ルート1 熾火の恋人 火膳ふよう③

原作版・皆に攻略される百合さんのお話

火膳ふようの父、火膳有樹は昨今管理職という仕事に振り回され続けているサラリーマンである。でっぷりした体格に反して嫌に清潔でこざっぱりとした印象の、しかしどこにでもいるような男性だ。
彼は残業を含めて帰りは遅く、またそもそも彼にとって家は寝起きする場所でしかないものである。
つまりそこは別段愛を置くところでもなければ、むしろ有樹は見栄張ってローンをしてまで若くから家なんて購入するものでもなかったと常々思ってすらいた。
だから、当然家に存在する愛すべき一人娘だって、やっぱり作るもんじゃなかったなと考えていて、向こうが話しかけてこないことを良いことに常は無視し放題。
むしろふように何か声をかけられると、その度に機嫌を悪くするのがこの男の悪癖ですらあった。
勿論顔を合わせれば貧乏揺すりをはじめまでしてそれを嫌がる親をふようだって頼ることはろくにない。
故に、必要最低限の交流しかしてこなかった、二人家族。だから、今夜有樹は何時もと違う出迎えにむしろ眉をひそめるのである。

「ふぅ」
「お帰り」
「あぁ?」

家に着いて溜息を吐いたところで、見上げれば憎たらしい奴にそっくりな愛らしい顔。
最近顔を合わせもしなかった娘の接近に思わず、柄も悪く疑問の声を有樹はあげるのだった。

「ちっ」

そして思わず舌打ち。
だがそういう風に咄嗟に嫌を示してしまったが、そんなのは流石に勝手だとは彼も思う。
親としての自覚はないが、事実そうではあるのだ。嫌気を呑み込んで、彼は娘に親の皮を被り直して言う。

「……なんだ、ふよう。オレを待ってたのか?」
「うん」
「珍しいな。だが、オレは飯食ってきたからもう寝る。話があるなら明日にしろ」

俗に言うところのブラック企業の程ではないが、役職持った彼は仕事で朝は早いし夜も遅い。それは事実で、また人嫌いの彼は真実人間達に囲まれて仕事している今にほとほと疲れてもいる。
故に、家に帰ったら、寝て起きて、風呂に入って直ぐに仕事というのが有樹のルーチン。またそれを家族なんかに邪魔されるのは、嫌だと思ってしまうくらい彼は子供でもあった。
だから、ダメだと片手を振り、少女の横を通り過ぎようとする。その身長が自分に迫るものに成長していることにすら気付こうともせず、有樹はふようから目を逸らした。

「ダメ」
「あぁん?」

けれども、意志薄弱、唯々諾々なばかりだった筈の娘は、反抗する。ふようは父が通りすがる前に、そのワイシャツの裾を掴んで引っ張った。
邪魔をされた。それもどうでもいい奴に。それに怒りを覚えるのは身勝手ながらも彼の当たり前。
思わず肉親の前に顔を寄せて凄みだした有樹にふようは。

「今、私の話を聞いて」

大嫌いな親の前で怖じることなくはっきりと、そう口にしたのだった。
真っ直ぐ前にて、それを有樹は見て取る。ああ、これは確かにあの嫌いな女に似ている。
だが、この瞳には全くそれと違った光があって真っ直ぐで、そしてどこかが自分の遺伝を伺わせていて。

「ちっ……少しだけだぞ」
「うん」

娘にいたずらに怒るのは大概バカだが、それ以上に鏡と喧嘩するほど無駄なことはない。
嫌いな奴の娘で自分の娘でもあるそんな女とどう会話するべきか悩みながら、有樹はふようの背中をのろのろと追い掛けるのだった。

綺麗好き。それはこの親子の数少ない共通項である。
故に、リビングは人の生活痕すら探さなければ見つからないくらいに整っていて、むしろそこに座する二人こそが場違いのようにすら映る。
何時ものように入り口近くの席に座し、嫌なことが起きた際の悪癖である貧乏揺すりをはじめ出す有樹。
彼にとってはどうでも良い親子関係。そこに、悪くも遠慮なんていうものはない。
故に静かに対面に座ったふように対して、彼が口を開くのは早かった。

「で、なんだふよう。用事ってのは」
「……それは単純。好きあいたい人が出来たから、この家にあまり居られなくなるかもしれないっていう報告」
「はぁ? お前が……まあ、そういう年か」

