『この芸人さん、本当に美味しそうに食べるねえ。ボク、彼のこと気に入っちゃった!』
「紫陽花ちゃんって、食べ歩き番組観るの好きだねー」
『そういえば……何時も一緒に観てくれてるけど百合ちゃんはこういうの観ててつまらないとか、そんなことはないの?』
「ううん。あたしも人が幸せそうにご飯食べてるの好きだよ。それに、結構料理の参考になったりもするし!」
『百合ちゃんって料理上手だよね。ボクも一口くらい食べることが出来たらなあ。ま、空腹とは無縁な身体なのはいいことだけど』
「そういえばあたし、おなかぺこぺこ! そろそろアヤメも帰ってくることだし、お料理の準備しておこう」
『今日の献立は何?』
「冷やし中華!」
黄昏時に、テレビを眺めて会話の花が咲く。そんな当たり前の風景をあたしがお化けさんと一緒になって作っていると思うとちょっと不思議だ。
あたしは、何時か紫陽花ちゃんにご飯を食べさせてあげたいな、とこっそり思いながら台所にて冷蔵庫をごそごそ。
お庭の小さな畑から収穫してきた真っ赤なトマトを一つ取り出して、それをまな板の上にごろんとしてから次にきゅうりにささみにと続けていく。
そしてラップしたささみ肉をレンジの中に入れてみるあたしを不思議そうに見ている紫陽花ちゃんに向けて、あたしは口を開く。
「紫陽花ちゃんて、そういえば好きな食べ物とかある?」
『うーん……ボクがご飯食べてたのって結構昔だから忘れちゃったなぁ。あ、暑いとき食べる冷や汁は好きだったかも!』
「ひやじる? それってどういうの?」
『がーん。知らないんだ。じぇねれーしょんぎゃっぷって奴だね……簡単に言うと、ごまみそをだしで溶いて、よく冷えたらきうりとか紫蘇とか薬味入れてからお米入れて完成、って料理なんだ』
「わ、何だか美味しそうだね! あたしも後で作ってみようかなー」
『夏場はあれがおすすめだよっ』
とんとんと包丁を使いながら、あたしは傘の中で笑顔を咲かせる紫陽花ちゃんの言を聞いた。不明な内容に、少女の表情ばかりが明るく見える。
果たしてそれは、どこの昔のお話か。全盛のままで彼女は停まっていた。お家の中でもずぶ濡れな、夏に震える少女の華にあたしもどこか感じ入る。
「紫陽花ちゃんは特別、なのかな」
ささみ――生の残骸――を指で裂きながら、ぽつりとあたしは溢した。
枯れるから花に意味がある、という人も居るだろう。けれども、あたしは生と無縁の常世のお話だって大好きだった。人を虐めちゃうオバケは嫌いだけれど、自由奔放な妖怪変化の様子には憧れだって抱いてしまう。
それに死んでいるから亡くならないというのは、あたしにとってちょっと羨ましい。あたしは葵の死で、別れの辛さよくよく思い知っているから。
「皆、ずっと一緒だったらいいのになあ……」
あたしは頭を持ち上げて、フラットな天井に小さな蜘蛛を見つける。そして、その黒点ばかりがどうにも気になってしまうのだった。
自分なんてどうでもいいけれど、自分を巡る世界は素晴らしい。くるりくるりと大体は光を受けてきらきら異なっていく。有為転変、違うからこそ意味になるなら、或いは変わらないというのはただただ寂しいものかもしれない。
けれど、自分勝手なあたしは、皆の幸せなときが永遠であればと思うのだ。
痛くないで、死なないで。あたしはそんなのばっかりだ。悲痛なのは自分の身体だけでいいのに。あたしは自嘲する。
『百合ちゃん、どうしたの?』
「ううん、なんでもないよ」
そんなつまらないあたしに、そっと近寄ってきた紫陽花ちゃんが頬に触れた。
瀕したままの凍った指先に血色はない。過去、マイナスの存在は問答無用に今のあたしから熱を奪う。でも彼女の身体のぞっとする冷たさにも、もう慣れた。
