第一話 地獄に落ちてしまったとしても

マイナス百合 マイナスから目指すトップアイドル

ぎゃあぎゃあとカラスが大いに鳴いた、それは、昏い、昏い一日の終りのことだった。
今より十六年と少し前。町田家に、とある赤子が生まれた。性別は、女である。そして、何より彼女の属性は。

「うあぁ」
「なっ!」

地獄だった。

最初から開いていたその瞳は、窮まっている。腐りを過ぎて終わっていて、更には死んだ後の何かだった。そして、残酷にも、幸せな未来などそこには映っていない。
例えるならそれは、死んだ魚の眼。死んで終わり切って、生きているはずのない光のない黒。つまるところ、それは明らかに死を経験した瞳を持っていたのだ。

「ほぎゃ、おぎゃ」
「これは――」

既に終ってしまっている。
或いは、見開いた際にそんな彼女を取り落とさなかったことこそが、彼彼女らの家族の証明だったのかもしれなかった。
血が繋がっているという確信すらなければ、この穢れに触れ続けることなんてあり得ないのだから。
それくらいに、彼女の瞳は可愛さを損なう不気味だった。

「可愛そうな、子」
「ぎゃ?」

しかし最早理解しがたい程の親の愛ゆえに、町田百合という生き物は彼女は蠕動を許されることになる。

「ぎゃ、うぅ……」
「百合……頑張るのよ……」
「ぎゃ」

彼女は、喋るのも、立つのも、顔を上げるのも、何もかもが鈍かった。それこそ、死ぬ才能には恵まれていても、百合という子供には生きるための力が弱かったのだ。
ただ、臓腑は無意味に健康で、だからこそ四肢末端に弱みを持ち長く地虫のように這いずり回る幼女に、しかし両親ばかりは愛を向け続ける。
囀る言葉もまとまりきらず、地面の断末魔のような声色を親に向けて、それすら辛いことに少女は表情を哀に崩す。

「かぁ、とう……ぅう……」
「大丈夫だ。百合は何も悪くない」
「そうよ。あなたは幸せになっていいの」
「かぁ、とう……」

こぼれない涙。終わった洞から流れない湿潤を、百合は何度恨んだことか。
彼らの発したそれは、嘘ではない。複雑な思いから出力された本音。あまりに真摯に紡がれたその真っ直ぐは、小さな百合という生き物の胸元にざくざくと刺さっていく。
ああ、これが罵詈雑言であったら、薪に出来たのに。しかし、これは大切にしなければ人でなしになってしまう無理が発した思いやりばかり。

「ダメ……でぅ」

何が、悪くないだ。町田百合という存在はあなた方のステキな未来を時間を生にしがみつくことで著しく現在進行系で損ない続けている。
幸せになっていいなんて、そんなことあり得ない。だって、百合の本心は底から全ての人間の足を引っ張ってこっちまで引き込みたがっている。

どうして、百合だけなのかと。

言葉の締らずまとめ切れない無力と同じく、こんな愛にくるまったステキな言葉すら受け止めきれない自分は果たしてゴミクズで。

「ダメ、だぅ」

そんな自分を町田百合として産んでしまったあなた達は尊くとも、しかし町田百合なんていう役割を存在させているこの世界なんてどう考えたって。

「……ダメぇっ!」

素直に温かみに喜べず、決して哀しみに泣けない。そんなのばかりが生まれて数年間の間ずっと。

「百合……よし、よし」
「ぁあ」

だから分不相応な温かみの中、百合は自身が幸せであるこの世なんて地獄に落ちてしまえば良い、と思わずにはいられなかったのだった。

 

博愛なんて、地獄に存在しない。
そして、父母以外は百合の瞳の中の地獄を理解してしまえば、最早彼女を愛することなんて無理だった。
だから、隠れて百合を縊ろうとした父方の祖父母から逃げるように離れた百合の両親は、自然二人ぼっちになってしまう。

あんなに私達を祝福してくれていた人ですら信じられないなら、もういい。
そんな風に人を信じられなくなって寂しい想いをしてしまっていた親二人。
やがて心に入った罅は、仕事にだって影響する。相手の手をしっかり握れず、持ち物を手放すべき時に手放せず、なんだか全てがチグハグで、どうにもいったい上手くいかない。

「ダメ、だな僕は」
「そんなこと、ないわ」

勿論、聡明な夫婦は全ての原因が愛すべき娘にあるとは知っている。
あの子さえ普通であれば、全ては上手に周り、自分のダメさなんて一生分かることもなかったのかもしれなかった。