有樹は驚きに細い目を開く。彼にとって、ふようは手のかからない娘であり、黙っているばかりのつまらない女だった。
そのほとんど全てが自分のネグレクトのせいであることを無視し、彼はこんな奴が誰かに好かれるものかと思い続けていたのだ。
だが、思い返せば有樹自身が恋だの何だのをしていたのは、ふようの年齢よりずっと下の頃からだった。それと照らし合わせると、ふようが好きだの何だの言い出してもおかしくもなんともないのかもしれない。
もっとも、相手もこいつのこと好きなら随分と趣味が悪いな、と本心から彼は思っているが。
どうしてか少し興が乗った有樹は、右足を揺するのを辞め、身を乗り出して問い出しはじめる。

「ふん……そいつは面倒な奴じゃないだろうな。怪しい宗教かぶれだったり、この家の金目的だったりは……」
「大丈夫。彼女はそんな人間ではない」
「そうか……って彼女?」
「うん。私の好きな人は女の子」
「はぁ?」

有樹は唖然とする。これでも親であるからには、彼もおしめの世話くらいしたことはある。
その記憶と眼前の性徴に間違いがなければ、パジャマ姿の目の前の子供は娘であり、つまりそれが女を好きになるというのは同性愛になるのだろう。
有樹とて自分が通常ではないという自認くらいはあるが、それでもアブノーマルは専門外だと思い込んでもいる。
多様性なんて倣えなかった根性なしの屁理屈と考えて止まない男は、思わず頭を抱えるのである。

「そりゃあ……」
「いけない?」
「ああ。女同士じゃオレが一生孫の顔が見れ……いや、そんなことはどうでもいいか。ただ、そんなの気持ち悪いから、何があってもそいつの顔はオレに見せるな」
「……分かった」

侮蔑の視線を親から向けられ、分かったと、言い切るには少し時間が必要だった。
ふようも、この親父に理解など求めてはいない。それでも、期待はまだ僅かにだろうがあったのだ。
それすら裏切り、気分を害した有樹は再び右足を上下に揺すり出し、更に独り言のように言い募る。異常者となった娘など、心からどうでもいいと目すら向けず。

「ったく……どこでこじらせたか知らねぇが、我が娘ながら気色悪く育っちまったもんだ」
「……あなたの背中を見ていたら、こうもなる」
「はぁ? 何かあればそりゃオレのせいか? ガキのままかよ笑えねぇな!」

どん、と強く有樹はテーブルを拳で叩いた。それにより、僅かに凹む天板。
びくりとなった娘より、傷が付いた高級を見て、自業でしかない癖に悪化を覚えた彼は更に険を強くして言った。

「オレが悪いってならな、それの子供であるお前なんてもっとクズだぞ! いや、まだ稼いでるオレは立派で、お前なんて何の貢献も出来ないゴミでしかないな……それでよく文句を口に出来たもんだ」

うんうんと頷きながら、有樹は悪口を吐き出す。自分の口が想像以上に上手く回ったことに少しだけ気分を良くして、その内容の酷さも忘れて彼は少しの満足を表す。ああ、今オレは正論を口にしていい親が出来ていると勘違いすらして。

「はぁ……」

悪人は己の悪を自覚せず、むしろ間違えて誇ってすらいるもの。
そんなこと、ふようは想像から予想していた。それでも、まさかここまで自分の父がこじらせているとは。他者理解に思いやりに欠けすぎていて、これでは最早どうしようもない。
ただ平らに話してみたことこそが無意味だったと、溜息は口から出ていく。

「何だ、目の前で溜息とは。親より偉くなったつもりか、ふよう」

だが、そんな心よりの落胆を、見逃せるほど有樹は大きな人物ではない。
それこそふてぶてしく両手を組んででっぷりとした腹を突き出し、醜い自分を誇るようにする。
オレが全てで、それでいい。そんな子供のような大人に、ふようは目を閉じて己の心を探る。そして、言い出した。

「そうじゃない。ただ……」
「ただ?」

先からずっと、有樹はまん丸顔を歪めてばかり。憎たらしいあいつの子は、こうも思った通りにならないのかと苛々として。
だが、親と会ってからずっと無表情で凪いだ心で自分を探り続けていたふようは、それでもこの反面教師に思うのだった。
ああ、これでも、これだからこそ私の親であって、呪いでもある。
だから、それを解くにはいっそのこと。

ふようはまるで百合のもののように上手く微笑んで、言った。

「そんなあなたですら私は親として愛するって、言うだけ」
「はぁ?」

今宵は何度子供に驚かされるのか。あまりの意味不明に、苛立っていた脚も静止した。
愛というものの失伝によりそれを理解できない男は、娘の言葉を受け取り損ねる。
だが、そんなこと構わず、想いを持ってふようは続けた。