雨季にも至らない時期から夏の今までのかれこれ数ヶ月。それくらいの間、紫陽花ちゃんは、あたしの家に棲んでいる。
彼女は夜ごとにしか出現できないとはいえ、そんなに一緒していたら仲良くなるのが自然なこと。あたしはすっかりこの水も滴る美人の幽霊さんのことを気に入ってしまっていた。
それこそ、目に入れても痛くないと、我慢できるくらいには。
「そういえば、紫陽花ちゃんって何時も濡れちゃってるけど寒くはないの?」
鍋の中に水を張り、いざ麺を茹でるという段階に至ったところで手を止めて、あたしは聞いてみた。
隣で湯気を楽しそうに見上げる紫陽花ちゃんの面の色は真っ白い。健康的とは言えないその白さをあたしは常々気にしていたのだ。
震えるなどの生理的反応が見当たらないから平気かとも思っていたのだけれど、よく考えてみると紫陽花ちゃんは死んでいるからそこら辺の恒温性も失われているのかもしれなかった。
そして案の定、彼女は柔らかにも笑みながら言う。
『寒いよ。ずっと』
「そう……」
寒さに震えることすら許されず、しかし美しくその身を誇るその姿は、紛れもない雪中花。
やっぱり、紫陽花ちゃんは停止していた。それも、死ぬ寸前の光景のまま、ずっと。
辛いばかりの冷え込む身体で、この子はあたしの隣で笑顔を見せてくれていたのだ。
それを健気と思うかどうかは勝手だろうけど。ただ、あたしはそこに痛みを見てしまった。
「紫陽花ちゃん」
『わ』
そうしたら、いても立ってもいられない。
冷えているのならば温とくさせるのは当たり前。死に至るまでの永遠の低体温にあたしはそこそこ温といばかりが取り柄のこの小さな全身をぶつけた。
背筋は、あっという間に凍る。そうして痛いくらいに感じる温度差が溶けるまで、あたしはずっと紫陽花ちゃんに触れていたいと思うのだった。ぴちゃり、とあたしの頬に少女にばかり注がれていた、幻の雨が一つ降る。
あたしの面を涙の如くに流れる冷やっこさ。それに続くようにして、紫陽花ちゃんはゆっくりと口を開いた。
『どうして……ここまでしてくれるの? 冷たくってたまらないでしょ?』
「決まってるよ」
困ったように、くしゃりと面をしかめる彼女は雪の頬。真白いそれに、再び少しでも色づくことがあって欲しくってあたしは真っ直ぐ目を向ける。
あたしは決して善人なんかじゃない。自分勝手な生き物で、押しつけがましくあるのであれば、人を選ぶに決まっている。
だから、あたしが紫陽花ちゃんに構う理由は、単純。
「あたしが、紫陽花ちゃんのことが大好きだからだよ。だから触れたくなる、一緒にいたくなる――――そんなの、当たり前でしょ?」
『百合ちゃん……』
触れ合いに辛さが混じるのだって自然なこと。そして不自然と触れることで痛みに震えるのだってあたしは覚悟の上だった。
だから、あたしは離れてあげない。たとえ紫陽花ちゃんがあたしのことを殺したいくらいに憎んでいたとしたって。
「紫陽花ちゃんは、怖くない」
大きなうす色の瞳があたしを見返す。
そう、あたしは時に垣間見えるあたしに向けられる彼女の殺意だって受け容れたい。たとえ嫌いという思いだって、辛いけど尊重するんだ。
そしてお化けを怖がらないのが人として失格であるとしたって、それでも良いと強がって隣に居続けたい。
『ありがとう、百合ちゃん』
だって、特別ってきっと寂しものだから。独りはやっぱり辛い。
すぐ前に咲いた満開の笑顔を見て、あたしはそのことを再認識するのだった。
『ボクも……百合ちゃんのこと、だいすきだよ』
暗がりに、白き一輪。夜も更け、いい子悪い子寝入る刻。当然のことながら紫陽花ばかりは起きていた。
眠ると美人と死人の基調にほど近くなる、そんな百合に紙一枚の距離で紫陽花はそう言い、白い吐息をかける。
美しい顔は、その内に秘めた無垢の飾り。傷んでいてもまっさらな、そんな心を見通したお化けは大好きだよと蕩ける面で言うのだ。
