりっ子ぶりが酷いよねー」
「あ、分かる。なんか色々媚び媚びでキモいよね。そんなに自分に自信がないのかなー」
「ていうか、チビ過ぎて笑える。体育祭の綱引きで吊られてたのには笑ったわ」
「……私、嫌いだな。ちょっとおかしいもん、あの人」
「わかるー」
小さな先輩を題目にけらけら笑う友達の中で、ぶすっ面で一人三咲はムカつきを覚える。
人の短所を論って、悪口を言うのが大好きだけど、でもこの子達は悪い奴らじゃない。むしろ、本気で嫌ってしまっている私こそ悪い子かもしれないと、三咲は思う。
でも、仕方ないのだ。嫉妬と言うかなんというか、とにかく可愛くて優しくて、モテるあの人はズルい。
そして、三咲は不正は許しがたいタイプだった。なにせ、そんなの妹のためにならないから。
でも。
「ちょっと行くね」
「何ー? トイレ?」
「ちょっと、忘れもん」
教室を出てガラリと扉を開けた先で。
「はぁ……はぁ……」
「日田センパイ?」
件のその人が胸を押さえて苦しみ壁に一人寄りかかっているその様子を見て。
「大丈夫、ですか?」
「あは。大丈夫、だよ? 気に、しないで?」
苦しいのに、笑顔を必死で取り繕う、その無闇な優しさに触れて。
「ふざけんな!」
自分の思い違いにバツを付けた上で、三咲は怒るのだった。
ああ、理解しがたい。私はこんな病人に嫉妬していたのか。そして、病んでいてもこの人は世界を恨みすらしないなんて。
どれもこれも、三咲を怒らすに十分。怒気にびくりとした百合に対して、三咲は言った。
「行きますよ」
「え?」
「保健室です。……手、貸しますから、行きましょう」
三咲は遠慮なく、先輩の小さな手を握る。返ってくる力も少なく、その頼りなさが大切な妹を思い起こさせてまた、腹立たしい。
しかし、眉を顰めながら引っ張り歩く後輩につられながら、無垢にも笑顔を百合は作り上げ、言う。
「ありがとう!」
そして嫌いでも、優しくしてくれるなんて、と続けた日田百合のことを、三咲はますます嫌いになるのだった。
樋口結は、日田百合のことが好きである。
もちろんそれは、大好きなお姉ちゃん程ではないけれども、しかし中々のものであるには違いない。
親類に続いて、それこそ幼馴染の埼東ゆきちゃんに続くくらいの好感度は間違いなくあった。
理由としては、まず公園で転んでしまったときに優しく傷口を綺麗にしてくれてから、再会して汚したハンカチ返した際に仲良くなってからずっと、優しくし続けてくれるから。
向けてくる褒め言葉はすべてが本音で、また所作に溢れる思いやりは、内面の一途を透けて見せてくれるかのよう。
ああ、これはお姉ちゃんの次くらいには安心できる人だな、と幼心に思った結は百合に懐いたのだった。
「百合お姉ちゃん!」
「あ、久しぶりだね、結ちゃん。元気してたかな?」
「げんきだったよ! 百合お姉ちゃんは元気だった?」
「うーん……あたしは……」
しかし、ある日結は百合に同じ言葉が返ってくるのが当たり前の挨拶のような会話をしたら、彼女は言い淀んだ。
それが気になった結は、幼心に任せて百合に理由を問いただす。ちょっと近くのま白い彼女に結は詰め寄った。
「どうしたの! 百合お姉ちゃん、風邪でもひいたの? 辛い?」
「あはは……結ちゃんを心配させちゃったかな。でもあたしは……」
「百合、お姉ちゃん?」
「嘘つけなくて、ごめんね。実はあたしはずっと、元気じゃないんだ」
「え?」
そして、はじめてとても悲しそうにした百合を結は見た。
それも、その表情は明らかに自分が辛くて悲しいというものでもない。むしろその逆。思いやって相手が哀しむのが辛いといったおかしな表情のようだった。
理解できない、その優しすぎる心。また身体の不調も気にかかる。首を傾げて、結は尋ねる。