「お父さんは、私を知らない。私もお父さんのことを知らない。それは、私達が避けあってきたから」
「な……ん、まあ……それはそうかもな」
「でも、それでもあなたは私を捨てはしなかった。棄てたくてたまらないくらいに憎い相手の面影を嫌いながらも、それでも」
「いや、流石にそんなの当たり前だろ……」
「でも、私はお父さんに残ったその最後の当たり前によって生かされた」
「……そう、か」

男の勢いづいていた語調も、少女の訥々とした語りに抑えられていく。
そして、彼は娘の眼差しに瞠目するのである。
ああ、どうして見逃していたのか、この目は今まで見たことのないくらいに情に溢れていた。
これまで真剣に、娘が自分に正対していたことに、今更有樹は気付く。思わずそれに居住まいを正す彼に、ふようはあえて泣くことすらなく静かに本音を募らせ続ける。

「私は、ずっとお父さんが嫌いだった。目を合わせてくれず、話しかけたらすぐに怒って、何一つ教えようとはしてくれなかったから」
「それは……」
「分かってる。お父さんからしたら、それが限界だったんでしょ? 頑張って、それ以上は無理だった。でも、歯を食いしばって、私をそれ以下にはしなかった。立派に、お父さんをしていたんだ」
「……それは、言い過ぎだ。オレは、クズで愛されるにはほど遠いゴミみたいな奴で……」

辛かった過去をそれでも父に対する褒め言葉に換え続ける娘に、ようやく有樹は自業を恐れ出す。
これまで自分が行ってきたのは、あれだけ嫌いだった自分の母の行いの真似事ばかりで、先に娘に投げた文句だって母親から何度も似たような言葉をかけられた覚えからきたもの。
子供を叩かなかったのも、叩かれすぎてそれが痛いのを思い知っていただけで。
自分は、結局大嫌いのコピーでしかなかったのか。
そう考えて頭を抱えようとした有樹に、しかし大嫌いだった娘は尚も柔らかに続けるのだった。

「それでも、あなたは私を愛していなくとも、愛に倣おうとはしてくれたんだ。だから、私はお父さんを愛するよ。下手でも、ダメでも、真似事でも」
「ふよう、お前……凄いな」
「そう?」

首を傾げるふように、父はもう怒りに震えない。
もう、有樹の心にさざ波はなかったから。それは、目の前の少女を尊敬出来る一人の人間として定義し直したからだった。
男は、自分の見返したくもなかった過去をあえて想起し、苦渋を面に表しながらも素直を語る。

「オレは、そう思えなかった。思おうともしなかった。そんなことを、やろうとするなんて……」
「だって、それは当然でしょう?」

凄いことだと再び言おうとする父を遮り、それを当然と告げるふよう。
そこに、愛はなかったかもしれない。でも、真似事の最低限でもって、曲がりながら一人娘を育て上げているそれが、大変でないはずもなかったのだった。
心はなくても、それが人を外れていなかったのなら、不格好でも認めてあげたい。
それが、ふように生じた新たな優しさであり、それが生まれた理由は自分の不幸に浸っていたころにこの世で何より安心できるものに触れられた幸運からだとしても。

「私はあなたの娘なんだから」

それでも、ふようは恐れを越えて、親子であるからにはこの独りぼっちの男の人だって愛してあげたいじゃないか、という今更の本音をようやく出すことが出来たのだった。
こんな欠けた私達だって普通の親子みたいに、なったって良いじゃないかと微笑んで。

それは真心だった。嘘はない。嘘に塗れた人生だからこそ、理解できる。故に、そんなものを与えてくれるものを蔑ろにしてきた自分が憎たらしくって許せないが。
でも、今更ながら邪魔なプライドを掻き分け、有樹は重い口を開けた。

「……すまなかった」

男は短くそれだけ言って、背を向ける。
その背中が震えていた理由は、あえてそっぽを向いてあげたふようにだって察せられるものであった。

「う……ぐっ」

怖い怖い愛。でも嬉しくてそればかりが染みるから、噛み殺したところで嗚咽は止まらない。
しばらくして、ふようはそっと彼の背に優しく手を当てる。もう、彼女に震えはなかった。

「お父さん」
「っ、く……すまん、すまなかったふよう……本当に!」

ちぐはぐだった親子は、この日ようやくそれらしくなるように、向かい合う。

そして、やがて。怖くても、誰かの愛に倣った娘の心によって、一つの家族が救われるのだった。


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