そして、だから愛で溶けてしまえと霊は思う。
『死んで、ねえ死んでよ百合ちゃん……』
「すやすや」
限りない無は、果たして実を犯し得るのか。思えば、叶う。それを体現しているのがお化けであるならば、或いは思いだけで人は人を損ねることが出来るのだろう。
そして、何時かは自分と一体全体一つになって幸せになってしまえと紫陽花は思うのだ。
死んでもボクが幸せにするからと。どう足掻いても届かない生者に対して触れたがる亡者の、そんな心は禍々しくもどこかいじらしい。
願いの由縁は、胸にはち切れんばかりの愛が叶わないから。
生者と死人が交じるのは現では決して無理だ。生と死に断絶された相手を愛するには、死んで貰うほかにはないと、紫陽花が思ってしまうくらいにそれは間違いない。
そのため、それが悪いと分かっていても、生きるだけで辛そうな百合を幸せにするためには、亡くさなければならないだろうと思うのだ。
紫陽花は、再び距離をとって、手元の傘を慰めに一回転。飛沫を闇夜に輝かせてから、悲しみに沈む。
『食べれないから、なんなの? 泣けないから、なんなの? ずっと凍えているのが、なんなの? ……そんなことよりもボクは、百合ちゃんを幸せにしてあげられないのが、辛い』
ああ、一緒に居たいというそれだけの願いが、遠い。せめて安らいで欲しいという思いすら、叶いそうもなくて。
自分の存在が、百合の心をどれだけ慰めているかどうか知らずに、紫陽花はそんなことを言った。当然の如くに、そんな空言は飛散し消えるはずである。
「けらけら」
しかし、それを拾うは人でなし。
相変わらずに神出鬼没を体現し、鍵とか仕切りとか何から何までの現実性を無視して湧いてきたのは楠の鬼。
膨大が故の無法者、土川楠花は、卑小であるが故の不自由、木ノ下紫陽花を暗中にて見て取り、言うのだった。
「幽霊ってんでどんなのかと楽しみにしてたら、なんだいこりゃ。張りぼてにもならないレイヤ一枚っきり。こんなんじゃ夕涼みにもならないね」
『貴女、何者!? 何しに来たの!』
夜着に余計な装飾は要らず。当然ながら何時も楠花がしているお団子も解けていた。
すると、幽霊だろうとぞくりとするほどに尖った角が垣間見えてしまうもの。あんまりの凶器を頂に示しているそんな存在が、紫陽花には酷く恐ろしいものに見えた。
思わず叫ぶ紫陽花。だがしかし、そんな幽かなばかりの存在の文句なんて大して気にすることもなく、さらりと楠花は問題発言を口にする。
「うん? そりゃ愚問だね。私はそこに寝てる子の友達で……何しに来たかって言うと……夜這い?」
『夜這いって、それ友達のやることじゃないよ!』
「なあに、明日には恋人同士になってるだろうから、細かいことは気にしないでおきなよ」
『気にするよ! 止めて!』
軽い言葉に空気は弛緩し、唐突な桃色発言に紫陽花はいやいや。ボブカットから滴るものが、宙にて幻想に消える。
百合ほどではないが、彼女も生々しい会話が苦手だった。初心のままに固定されているのだから、さもありなんというところだが。
なんだか愛らしい子だね、と楠花も思う。しかし、必死に止めろと言われても、律儀に止まることは人でなしにはそう出来ることではない。せめて百合の元へと伸ばした手を止めて、彼女は紫陽花に水を向ける。
「うーん……止めろと言うがね。私を止めるにはそれなりのものが必要さ。そうだね……なら、あんたはそこの子供の代わりに私を楽しませてくれるかい?」
『えぇ……ボクはそんなに面白いこと出来る方じゃないんだけど……怖がらせることだって難しいくらいだし』
「なら、面白い情報でもいいよ。何か楽しいことは知らないかい?」
