第二十六話 地獄じゃない

マイナス百合 マイナスから目指すトップアイドル

七坂愛はこれまで姉という人を今ひとつ知らなかった。
なにせ、姉だという舞は自分のことをよく見てくれないし、直ぐお父さんお母さんと口喧嘩を始めるし、何よりお家に帰ってくることすら希なのである。
また寒そうな服に強い匂いを纏う目つきの悪いお姉ちゃんというものはまた、子供心に怖いものだった。
家に帰り、紙幣を丸裸に引っ掴んで出ていく彼女になんと声をかければ良いのか分からず、父の怒声に紛れ込むように愛は事実だけを何時だって姉に呟く。

「おねえちゃ……」
「っ」
「あ……」

その都度何か言いたそうにこちらを見て、でも何も語らずアイシャドウの中に瞳埋もらせ諦め去って行く舞の小さな背中を一度思ってしまうと、愛も胸締め付けられるものを覚えざるを得ない。
私は幸せである。お父さん母さんに名前の通りに愛されて、誰だって得意をこなしただけで褒めてくれて、そもそも守ってくれる皆のその手が温かいから。
でも、自分より七つほど上というお姉ちゃんはそんな温かいものから背を向けて、毎度どこかに行って返ってこないのだ。

お父さんはこう言った。アイツはダメなんだ、と。
お母さんはこう呟いた。あの子をまともに育ててあげられなかった、と。
その度縋り付くように、彼らは幼子を口乾かぬまま抱いた。

「おねえちゃん、そんなに悪い人?」

しかし愛には皆が姉に対して諦めきっているのがてんで分からない。
人は変わることくらい知っているし、あの人はまだ生きているのに、と考えて何時も少女は首を傾げる。

そして、そもそも姉はあまり会ってくれない意地悪だけれども、心底悪いようにも妹には思えなかったのだ。
だって、あの人は乱暴男子と違って人を殴らないし、だだっ子の友達と違って泣きわめいたりしないのに。

「あたし、全然分からない……」

他人からその昔姉が同級生に暴行したのだということを聞いてはいた。
愛は、姉の彼氏だったと口にする男の人に危うく蹴り飛ばされそうになったことだってある。
誰も彼も姉のことを語るときの目つきが酷く悪く、またどうしたってあの人のことについて出てくるのは悪口だ。
そして、それだけ。なるほど他人からしたら、姉はきっとろくでなしに違いないのだった。

でもでも、それでも。その小さな体には大きな頭を振って、愛はこう考える。
でもあの人は、死んで地獄に落ちてさえいないのだから、まだやり直せるのでは、と。
そして、当然愛は舞と姉妹をやり直したかった。
好きではなくむしろ苦手だけれども、一人では姉妹になれないものだから。

どうしたってあの人は私の対。それが今極端に反対にあっても、それでも諦める理由にはならないのだと、未だ足りないおつむで愛はうんうんとぼんやり考えていた。

「きゃー!」

でも、そんな暗い思索で毎日を潰すことを少女はしない。
鬱々とせずに、ときにテレビ画面に端末画面にてキラキラ可愛いものに釘付けになっていたりもする。
ちびっ子らしく、愛は画面の向こうに手をフリフリ。同調しきれない踊りを損ねながら、歌に遅れても、それでも下手を楽しんだ。

「愛は、アイドルが好きなのね」
「うん! それにさっちゃんも、いーくんも、皆アイドル好きだよ!」
「ふふ……私の小さい頃からアイドルはブームだったけれど……いやきっと定着してるのね」
「ららー♬」
「お上手ね」
「うんっ! あのね、あたしせんせーにも褒められたんだ! 才能あるよって!」
「そう……」
「んぅ?」

だがそうして愛がアイドルの真似事をしていたりすると、また母の視線が時に憂鬱に沈む場合があった。
何時もは、どうしてか分からない、首を傾げるばかりの出来事。
だが、その日何度も憂いに沈むことに飽いたのか、とうとう母は愛にこう呟くのだった。

「あのね。実はお姉ちゃんも、アイドルが好きだったの……」
「おねえちゃん、も?」
「ええ……それこそ踊ってぴょんぴょん跳ねているところとか、そっくりで……うぅ……」
「おかーさん?」
「ごめんね……ホント、どうしてこうなっちゃったのかしら……」

その時に愛が識ったのは、姉が自分と同じ情熱を持っていたという事実。
母は彼女も彼女の微笑みもどこかへ消えたのに、涙を零す。
だが、愛はそのことをこれっぽっちも負の方向に考えなかった。三つ編みが持ち上がらんばかりに大きく跳んで、彼女はこう言い出す。