「どこが悪いの?」
「……殆ど全部、かな」
「全部が辛いの?」
「うん。ずっと」
真摯であることばかりが正解ではない。けれども、向けられた優しさに真剣になるのも大事と百合は思いこんでいた。
だから、気遣われて質問されて、本当のことばかりを彼女は返していく。
そして、その内容がどうにもこうにも絶望的で、まさか好きがこんなに悲しいとは思わなかった結は涙を零す。そして、言った。
「やだよ」
「結ちゃん……」
「いやだいやだ! わたしを幸せにしてくれる百合お姉ちゃんが、幸せじゃないの、やだ!」
起こすは、そんな駄々。だって、そんなのずるい。この人ばかりが辛くって、わたしばかりが幸せなんて、卑怯だ。そんなの許せるもんか。
子供は、幸せになって欲しい人を選ぶ。そして、思いやりたい人だって雑に決めた。少女にとっては真っ直ぐな人が好ましい。
だから、結は。
「良くなって、よぅ……」
涙を零して訴えたのだけれども。
「ごめんね」
あたしは幸せには、なれないんだ、とそう伝えてきた日田百合のことを、結はどうしようもなく好きになるのだった。
樋口三咲と結は、そんなだから驚いた。
二人の世界に罅を入れてきた日田百合という女の子が、活発に変なことを叫び始めたことに。
「みんなで、みんなの世界を救おうよ!」
ある日はそう、駅前で勝手に叫んで警察に引っ張られた。
「世界は、終わらせない!」
そんなことを、学期終わりの壇上で言って、学校から自宅謹慎を言い渡される。
分からない。おかしい。日田百合は狂ってしまったのだろうか。
姉と妹。二人で繋いだ手はどうしようもなく温とくって、安心できて。
だから、彼女の言う終わりはどうしたって信用できない。ならば、彼女は嘘を言っているのか。あの、日田百合が嘘を。
「そんなこと、信じられないね」
そう、三咲は思った。
「なら、本当なのかな?」
結はそう考え出す。
そうして。
「センパイ。誰に吹き込まれたんですか、そんな嘘っぱち」
「ううん。嘘じゃないよ。世界は本当に……」
「はぁ。メンド。あおいよーって言ったのに、まだ空が赤いと言うんですか?」
「うん。あたしだけはそう言わなければダメだから」
「はぁ」
「百合お姉ちゃん、世界が終わるって本当?」
「ごめんね……本当は嘘を言った方が優しいかもしれないけど……本当なんだ」
「そんな……」
「だから、あたしは一人だって頑張る。世界が終わることの方が嘘になるために」
「はぁ」
「なら、私も一緒しますよ」
「なら、わたしも信じるよ」
「えっ?」
そんなこんなで、はじめて出来た百合のシンパは、三咲と結という姉妹二人だったのだ。
「いや、辛」
三咲は必死に頭を働かし、百合にたかる仲間もどきを利用し、彼女を守った。
それは三咲という少女に大きな負担だったが、それでも嫌いな奴が他の奴らに嫌われ続けることの方がもっと嫌だったから、頑張り続ける。
「ねえ、大丈夫?」
結は、心を必死に揺らしてひたすらに声をかけ、百合の助けのためにとも絵を描いた。
それは結にとって苦しいことではなかったけれども、百合が毎日辛そうにしているのが辛かったので、頑張り続けるのは難しかった。
でも。
「世界は、本当に終わるんだ」
日田百合という少女が必死に否定したがったその言葉は本当で。
どうしようもなく地球の知らない殆どは赤で既に蝕まれていて最早黒に近く。
「だから」
そして、その影響は最早主人公の居た重要なこの街まで及んでいて。
「わたしも終わるんだね」
「結っ!」
全身に罅入り、もはやところどころ落っこちて紅くなっている状態のまま、結はそう零すしかなかった。
もろく砕けすぎて、抱くことすら難しい中、必死に落っこちてしまわぬようにと三咲は結にむけて叫ぶ。そして、強く思った。