『うーん……高子さんみたいにピーピング得意なわけじゃないし、最近の話題にはついていけないし……あっ、ここら辺で美味しい料理のお店は知ってるけど』
「ん? 高子? そりゃあの冗談みたいに背の高いお化けの……」
『あ、うん。そうだよ。彼女ボクの友達なんだ。最近は一週間前に会ったかなぁ……』
楠花の言葉のままに、適当に内を探る紫陽花。そこから最近知った県内の料理店の名前ばかりが出てくるのはご愛嬌。
そしてその中から一つ、頭頂の帽子が特徴的な【高みから人を見下ろし笑う怪異】である妖怪高女と雑じった存在である怪人、高子の思い出が転がりでた。
それを聞いた楠花は引っかかりを覚える。おかしい。もう既に《《終わっている》》筈であるのに彼女はまだ観ている。ならば、と思い鬼は先を見つめて笑うのだった。
「なるほどまだアイツが観ているなら……これから盛り上がることもあるってことだね? 良いこと聞いたよ」
『うん?』
「なあに。夜這いはもう止めってことさ。もう少し時間を大事にしてあげるよ」
『……ううん……それはいいんだけど……どうして高子さんのお話をしたら急に……』
「なあに、そこは鬼も裸足で逃げ出すお化けもいるんだってことにしておきなよ」
あれはお化けって範疇にないけれどね、とうそぶきながら暗がりに微笑む楠花に煙に巻かれる紫陽花。
幽霊は、知らない。この終わりきって不安定な世界の中で、全てが台無しになってしまう前にと鬼が焦って今日の行動に出たのだということを。
首を傾げる紫陽花。垂れ落ちる全ては音もなく闇に消える。
やがて、そっぽを向いてその笑みのままに部屋からどこかへ消えようとする楠花。その身がここに居るからどこにでも居るに変化する前。その無茶苦茶さに口を開いて驚いている紫陽花に、彼女は言う。
「それじゃあ……っと、ああそうだ。お前は先程一つ、とんでもなく戯けたことを言っていたね」
『……何?』
後ろを向いていた、彼女が振り返る。つられる可憐な髪の動きを気にも留めず、楠花は紫陽花の薄さにこそ鬱陶しそうにした。
そして、苛立ちと共に、百合の友達として身勝手な隣人に対して言葉をかけるのである。
「勝手に百合の不幸を決めるんじゃないよ、人足らず。――――百合は幸せでないと、果たして一言でもあんたに言ったかい?」
『それは……』
「あの子はきっと、辛いだろう。だが、そのどこが悪い」
『っ、悪いよ! 痛いの、あの子嫌いだもの!』
そう。近く見ていた紫陽花は知っている。百合の優しさは全て、他人に対する痛みへの忌避であることを。
そして、更には悼みを引きずって生きてもいる。それはあまりに憐れであると、生きていない者は思うのだ。
しかし、生きていたくなくても生き続けなければならない、無量の寿命を持つ鬼は突き放すように続けた。
「だからどうした、それでも痛みの中で百合は必死に生きている。余所が勝手にそれを、見限るんじゃない」
『っ! そんな……ボクは、ボクは!』
「ま、分からないならお前は勝手にするがいいさ。ただ――――私は、百合の命を尊重するよ」
無限と夢幻は等価。果てしないは存在しないと変わりない。
心の底からの言葉を吐き、そして鬼はその場を端からなかったかのように去った。
「むにゃ」
『……はぁ』
そして、台風一過の後に残るは、花ばかり。
寝言もどきの隣で、雫に濡れたスイセンがまた一つ水気を零しながら、呟く。
『それでもボクは、百合ちゃんが捨てた諦めの気持ちをこそ尊重したいんだ……ボク自身のために、死んで欲しい』
紫陽花は害意なき深き想いをその眼に灯し、しかし少女が寒さに震えることを恐れて触れることすら出来ず。
そんな幽霊の言葉は今度こそ、誰にも届かず虚空に消えていった。
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