都内まで電車で30分もかからないという交通の便の良さから、百合の住んでいる見原市はベッドタウンとして有名だ。
そもそも県内でも人口が多い方である上、路線が一番多い見原市駅の付近となると夜中まで人通りが絶えることもない。
そして大安吉日、晴れに晴れて気になるのは強めの風くらいのそんな今日。駅前のイベントスペースの前は地元出身らしい新人アイドルの初ライブが行われるということで、ごった返していた。
勿論、その殆どはオーキッドプロダクションのホームページやSNSに写真や情報が置かれているばかりの百合のことなんてこれっぽっちも知らない。故に、期待はそれほどでもない。
だが、それでも広告ビラに貼り付いた一枚の写真に惹かれるものがあり、老若男女が訪れたのは事実。
町田百合という少女は写真でもイロモノっぽく目を隠している。それをミステリアスと取るか、サービス不足と取るかは自由だ。
だが、そんな情報が完全でない状態で、どうしてか皆はその将来に夢を見ざるを得なかった。
それは、笑顔がこれまで数多生まれて消えていったアイドル達の中でも群を抜いて柔らかだったから。ただ美しいだけでなく、余裕すら感じられるその新人らしくなさ。
このアイドルは本物か、それともやっぱり偽物でしかないのか。それを直に確かめたいと思う数寄者は空前のアイドルブームということもあり存外多くあった。
故に、未だ敵でも味方でもファンでもない他人が未だヴェールに覆われた会場を囲んでいるばかり。
「町田の人気、凄いな……」
「ねー。百合ちゃんデビュー前なのに、写真一枚でこんなにお客さん集めっちゃってさー、凄いったらないね!」
「あー……俺ってとんでもないやつに告ったんだな……」
「そりゃートシくん、百合ちゃんは未来のトップアイドルさんだもの、とんでもないに決まってるよー」
「よし……」
「わ、玲央くんバッグからハッピと団扇取り出してやる気満々! これ、全部どこで買ったのー?」
「全部、生地からの手作りだ」
「一人だけ他と隔絶したレベルで気合が違うな……一緒に居てちょっと恥ずい」
「頑張って……百合」
「百合は大丈夫、ですかね?」
「お父さんお母さん、百合は間違いなく、こんなところで躓くような子ではありません。指導した私が保証します、今日のライブは成功すると」
「そう、ですね。私達はあの子の頑張りを信じないと」
当然、最前列には彼女のフォロワー達が陣取っても居たが。
「ねえ、百合のヤツ、こんな中で歌えるかな?」
「さあね……認めないわよ、あんなのがアイドルとか」
「下手だったら、石でも投げてやる?」
「はは、それも良いわね」
だが囲む中には明確に地獄から綺羅星に羽化せんとしている町田百合という少女を嫌うものも居て。
「……まだ?」
その中にも極まって害意を持った少女が、ポケットの奥にナイフを隠して白いカーテンを真っ直ぐ睨みつけてもいたのだった。
「皆さん、今日はよろしくですぅ!」
通常の女子の胆力なら逃げ出したくなるような喧騒が響く中、しかし努めずとも笑顔になってしまう百合は、機嫌よく当たり前のように裏方の集まりにまで顔を出して頭を下げる。
ぺこりとしためんこい少女に目を白黒させる二人を他所に、今回大道具に小道具も一手に引き受けている中年男性が笑顔で少女の言に応じて手を上げた。
「おう! よろしくな。さっき調べたが機材に問題はないから、お嬢ちゃんも安心しなよ」
「それは良かったですぅ。後は百合がトチらなけりゃいいだけなんで、こりゃらくしょーですねぇ」
「百合ちゃんは期待の新人って聞いてるよ? 舞台袖で聞くの、私楽しみにしてるからね」
「おう、つまりおねーさんは誰より近くで百合のお歌を聞けるですかぁ。そりゃラッキーですぅ」
「……あの、頑張って……うん」
「頑張るのは当然ですけど、おにーさんにまでそう言ってもらえるとやる気出るですぅ。今日は目にものを見せてやるですよぉ!」
百合は似合わぬえいえいおーまでして、全身でやる気を示す。すると、目にした大人たちも何となく応援したくなるものだから不思議だ。
断崖の無才は、しかし攀じ続けることで高みに近づいたせいか予想外にも天上の光と魅力すら帯びて輝く。
そんなものが、親しげに近づくのだ。無口な照明の彼でなくても、顔を赤くしてしまって然り。
「おいどうした、マキ。おめえ、三十にもなってこんな若ぇ子相手に惚れてんじゃねぇよな?」
「……それは……違うけど……うん……応援は、するよ」
「あら、牧広君にしては珍しい。こりゃ、本当に百合ちゃんにやられちゃったっぽいわね」
「ふふぅ。百合もおにーさんにファンになってもらえたら嬉しいのですぅ。百合が歌って踊るのを楽しみにして下さいねぇ」
「う……うん……確り、照らすよ」
「ぷっ。牧広君、本気出しちゃって……私もアナウンス、間違えないようにしないと」
「はは。こりゃあ良い。マキに負けずおじさんも見習っていっちょ時間が許す限りの手入れ、頑張るか!」
「皆、ありがとうですぅ!」