「やった、あたしおねえちゃんに似てるんだ!」
「あ、い……?」

これには、今度は母親が首を傾げる番である。
これまで両親はあのどうしようもないと決め込んだ舞のことを当然のごとく愛おしいばかりの愛だって疎んでいると思っていた。
しかし、そんなことはないどころか、これは。
口を開けたままの親に対して、代替ではない一人の妹は姉を思いながら、こう決めるのであった。

「なら、あたしおねえちゃんがなれなかった、アイドルになるよっ!」

そんな宣言のような稚気が先走って出た言葉に、しかし親は何も返すことなく。

「愛が妹をこんなに頑張ろうとしているのに、私は、あの子に……親らしいこと、本当にやろうとしていた?」

少女はただ笑うだけの人形ではなく、また子は自分をくすぐるばかりが役目ではない。そんな当たり前をあまりの痛みに彼らは忘れていて。

「頑張ること、諦めてはダメね……」
「おかあさん?」

下から見上げる大粒鳶色の優しい気遣いを受けて、もう涙は落ちない。
母は自分たちが間違っていたことに、ようやく気づいたのだから。

「お姉ちゃんに私、謝るわ……許してくれなくても、何度でも」
「えっと……そうしたらおねえちゃんに、あたしまた会える?」
「ええ。勿論よ」
「やったー!」
「ふふ」

顔を上げて前を進むためにもう、泣いている暇もない。

 

しばらく経ち、多くのぶつかり会いの後、変わらなかった父が家庭から去った。
そして、その後に姉が家に帰るようになる。

「……ただいま」
「お帰りなさい」
「おかえりー!」

心変わる事柄でもあったのか、存外舞は素直だ。
家に戻ったどころか彼女はブリーチしていた髪を黒く戻し、むしろ優等生の格好を真似て結果普通の少女みたいに学校に通うようにすらなっている。
ただ、未だ心に傷の付いた舞は保健室登校から中々抜け出せていないし、別れた彼氏に脅されるなどしてしばしば警察の厄介になることもあった。

そして、母も内心平静ではない。
頑張ろうとは決めたが、最愛だった相手がいなければ虚しさを感じるのは仕方のないこと。
増やした仕事の労に心療内科の薬が影響を及ぼしているのか、咄嗟の眠気が最近の不安だった。

残った愛だって辛くはある。
優しくしてくれるばかりだったお父さんに去り際に告げられたお前も一緒なんだなという言葉は未だに胸に引っかかっているし、暗くなりがちな母と姉の前で元気をするのは疲れて仕方ない。
この頃、なんだか愛ちゃん大人びたね、と他学年担当の先生に言われた際に笑顔を壊してしまったことなど、特に彼女には忘れられないことだ。

「おねえちゃん、いい匂いするね!」
「分かる? 実は美味しいって評判のパン屋に行って、メロンパン買ってきたんだ」
「もうっ、通りで帰りがちょっと遅いと思ったのよ……あまり買い食いは……」
「別にこれぐらいは良いでしょ。ほら、愛の分も買ってあげたよ?」
「わーい! あむっ!」
「ぷっ。たぬきみたい」
「ふふ……可愛いわね」
「やい、ひゃぬきさんみらい?」
「こら、食べながら喋らないの」
「そうそう……あ、本当に美味しい、コレ」

だが、そんな傷がどうした。それくらいで彼女らが頑張ることを止める理由にはならない。
何もかも、元通りではない。だが愛を基に七坂の家族はその形を取り戻そうと必死だ。
笑顔を作れなかろうとも、それなら似たように歪める。そして、下手なそれを認めて泣かずに笑い合うのだ。

「……夕飯も、ちゃんと食べるのよ?」
「勿論」
「はーい!」

家族が、家族をするのはどうしてか。
それは、根底に互いに対する愛があるからだと、七坂の人達は信じていた。
勿論離婚して消えていった父親の例を挙げるまでもなく、そんなの夢のようなものだ。
でも、夢を目指して何が悪いのかと、彼女らは思っている。

そして。

「らー♪ あー……うう、難しいよー」
「うわあ……本当に凄いわね、この百合ちゃんって子」
「……そりゃ、当然だよ」

最近舞が再びハマりだしたアイドル、ひいては町田百合という少女の奏でる音を皆で聴き、彼女らは心を一つにしたりもした。
この少女は愛を歌っていて、それどころか確信を持ってそれを語っているようですらある。
確かに、この歌唱力は上等を超えた破格だろう。だが、それよりもずっとこの心を歌える心こそが尊いものだと傷だらけの家族は思った。
故に、三人は百合の強いフォロワーとなる。

また、その百合こそが一度全てが壊れた原因と知りながらも、彼女らは。

「おねえちゃん、何時か百合ちゃんに謝れたらいいね」
「……出来る?」
「出来るよ」

それと向き合うことを諦めずに、輪となって。

「だってあの子は、私達も地獄じゃないもの」

これからも、すべての罪と向き合うのだろう。


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