町田百合は地獄に繋がる目を薄く塞いで生きている、少女である。
彼女の視界は常に薄くベールに覆われているし、もとより良くない視力は世界をそのままには映さない。
汚穢すらも彼女に届くまでには大いに欠けていて。
だからこそ、百合にとって世界は遍く遠いものであり、そして手を伸ばしたくなる尊い代物でもあった。
そして、もしそんな彼女が命から救いを求められたとしたら。
「私、死んじゃうだろうけど、それでもいい?」
「……いいですよぉ。百合が、せんせーを看取ってやるですぅ」
その手を握って、愛するのは当然だった。
田所釉子は、萎れかけの華のようである。今にも花冠を落とさんばかりにうつむいて、地の底を見つめて止まっていた。
けれども、彼女が正しく人であるならば、止まってばかりではいられないのは当たり前。
そして、釉子が愛に燃えてしまったとしたら。
暗雲立ちこめる未来へと一歩進むようなこともあるのだろう。
相変わらず残酷にも天辺から燦々と陽光降り注ぐ快い日の中、釉子は百合に宣言をした。
目隠しのベールの奥、見えない眼差しに美しいものを想像し、彼女は彼女へ微笑む。
首を傾げて、百合はオウム返しに言葉を繰り返した。
「もう一度、薬を使う、ですぅ?」
「そう。抗がん剤っていうんだけど、私はそれをもう一度試してみるよ」
「……前に辛かった、って言ってましたよぉ? 大丈夫ですぅ?」
「それは、分かんないかな」
彼女は遠く、空の碧を見つめる。奥に昏き宇宙を潜ませた大気の色。無量大数の恐ろしさを表面ばかりの綺麗で安堵に落とす、その様はしかしどこまでも清々しい。
そしてもとより人だって、皮膜の向こうに血や糞尿などの穢を多分に含んで膨れて三つ次元に立っている。
あらゆる全ては、一枚の奥に恐怖を隠していた。ならば、表に輝くひとひらの希望こそを大事にすることこそが、実は大切ではないか。
釉子は哲学者ではない。けれども、自ら選択することの重要さくらいは理解している。
恐さに震えるよりも、希望に目をくらませ痛い思いをしたい。
そう思ったし、そう思いたくなった。
それは全て、百合という少女のため。彼女は、心配してくれる少女の柔らかな髪を撫でつけながら、言う。
「でも、大丈夫じゃなくても。私はもう少し長く君と一緒に居たいんだ」
「……懐かれちゃったですぅ。これは困ったですねぇ」
「それは、笑顔で言うことかな? ほらほら」
「わ。ほっぺを突いちゃダメですぅ」
手入れいらずでぷにりと返すその白に釉子も少し嫉妬。けれどもその柔こさは大切に思えた。そして、指先に感じる頬に走った傷跡に心痛める。
この子はとても強がりで、でもその実何より優しい。
それこそ、こんな死に損ないのために、泣けずとも啼いてくれるくらいには。
「負けちゃ、ダメですよぉ」
「……うん」
ああ、この子は何時か誰かと手と手を取り合って、幸せになってくれるのだろう。そうでなければならないし、是非ともそうなって欲しい。
けれども、その隣に私が居ることが出来ないというのは余りに悔しい。
だから一日でも長く生きて、せめて百合という少女の幸せの一部になることくらいはしたかったのだ。
「っ、ぐ。ぅう……」
「せんせー……」
だから、当然のように延命も難しいかもしれないと囁かれながらも、以前と異なる拒絶反応とだって釉子は戦える。
投与される度に感じるのは全身の古傷を開かれているような痛み。感覚も狂って刺激の全てが苦しみと化していく。
あんなに快かった陽光ですら自分を刺し貫く熱であり、百合のへたくそな愛おしい歌声ですら不快だった。
薬で裏返ったすべては敵で、毒。故に、布団で丸くなりながら、優しさ故に痛む自分から離れられない百合に釉子は涙せざるを得ない。
「うぅ……」
弱い。幾ら愛のために頑張っていても、それでも痛苦やごっそり抜ける髪の束に、弱音は何時だって零れかねないくらいに胸元に満ちてしまう。
この頃抜け毛を気にしているのを見かねた百合が綺麗に丸く坊主に整えてくれた頭を触りながら、歯を食いしばる時間を、のろりのろりとしか進まない時を釉子は耐える。
「せんせー。ありがとう、ですぅ」
「あ……」
だから、感謝の音色を最愛から聞いた覚えだってもはや幽かで。でも。
小さく温とい手の感触ばかりは、明白な幸せだった。
彼女が彼女と会うのは、実は多くに歓迎されていたことではない。
娘を暴力で殺されかけた経験によって今度こそ他者に信を持てなくなった父母に、少女は私を信じてと願った。
また、幼子に全ての時間を預けようとする病人に文句を言う親族に、こうなった私をあなた達は愛せないくせに、という言葉で彼女は黙らせる。
そうして、二人は終わりまで共にあることが許されるようになった。少女の口約束は、愛によって守られる。
だから、百合が退院しても、釉子は愛の花をいただけたのだった。
「あー♪」
「あー♪」
毎日のように彼女らは唱和する。
殆ど変わらず下手な歌に、天上近くの上等の唄。
それらは並んで重なることはなく、けれども目指すところは共に同じく高らかに。
百合の上達は、一日二日では殆どない。けれども、釉子は知っていた。このまま良化したならば、少女の悪性の歌唱は、幾らでも美麗に届くだろうと。