だがあえてそんな紅潮をからかいながら、大人たちは笑顔を重ねる。
目すら見えない、まだ歌声も聞けていない、雛の子。だが、そんな百合に裏方の彼らは期待をする。
「百合の頑張り、見ていて下さいねぇ!」
「おう!」
「勿論」
「……うん」
ああ、この子が本物かどうかなんて本職ではない我々には分からない。でも、せめてこの心優しい子を足りずとも精一杯アイドルとして飾ろう。
そんな意気は隠れども、三人に共通のものとなって通じ合う。
そして、何も知らない百合の二つ尻尾が消え去っていくまで見送った彼らは、各々の仕事に本気で向き合うのだった。
「……予想通り、百合ちゃんは全然緊張してないか。頼もしいけれど……」
そして、そんなこんなを影で見ていたマネージャーであり何より一番のファンである中井裕太は檄を飛ばすことなくやる気満々の周囲を喜ぶこともなく。
「これは、本当に最初からクライマックスってくらいに盛り上がってしまうかもな……」
万全に過ぎる現況、百合という極まって磨きあげられた輝石が失敗する可能性が殆どなくなってしまったことに、空恐ろしさすら覚えるのである。
彼には、分かってしまう。未だ、地獄の釜は開かずとも、彼女はその努めきったその実力で持ってきっと。
「オレも、覚悟しないとな……」
今日、神話を綴るだろう。
一歩。現れたゴシックロリィタの少女の演じきったその歩みのみで、ざわめきは殺された。
「百合は、町田百合といいますぅ。今日は、よろしくですよぉ」
続いて、黒幕一枚で瞳閉ざした少女の艶と愛らしさ創られた唇から語られたのは、在り来りな挨拶。
マイク越しにどこか舌足らずな小声で紡がれたそんなもの、本来はこの場の全てに届くはずもない。まさか一斉にその少女に見惚れるなんてそんな異常でもなければ、そんな、そんな。
だが奇跡は既に起きていた。不可思議なまでの沈黙はどこまでも広がっていて、最早耳に痛いくらい。
こんなの、可愛い程度のはず。愛しきカシマレイコでもないただの少女が、笑顔で立っているだけ。そんなものが、どうしてここまで目を離せなくなる程に心に響く。
誰もが、少女の背に蝶の羽を幻視した。今日より、彼女は最早蛹ではない。つまり、羽化の瞬間の厳かを感じた万人は、どうしたって溜息すら呑み込まざるを得なかったのだ。
そんなこと、百合は知らない。だが沈黙のカーテンは、最早百合の自由。そこにゆっくり手をかけ、彼女は予定通りに幕を開けていく。
「それじゃあ、唄いますぅ……親愛なるセンパイ方の歌を借りてぇ……」
この日のために、百合の歌を創ろうという動きもあった。新人アイドルがぴたりとした新曲を持って歌って踊ればどれだけ人気が出るものか、測ろうとして。
だが、そんな特別扱いを当の百合は拒み、むしろ本当はとても尊敬している先輩方に倣おうとした。だから、こうして今彼女は先達の持ち歌を歌い上げることになったのだ。
そして、稲に嫌に推された彼女の十八番、しっとりバラードなその一曲を持って百合はアイドルを始めていく。
「水面の愛、ですぅ」
ゆっくりと少女は、口を開ける。やがて、どこかで聞いたようなリズムが響きだし、僅かなざわめきの中。
「♪」
その場に聴衆を縫い留める、極みですら瞠目しかねない程の第一声を響かせる。
そして、少女は愛を唄って、踊った。
町田百合は、地獄を閉ざす門番であり地獄の最上位とも取れる。閻魔よりもあの世の苦しみを知る、貴き生命。端から彼女はそんなものだった。
マイナス。それは負ばかりを示すものではない。だって、それなくしては愛がない。悪こそ、この世のあらゆる善の番。
「ああ……」
そんな彼女だって愛されていいだろうと彼女の親は想い、そしてそんな夢は少女本人が叶えた。
「どうして、あの子は」
あれは紙一重の地獄なのに。苦しくってしかたない、唯一無二の地獄の熱で焦がされ続けている可哀想な子のはずだったけれど。
「私じゃないんだろう」
それが、羨ましいくらいに輝いていて、天上に届かんばかりの調べを奏でていて、汗すら光輝となるほどに演じきっていた。
ああ、まるでこれは天使のようで、舞い踊る彼女を見ているとこの世に地獄があるなんて忘れてしまいそう。
でも、知っている。百合という少女は本来歩くことすら難儀するほどの無力で、でも自分と違って一度もそれを嘆かずに前を向いていたから、こうして過たずに光となって心を焼く。
光を見て、闇の醜さを知る。その痛苦に思わず身をかがめながら、やっと彼女は言った。
「ごめん、なさい」
緩みにカランと、硬いものがアスファルトに落ちた音。もしいたずらに動いてそれを踏んでしまっては危ない。けれども、最早そんな恐れすらどうでも良いものだった。
彼女の凶器を握ることを忘れた手は大きく開かれ、そして。
「……♪っ!」
殺してあげたいくらいに大嫌いだった少女のために七坂舞は、涙を流しながら大きく手を振り歌を重ねるのだった。
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