日田アヤメは知っている。我が姉日田百合はびっくりするくらいの鈍感だと。
まあ、毎日痛みに慣れて悼みつづけていれば、それは他の刺激を感じないのも自然かもしれないが、それにしたって百合は好悪に不感過ぎる。
好きだよ、でそっかとニコニコ。嘘でも嫌いと言えばごめんね、と眉を落とす。
果たして彼女が取り出せるのは遍くライクしかないのだろうか。よくもこんな欠損少女を堕とせたものだとアヤメは、今は亡き葵を尊敬せずにはいられない。
だが、そんな彼女の他者へのライクばかりで占められた心の内にて、現在生きている者の中で最上位に自分が居るという自覚くらいアヤメにはある。
既にレッドゲージの体力にて、しかし毎夕せかせか姉は妹の元へただいまとすることを欠かさない。友達が居ないわけでもないのに、それより家族と一緒をこの終の付近にまで選んでいるあたり、私はあの子に大事にされているんだなとアヤメは思わなくもない。
『昔は知らないが、百合には今特定の相手なんていないんだろ? こりゃチャンスだ』
そして少女は昨夜わざとらしくいやらしい表情をしていた叔母のそんな言葉を思い出す。
勿論、一人怖じけて足踏みを続けてきたアヤメにはそんなこと言われないでも理解っている。まことおモテになるお姉ちゃんが、特定の相手を作っていない今は好機。これまで挫けてばかりだが、あの叔母の後押しだって今はあってやる気に満ちている。
「お姉ちゃん」
「なあに、アヤメ?」
ならば、と妹は姉に改めて向き合う。
起床遅めの叔母の姿こそない、だからこそ前まで通りの食卓。そこで朝ご飯を一緒しながら、なんだかぼうっとしていて食べるの遅いなあと思っていた妹が真剣になって急に自分の名前を呼んだ。
それに喜ばぬ百合ではない。綻ばす花卉の笑顔を愛らしくも右にこてん。どうしたの、最愛の妹よと問うのだった。
「っ」
それに、思わずこみ上げるものを抑えるのに必死になるのが、アヤメという少女。
普通ならばわざとらしくすら見えるだろうそれも、愛に濁ったフィルターでは婀娜っぽくすら映る。抱きしめたいというか、撫でさすりたいと思うことすら当然。
だが、そんなことをするときっとこの姉は拗ねるに違いなかった。少女の可愛さを集めたらこうなるというような見目の癖して自覚なく、ただ姉貴ぶって妹に親しむばかり。
妹に可愛いと言われたら、格好いいと言ってよー、と返してくるのが百合の残念なところの一つでもあった。
そんなこんななために、我慢で歯をぎしりと鳴らせているアヤメ。だがそんな妹の努力なんて知らない百合は、今度は左に首を傾げてから更に問った。
「どうしたの? 何か言いにくい悩みとか、あるの?」
「それは……そう、かも」
「ふうん……そうなんだー。アヤメも大人になったね!」
それはびっくりだと、両手を広げて表すちっちゃなお姉さん。いや、まさかこのとぼけた姉は、一個下の妹が悩み一つなく過ごしているのだとでも思っていたのだろうか。
「いや、お姉ちゃんならそうあって欲しいと本気で願って思い込んですらいても不思議じゃない、か……」
「ん? アヤメなんて言ったの? 小さい声だったから聞こえなかったよー?」
「いや、このスクランブルエッグ、美味しいなって」
「そうだよね! なんか直売所で売ってたちょっと高めのを思い切って買ったんだもの。私も味が濃くって美味しいって思ったよ。ニワトリさんにも生産者さんの川島さんにも感謝だねー」
「ふぅ」
改めてごちそうさま、とか手を合わせて呟く百合は、妹にあからさまに誤魔化されたことにすら気づかない。この子は何時もこんな風だな、と思わずアヤメも溜息を吐くのだった。
知らず少女は左の指先を右の手で、軽く躙る。
眼の前の、もはや湯気一つ立てずに冷めきったトーストとスクランブルエッグに、ハムとウィンナーの洋風朝食は元々アヤメのリクエスト。和風には飽きたからと少女が伝えたその願いを向かいテーブルに座す彼の人はこれまでずっと叶え続けてくれた。
ちょっと甘めで塩分控えめが、毎朝毎朝。百合は、何時だって早くから台所で計量スプーン片手に丁寧に二人のための朝食を作ってくれていた。
だがその努力を食に言う程の拘りがなかったアヤメは問う。
『どうして、お姉ちゃんはそんなに嬉しそうに、私のわがままを叶えつづけてくれるの?』
するとあっけらかんと、特に笑いも悲しみもせず、百合はこのように返す。
『あたしはね、味って半分くらいもう分かんないから、だからアヤメが嬉しそうなのが嬉しくって』
その答えは、予想の遥か外のもの。宇宙人の言葉のように、前後の繋がりを解せない言葉の小群に、アヤメはぽかんと口を開けるばかり。そもそも、姉が味覚にそんな障がいを持っていたなんて妹は想像もしておらず。
きっと妹の幸せを自分の幸せのようなものと本気で思い込んでしまっていたお姉ちゃんは、そんなだからこそ、沈黙に勘違いをした。
『ごめんね、あたしがこんなお姉ちゃんで』
綺麗に逆さに。百合はアヤメの最愛の人を卑下したのだった。
『っ!』
故に、次に弾けるような音が場に鳴り響いたのは自然。それがグーでなく手のひらによるものだったのは、理性の証だっただろうか。