「いや、ダメさ。でも……だからこそ、百合には感謝だ」
「……そうね」

しかし、盲目な父母は、愛の試練を良しとする。

これから百合は、ひょっとしたら歩けないかもしれない。歌うのどころか、話すことだって難しいだろう。そして、あの瞳の地獄は消えないのかもしれない。

でも、そんなことであの子への愛は消えないのだ。
順風満帆、嵐なんてなく生きていたって、そんなの意味がない。
何しろ、あの未だ一度も笑ったことのない百合の、その泣きそうな何時もを見るたびに幸せにしたいって思う熱い心は、そんな彼女のために起こってくれたのだから。
この熱さえあれば、たとえ死んだって生きていられるだろう。だから、頑張れる。

「これからさ」
「そう、思わなくちゃね」

それに、何より百合という子は賢いようである。話せなくたって、彼女が今を哀しんでいることなんて手に取るように分かってしまう。
それはつまり、現況と不足を判じているということであり、今はそれが哀しみにしか働いていなかろうとも、それが未来の利口になるのだと、夫妻は願ってやまなかった。

アパートの一室。全てがデータで管理できるその前の頃。
何か仕事の残りだろうか、言葉少なにしかし確かに心通じ合わせつつ二人が紙をめくり、何かを書き込む音ばかりが暫く響いた。
しかし、それでも頃合いというものがあり、いつまでも愛娘を放ってまでやるべきことでもない。
夫は帳簿を閉じ、妻に言う。

「ちょっと、見てくるよ」
「ええ」

見てくる。それは、大事な娘に対して。しかし、それは地獄の洞を覗きに行くことと同義。
それすら楽しみに変えてしまうものが愛だとするなら、それは狂っていて。

「百合」
「おー」

だからこの世で何より確かで価値のあるものなのだろう。それを、無駄に賢しい百合は何より分かっていた。
だから、努めて行っていたはいはいを止めて、お父さんに彼女は片手をあげて挨拶。
小さな小さな手のひらは、そっと父に握られ、暖まる。
喜色は未だ出せない。けれどもこれは何より心地よくって、頼もしい。だから、これ以上は望んではいけないと思うのだけれど。

「ぅ」
「はは」

そんな娘のためらいを知っているからこそ、笑顔で父は百合を抱く。
ああこの子は小さく、柔らかで、軽く、そして。

「わ」
「あぁ……」

彼はそっと妻が娘のためにと作ったレースの目隠しを退かし、その瞳の恐ろしさを感じる。
ああ、やはりこれはもう手がつけられなくて、施すのは無意味で、何があっても変わらないのかもしれないけれど、でも。
だがもう、それくらいで愛は死にも傷つきもしない。ただ愛らしいばかりの娘の頬を大きな手のひらが撫でた。

「とぅ?」
「……そうだ、お父さんだ、よしっ」
「たぃ!」
「うん。高いか」

そして、だらりとした全身の百合は容易く上まで引き上げられ、ひらりと、少女は視界を覆うレースのカーテンの向こうに広がる世界を高みから望む。
洞より暗い、希望なき闇の底。そんな瞳はしかし果てしなく遠い全てを感受する。光り輝く全てを父の肩の上から窓越しに見下ろし、その素晴らしさを百合は何より楽しんだ。

幼子の中の少女は、全てを綺麗だと、思うのだ。地獄の中から見上げて、全て遠い星のようだと考えて。

勿論、そんなことを父は知らず、ただ未だ笑みにならない娘の喜びを歓迎し、言った。

「百合は、肩車が好きだね」
「そ!」
「玩具より、僕の肩が好きというのは嬉しい、といえばそうだけれど……」
「あぅ?」
「はは……これじゃ、僕が何時百合離れ出来るか分からないや」

好きである。手放したくなんて、決してない。
だが、このまま愛玩してばかりで百合が幸せになれる筈なんてなかった。
だから、きっとこの子は誰かと一緒に傷つきながら成長して、何時か本当に涙を流してしまうかもしれない。それが、何より父親には地獄より怖くってたまらなかったけれども。
それでも、少女の幸せは自分たち以外にも広くあってほしいと願うのだった。

身じろぎ。だが少女は離れるという言葉に敏に反応した。絶望を奥に抱く百合は、別離に敏感だ。
いやいやをしたい気持ちをしかし、子は理性で堪えて悲しい表情をする。レースの奥で眦がくにゃり。そんな全てが、親にはいじらしいものに映った。

「うぅ……」
「大丈夫。離れると言っても。それは心じゃない」

そう。たとえ離れて守れなくても、帰ってくる場所にはなれる。
愛として、優しく。何より安心できるところになろう。そういった気持ちで、心の全てを夫妻は既に地獄に捧げていて。ある種絶望的で。

「ずっと、僕は、僕たちは百合、君を愛しているよ……それこそ、たとえそのために地獄に落ちてしまったとしても」
「ぁう……」

しかし、だからこそ、二人は正しく百合の親に違いない。
這い回る自罰に疲れ果てた赤ん坊は、故に、彼の胸元で安堵して寝入るのだった。

 

「ぅう」

そして少女は今日も、夢に地獄を瞼の裏に見続ける。


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