才能なんて、地獄少女には欠片もない。でも、人間なのだ。心より変わりたい意思を持つ熱でもある。
願いは叶わないかも知れない。夢も覚める。だがそうだとしても、前に進む意思を持ち続けるのだけは可能なのだ。
けれども、それにだって力が必要で、最期まで燃焼し続けるのはきっと難しかった。普通なら、ダメなら途中で背を丸めて、それでお終いだ。
「らー♪」
「らー♪」
彼女にあるのは明らかな、常識外れの根性。きっと特異なまでに小さな百合の胸で無尽蔵に燃えてしまっているのは、恐らくはこの世のものではない。
故に想像するとするなら、それはあの世のエネルギー。恐らくは、地獄の炎そのものなのだ。
そう思って、思い込んだ。だから、釉子はほっとして。
きっと誰かのためにと欺いて多くを私のために生きていた私は地獄に落ちる。
でもこの骸の如き躯が彼女の心の炎のためなら、私は死んでも良いと思えたのだった。
そして、死を約束された日にちから大凡半年後。
その日はざんざん降りの大雨で、外に出れば一歩先も望めなく、また屋内でだってそれは同じだった。
冷たい手に、少女は縋り付くように抱く。
骨と皮の見目となり全盛とはほど遠く、でも未だ綺麗なまま釉子は停止しそうな自分に必死で熱を送る教え子に向けて、細く呟いた。
「あり、がとう」
「せんせぇ……」
私は幸せだ、とまでは言い切れない。
でも、彼女は彼女に胸元の脈動のように線になりそうな意識の元に、ここまで自分を活かしてくれたものに対して感謝をするのだった。
歩行に成功して学校に行けるようになってからも、忘れず毎日病院へと来てくれた百合。
自分の辛いと哀しいに触れながら、それでも元気を装って最期まで愛を向けてくれた大切には最早感謝しかない。
性から涙は出ないと聞く。でも、この整い始めた弱々しい声色は何より愛の色をして零れていて涙の如くで。
だから、釉子は必死に情を振り絞る地獄少女の本気が本当に嬉しかったのだ。
「ダメ、ですぅ……」
「ゆ、り?」
でも、アイドルだった彼女のその弱々しいシワシワの笑みが自分に向けられていることが百合は許せない。
だって、本当なら自分なんて愛されること許されない地獄の端末。
本来の最悪を隠し続けてようやく生きている私が他人に愛されるなんてそんなの嘘で、あってはならない。
愛されるなんてそんな嬉しいことは、全ての輝く世界にのみあるべき。
そういう思いもあり、大切に最期まで己を隠しているのが辛くなった彼女は。
「私は、ありがたくなんて、ないですぅ」
「あ……」
大好きなせんせーの前で、はらりと眼帯を落とす。燃え盛る炎がちらりと、紅く瞬いた。そして、その熱量を隠していた瞳は絶望の洞だ。
その途端に看護師か誰かの、うわ、という恐怖の声が百合の耳に入った。それに、感慨はない。
だが、ああ、やはり地獄を覗かせる私の瞳は誰にも許されることはなく、それを秘密として抱える自分は愛されるべきではないとは思う。
とても好きで愛したいけれど、己は汚穢であり、何より身を退くべきものだった。
「でも、好きなんですぅ……!」
それでも、つい優しくしたいくらいに私のために生きてくれたこの人がたまらなく愛おしくて、それだけの思いの塊になってしまい、己の不足を忘れ続けて今まで来てしまったのだ。
この人の回復の奇跡をどれほど願ったことか。これまで、まやかしだらけの情報の海の中、釉子のためになるものがないか探ってばかりいた毎日だった。
でも、どうしたところで痛みの日々の中、彼女の救いは死ばかり。
天国を知らなくても、地獄を理解している百合に、その末路はあまりに心苦しいもの。
「貴女には、幸せになって、欲しくってぇ……」
そして、息の根止まりそうな彼女の前に、百合は死の先を瞳にて示す。
地獄の炎。誰かの不幸で燃え盛るその中に、情の曇りを乗せて、彼女は彼女を見つめる。
「だから、私を嫌いになって下さいですぅ!」
そしてどうか、私を嫌って背を向けて、天国に行ってと願った。
「そんなの、無理よ」
「あ、れぇ」
だが、釉子は百合という地獄を抱きしめる。
少女が感じるは熱より冷たさ。でも弱い弱い最後の力でもって愛しさを伝え、そして。
「私はずっと、貴女が好き……」
末期の言葉に必死の愛を乗せて、地獄の門にそう伝えた。
蝋の翼は折れ、トップアイドルは地に落ちた。やがて病んだ彼女は痛みに止まって、だが垣間見た希望に目を晦ませ叶わぬ夢を見て。
そして、今度は釉子は望んで地獄に堕ちる。
ぽちゃん、と二十一グラムの魂が少女の瞳に吸い込まれて消えた。
「えっ?」
百合は、力なくしてだらりとなった彼女の言葉に瞬いて、そして瞳の奥に、僅かに増した熱量を知る。
ああ、彼女はきっと、私のことを好きだったから、きっと。でも、そんなのって。
「あああああああああっ! うわああああ!」
少女は誰もが、近寄ることすら出来ない程の悲鳴を上げた。
泣けずに、啼く。無様に辛い胸を押さえて引っ掻きながら、のたうって、それでも滴零すことすら出来ずに、百合は。
「っく、うぅ……せんせー……一人ぼっちは、辛いですよぉ!」
薪となり失われた愛を嘆くのだった。
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