ああ、センパイは確かに真実を教えてくれた。この世からは主人公が居なくなっていて、だからセカイは終わるのだと。重要じゃないものから、消えていくのだと。
「でも、ならなんで。どうして私じゃなくて結が先なんだ!」
「おねえ、ちゃん……」
樋口結。彼女は今は皆のために塔と化してしまった日田百合の肖像を何度描いたことだろう。そして、その美麗な心打つ絵は、何人の救いになったことか。
そんな、多くの大切が、こうしてぽろぽろ消えていく。手を、すり抜けて。
ああ、悲しい。虚しい。辛い。こうなって欲しくなかった。だから、私は信じていなかったのに。
「だい、じょうぶ」
「結?」
でも、信じ切っていた、妹は最期に呟くのだ。嘘でもない、本気で。確かにあった愛をこの世に残すためにと。
「また、会えるから――」
ぱりん。
そして、少女は赤に飲まれた。
「はぁ……はぁ」
『三咲ちゃん?』
「さっき、結が逝ったよ」
『そう、だったんだ……ごめんね』
妹の次には、姉なのか。順序がおかしいと思いながらも、涙枯らしてから日田百合の第一の理解者として知られる三咲はセカイの救い、重要である電波塔リリィに砕けかけた足でやって来る。
がちゃりがちゃり。そんな音を立てながら自分の元まで這ってくる三咲に、身じろぎすら出来ない塔の一部である百合は申し訳無さそうな発声をした。
しかし、その言葉をこそ三咲は嫌う。赫怒を持って、もはや少女とすら言えない年齢にて終わりそうな彼女は叫んだ。
「謝んな!」
そう。まさか誤っても、謝るなと思う。
これは誰のせいでもなく、ましてや助けたいとあがき続けた百合のためでもない。
だから、慰めでもなく三咲は真実を続けて叫ぶのだ。
「あんたは、本気だった! あの子も必死だった! それでも!」
ああ、罅だらけの喉が痛い。身体が欠片になるのはこうも辛いのか。そして、それに近い症状を常に感じていたという、百合はどこまで哀れだったのか。
しかし、そんなことはどうでもいいのだ。ただ、そんなすべてを飲み込んで、セカイは終わる。それは。
「無理だったんだ! 出来ないことだったんだ! 信じたくない、嘘に思えたんだ! でも!」
そう人がセカイを救うなんて、不可能ごとで、それにまっ先に手を貸した自分が愚か者には違いないけれど。
でも、間違っていないことだってあった。だから、そればかりは伝えないといけないと、ついに膝まで砕けさせながら、三咲は言う。
「大嫌いなあんたが皆の幸せを望んだことだけは、嘘じゃない」
『三咲ちゃん……』
返ってきた声は、どうにも嫌ほど聞いた生体の時のものより嘘っぽい。でも、変わらずに真摯ではあった。
だから、そのことばかりは嬉しくって憎たらしいほどに救いで。
「ああ、私も消えて。もうすぐセカイも消えるだろうけどさ……」
全身が、まるで痺れたかのよう。感覚は殆どない。
もう、少ししか自由に動かせる部分はない。口先と、それこそ指の先ほどだろうか。
なら。
「このくそったれのセカイに、思わず消してしまたくなるくらいに、私は最期まで叫ぶよ」
一度すべてを握りしめ、中指だけを伸ばして。
作ったのはファックユー。くそったれな馬鹿に向けて、三咲は最期の言葉を伝える。
「私は《《誰もかもにしか》》優しくないあんたのことが、嫌いだ」
ぱりん。
そして、少女の憎しみすら、跡形もなく落っこちていった。
残るは独り。何も抱けない身体で、それでもありもしない手を伸ばして、日田百合という脳みそだけの存在は。
『それでも、あたしは皆のことが好きだったよ』
そんなひと言。
びゅうと風に吹かれて。そしてそんな変わらぬ本音もどこかに流され消えていくのだった。
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