『……あ』
百合はアヤメの振り抜かれた手をぼうと見て、そして自らの頬の熱さを痛みによるものだとようやく解する。
そして、紅くなったほっぺたを慰めることすらせずに。
『ごめんね』
それでもあたしなんかと勘違い続ける、少女は頭を下げたのだった。
『お姉ちゃん……』
呆然で終わり、喧嘩にすらならなかったその一部始終。だが、そんなすべてが恋の契機。
アヤメは今になって思い出す。きっとあの日この時、この人を誰より大好きになることを決めたのだということを。
自分なんかと、百合という人が百合本人を誰よりも愛さないのならば。
私がこの人のための愛になる。
そう、考えたのだった。
さて、酸いも辛いも解らない、そんな身体で甘味と匙の大きさで上手に調味を続ける出来た姉。そんなものをどう攻略すべきか、アヤメはこれまでずっと悩んでいた。
生半可な告白では通じないし、そもそも恥ずかしい。ならば、叔母の言う通りに向こうに意識させた方が良いかもしれなかった。
押せないなら、引いてみる。そんなことが効くかどうかは解らない。でも、何もしないよりはマシだろうと、まずアヤメは会話にて布石を置こうとするのだった。
「ねえ、お姉ちゃんは私に好きな人って居ると思う?」
「えーと……ねえ、アヤメって私のこと好き?」
「もちろん」
「そっかー。えへへ。なら、アヤメには好きな人が居るってことだね!」
どうだと言わんばかりに満面の笑顔を見せてくれた百合。だが、問題作成者から聞いた答えを丸写しして、どうだ満点だと喜ぶ姉は流石にアホが過ぎた。
もっとこう、真意とか探る動きとか欲しかったなあと、細く残念な百合を見つめながら、アヤメは話を続ける。
「はぁ……そうじゃなくて……家族愛とかじゃなくって、ラブ、恋的な意味の質問だったんだけど……」
「えー、アヤメ、恋してるのー!」
「ん……そう、ね」
百合のエクスクラメーションマークには、是と返さざるを得ない。何しろ、事実アヤメは目の前の女の子に恋心を覚えているのだから。
だが、そんな妹のあえて言葉足らずに隠した心のうちなんて解らない百合は紅い目をぱちぱちと瞬かせてから、ひえーとかうわー、だの叫びだす。
やがて、そろそろあの子ら朝から何騒いでるのか寝床で横になっていただけの菊子が気になり出した頃。
百合はこんな頓珍漢なことを述べるのだった。
「わわ、なら応援しなきゃね! 絶対、アヤメの恋成就させないと!」
「……相手がどんな人だとか、聞かなくていいの?」
「うーん。大丈夫! アヤメが大好きな人に間違いなんてないだろうし、それに……」
「……それに?」
かなり虚弱な方とはいえ、女子の一員である百合はそれなり以上に恋バナ大好き。それがまた身内のものだと思えば喜びはきっとひとしおなのだろう。不調のすべてを忘れたようにぴょんぴょんしていた。
アヤメはここで鏡を見せてあげればこの子も察して驚くかなと思うが、しかし手元にそれらしきものはなく、また多分このボケボケ姉は鏡を見ても身だしなみが悪いのだと勘違いして寝癖を探し出しかねない。
さて、次はどんなとんでもを口に出すのか。心構えだけでもしようとニコニコな百合の笑窪を見つめていると、彼女はこう言った。
「三咲ちゃんって、とってもいい子だって、私知ってるもの!」
「はぁっ?」
それはそれは、勘違い。だが姉は妹と仲のいい友達の一人を名指しして。
「えへへ」
儚くも、愛おし気に笑うのだった。
「じー……」
それは、その日の西郡高校のお昼休みの時間。一学年の生徒達が仲良く駄弁りながら弁当を箸でつつく、そんな頃に扉の外から明らかに二学年の女子生徒が一人彼らの光景を見つめていた。
その女子生徒、日田百合は気づかれなさから自らの隠形の完璧さぶりに鼻を高くしてすらいる。だが、それは何時も通りな彼女の錯誤。
見つめられている少女、樋口三咲は何やってんだろうあんなところから顔だしてと不思議がるのだった。
「なんか見てるんだけど、あんたの姉……あれ隠れてるつもりなのか?」
「そうね……」
「きゃー、アヤメ積極的!」
そして、普通に友として昼食を共にするため三咲のものと机をくっつけたことにすら遠くから黄色い声を上げる百合を努めて無視するアヤメ。
三咲は何だこの姉妹と思ってしまうが、まあ自分だって別段妹とぴったり一つという訳でもない。姉が妹を隠れ見してるのは何か故でもあるのだろうと、気にせずにいて。
「じー……」
「ぷ。なんか、ややこしいことになっちゃったわね……」
友の隣でアヤメは姉が先から呟いてる、オノマトペの不思議さと子供っぽさに、一笑。
そして、自慢の姉お手制の弁当箱を広げ、さてどうあの人の勘違いを正せばいいかと微笑みつつ考えるのだった。
「いや、そうやって笑ってると、やっぱりアヤメ、あんたって美人ねー」
「じー……じー!」
「三咲……なんか私のお姉さんがセミみたいになっちゃうから、あんまり余計なこと言わないでくれる?」
「そう?」
はっきりとした青い空赤い罅の下に淡く。そんな、日もあった。
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